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Lossランクの反逆者

第3話 第3話

第3話

第3話

亀裂が走った。

 駐車場のアスファルトを蜘蛛の巣のように割りながら、何かが地面の下から迫り上がってくる。コンビニのガラス越しに見えるその光景は、現実の皮膚を内側から引き裂くようだった。空間が軋む音。金属を曲げるような、あるいは巨大なガラスに罅を入れるような、聴覚の奥を刺す異質な周波数。蛍光灯が明滅し、棚のペットボトルが微かに震えた。店内の空気そのものが粘度を増したように重くなる。

 歪域。候補生時代に教本でしか見たことのない単語が、今、目の前で現象になっている。

 駐車場の女子高生が動けなくなっていた。メロンパンの袋を胸に抱えたまま、足元に広がる亀裂を見下ろして硬直している。当然だ。一般人が歪域の展開に巻き込まれれば、まず動けない。霊素濃度の急激な変化が三半規管を狂わせ、平衡感覚を奪う。訓練を受けた異能者でさえ、初めての歪域では数秒の硬直が起きると教わった。

 俺の体は考えるより先に動いていた。カウンターを飛び越え、自動ドアに駆け寄る。ドアは——開かない。電子制御がすでに歪域の干渉を受けている。ガラスの向こうで空気が乳白色に濁り始めていた。

「おい」

 背後から声がした。振り返ると、常連の老人がイートインのカウンター席に座ったままこちらを見ていた。さっき帰ったはずだ。いや、違う。紙コップが二つ目だ。戻ってきていたのか。老人の顔には困惑があったが、恐怖はまだなかった。外で何が起きているか、見えていないのだろう。

「外に出るな。奥に下がってください」

 俺は老人にそう言いながら、自動ドアの脇にある手動解錠レバーを引いた。非常用。鋳環庁の施設でも同じ仕組みだった。ガラスが重い音を立てて横にずれる。その隙間から流れ込んできた空気が、肺を灼いた。

 霊素濃度が異常に高い。訓練で使っていた霊素検知の感覚——いや、俺にそんな感覚はなかったはずだ。Lossの、何も持たない人間に。なのに体が覚えている。この圧は危険だと、骨が知っている。舌の上に金属を舐めたような味が広がり、皮膚の表面を無数の針が撫でる感触があった。

 構わず外に出た。

 駐車場の景色が変わっていた。アスファルトの亀裂から黒紫の靄が立ち上り、コンビニを中心にした半径五十メートルほどの範囲が、薄い膜のようなもので覆われていた。結界ではない。歪域そのものが作る空間の境界。外の世界が膜を通して歪んで見える。街灯の光が曲がり、道路の向こう側のビルが水底に沈んだように揺らめいている。

 女子高生は駐車場の中央で膝をついていた。顔が蒼白で、呼吸が浅い。霊素酔い。一般人が高濃度の霊素に曝されると起こる急性症状だ。意識はある。まだ間に合う。

「立てるか」

 駆け寄って肩を掴んだ。制服のブレザー越しに伝わる体温が異様に低い。女子高生の目が俺を捉えたが、焦点が合っていなかった。唇が何かを言おうとして声にならない。瞳孔が開ききっている。霊素酔いの典型的な所見だと、候補生時代の救護訓練の記憶が告げていた。

 そのとき、亀裂の最も大きなものから、それが這い出てきた。

 災獣。

 歪域から現出する異形の存在。教本の図版でしか見たことがなかったそれは、図版よりもはるかに醜悪だった。体高は二メートル近い。四足獣の骨格に昆虫の外殻を被せたような体躯。頭部に当たる部分には目が七つ、不規則に並んでいる。そのすべてが、俺を見ていた。

 口腔から滴る粘液がアスファルトに落ちると、ジュッと音を立てて表面が焦げた。酸性。あれに触れたら肉が溶ける。

 鋳環庁の実働部隊なら、この規模の歪域にはBランク以上の異能者が二名以上で対処する案件だ。結界で封じ、術式で攻撃し、異能核を破壊して消滅させる。教科書通りの手順。必要な異能ランク。最低でもC。

 俺はLoss。術式は使えない。結界も張れない。霊素を練ることすらできない、はずの人間だ。

 だが、目の前で女子高生が膝をついている。店の中には老人がいる。歪域の膜は外部との通信を遮断する。通報は届かない。鋳環庁の観測網が歪域を検知して部隊を送り込むまで、最短でも十五分はかかる。教本に書いてあった数字だ。

