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Lossランクの反逆者

第2話 第2話

第2話

第2話

コンビニの夜勤は、思っていたよりも静かだった。

 二週間前にあの求人チラシの番号に電話をかけ、翌日には面接を受けた。履歴書の職歴欄は空白。学歴も中等部までしかない。鋳環庁の訓練候補生という経歴は一般社会では何の意味も持たない。それでも店長は俺の顔をちらりと見て、「明日から来られる?」とだけ言った。志望動機も聞かなければ、空白の職歴にも触れない。人手不足は異能社会の底辺にも平等に降りてくるらしい。

 午後十時から翌朝六時まで。棚の補充、床の清掃、廃棄商品の仕分け、検品、レジ対応。覚えることは多かったが、術式の理論体系を暗記することに比べれば呼吸をするようなものだった。体が動く。手が届く。それだけで成立する労働。異能の有無を問われることは一度もなかった。

 一番きつい時間帯は午前二時から四時だ。客は途絶え、蛍光灯の白い光だけが店内を満たす。冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸り、BGMの有線放送が誰も聴いていないJ-POPを流し続ける。その静寂の中で俺は黙々とおにぎりの棚を前出しし、弁当の消費期限をチェックし、ホットスナックのケースを拭く。

 考えないようにしていた。

 だが考えないようにすればするほど、頭の中を巡るものがある。鋳環庁の白い部屋。反応しない測定器。事務的な声で読み上げられた「Loss」の二文字。美咲の震えた指先。雨。それらが脳裏をよぎるたびに、俺は手を動かした。棚を拭く。床を掃く。動いていれば、少なくともその間は何も考えずに済む。

 そんな夜勤が十四日目を迎えた夜のことだった。

 午前一時。レジの向こうに据えられた小型テレビが、ニュース番組を映していた。

 俺は揚げ物のトレーを入れ替えながら、画面を横目で見た。見なければよかった。

『——鋳環庁が今期の新人異能者ランキングを発表。注目は史上最年少でAランク認定を受けた神崎颯太さん、十六歳です』

 画面の中で、見覚えのある顔が笑っている。白い訓練服ではなく、仕立ての良いスーツを着た神崎が、インタビュアーのマイクに向かって何かを答えていた。背景には鋳環庁の紋章。あの金属質の徽章は、候補生時代に毎日見上げていたものと同じだ。

『異能者としての抱負は?』

『この力は自分だけのものじゃないと思っています。社会のために使っていきたい』

 模範解答。神崎らしい。訓練時代から、あいつは常に正しい言葉を選ぶことができた。正しい術式を、正しいタイミングで、正しい出力で放つのと同じように。俺たちは同期だった。同じ訓練場で同じ術式基礎を叩き込まれ、同じ食堂で飯を食った。あいつは毎朝五時に起きて自主訓練をしていた。俺もそうだった。違ったのは、結果だけだ。

 俺は視線をテレビから外し、トングでフランクフルトを掴んだ。金属の感触。測定板の冷たさが一瞬だけ蘇り、すぐに消えた。

 感情を殺せ。お前はもう異能者じゃない。コンビニの夜勤スタッフだ。時給千二百五十円の、ただの人間だ。

「——にいちゃん、コーヒー」

 常連の老人が百円玉をカウンターに置いた。毎晩午前一時に来て、セルフのコーヒーを一杯だけ買っていく。名前は知らない。老人も俺の名前を聞かない。それでいい。ここでは誰も誰の過去を聞かない。

 レジを打ちながら、テレビの神崎がまだ喋っていた。音量を下げたいと思った。だがリモコンはバックヤードだ。老人がコーヒーを淹れ終わるまでの数分間、俺はAランク異能者の輝かしい未来を聞かされ続けた。マシンが豆を挽く低い振動が足元から伝わってくる。苦い香りが漂ってきて、不意に鋳環庁の食堂を思い出した。毎朝、訓練前に飲んだ薄いコーヒー。神崎はいつもブラックで、俺は砂糖を二本入れていた。そんなどうでもいい記憶ばかりが、妙に鮮明に残っている。

 老人がカップを持ち上げ、一口啜った。湯気が皺だらけの顔の前で揺れる。

「テレビの兄ちゃん、知り合い?」

 不意に言われ、手が止まった。老人はテレビを見てすらいなかった。俺の視線の動きだけで察したのだろう。

「いえ」

「そうかい」

 老人はそれ以上何も聞かず、コーヒーを持って出ていった。自動ドアが閉まる音だけが残った。冷たい夜気が一瞬だけ頬を撫で、すぐにまた空調の温い空気に呑まれた。

 もう一つ、気になることがあった。

 三日前から、右腕が疼く。

 最初は筋肉痛だと思った。段ボールの荷下ろしで腕を酷使した翌日から始まった鈍い痛み。だが筋肉痛なら二日で引く。この疼きは引くどころか