 十五分。この災獣を前にして、一般人が十五分持つわけがない。

 俺は女子高生を背中に庇い、災獣に向き直った。

 武器はない。異能もない。あるのは候補生時代に叩き込まれた格闘術の基礎と、コンビニのモップだけだ。モップ。冗談みたいだ。それでも俺の手はバックヤードから引っ掴んできたアルミ柄のモップを握り締めていた。いつ取ったのかも覚えていない。体が勝手に、戦う姿勢を作っている。

 災獣が動いた。

 速い。四本の脚が地面を蹴る衝撃で、足元のアスファルトがめくれ上がる。正面突進。巨体に似合わない敏捷性。俺は女子高生を横に突き飛ばし、モップの柄を斜めに構えて突進の軌道から半身ずらした。

 外殻がモップの柄をかすめた。アルミが飴のように曲がり、衝撃で腕が痺れた。肩から指先まで感覚が消え、一瞬、握力が失われかける。立っているのがやっとだ。だが災獣の突進は逸れた。俺の横を通り過ぎ、駐車場の端のフェンスを粉砕して止まる。

 老人がコンビニの入口から顔を出していた。

「中に入れ。入口を閉めろ!」

 叫んだ。老人は女子高生の手を引き、店内に引きずり込んだ。ガラスのドアが閉まる。それだけで安全になるわけがない。だが遮蔽物があるだけで、数秒は稼げる。

 災獣が反転した。七つの目が再び俺を捉えている。二度目の突進に備えて曲がったモップを構え直したが、手が震えていた。異能者でも何でもない人間が、災獣と向き合っている。状況の馬鹿馬鹿しさに笑いが込み上げそうだった。

 災獣は突進しなかった。

 代わりに、尾が来た。

 視界の端を黒い塊が薙いだ。回避しきれなかった。尾の先端が腹部に直撃し、俺の体が宙を舞った。駐車場のアスファルトに叩きつけられ、背中から全身に衝撃が走る。息が止まった。口の中に鉄の味が広がる。後頭部がじんと熱い。視界が二重に揺れ、夜空の色が滲んでいた。

 立て。まだ動ける。

 膝をついて立ち上がろうとした瞬間、災獣の影が俺を覆った。見上げる視界に、七つの目と牙の並んだ口腔。酸の粘液が顔の横に滴り、アスファルトが焼ける匂いが鼻を突いた。

 前脚が振り下ろされた。

 腹を、貫かれた。

 痛みは最初、なかった。あったのは衝撃だけだ。体の中心を何かが突き抜けた感触。視線を落とすと、災獣の爪が腹部から背中へ貫通しているのが見えた。自分の体なのに、他人事のように冷静に観察していた。血が爪を伝って地面に落ちる。赤い水溜まりが広がっていく。

 爪が引き抜かれた。支えを失った体が崩れ落ちる。血溜まりの中に倒れ込んだ俺の視界が、急速に暗くなっていった。アスファルトの冷たさが頬を打つ。その冷たさだけが、まだ自分が生きていることを教えていた。

 コンビニのガラス越しに、老人と女子高生の顔が見えた。叫んでいる。声は聞こえない。耳がもう音を拾っていない。

 死ぬのか。

 ここで。コンビニの駐車場で。モップを握ったまま。

 Lossとして生まれ、Lossとして死ぬ。何も成せず、何も残さず。鋳環庁の記録にすら名前が残らない存在が、異名もなく、ただの民間人被害者として処理される。それだけの終わり方。

 ——ふざけるな。

 体の奥底で、何かが軋んだ。

 骨ではない。筋肉でもない。もっと深い場所。細胞の一つ一つが沸騰するような、あるいは長い眠りから叩き起こされるような衝動が、背骨を伝って全身に放射された。

 黒紫の粒子が噴き出した。

 傷口から。指先から。目の端から。俺の体の至るところから、暗い色の光が溢れ出していた。血溜まりの赤が黒紫に染まり、地面に触れた粒子がアスファルトを侵食していく。痛みが消えた。代わりに、体の中を灼熱の奔流が駆け巡る感覚。これは——何だ。これが、俺の中にあったのか。

 視界が白く灼けた。意識が遠のいていく。自分と自分でないものの境界が溶ける。腹の傷口がまだ開いているはずなのに、痛みを感じない。血が流れているのかすらわからない。わかるのは、体の内側から外側へ向かって、得体の知れない力が溢れ出しているということだけだ。

 災獣が後退していた。七つの目が怯えを映している。異形の獣が、怯えている。

 俺の口が開いた。声帯が震えた。だが、俺の意志ではなかった。体の奥底に巣食っていた何かが、俺の喉を使って言葉を紡いでいる。

「——喰わせろ」

 意識が、落ちた。

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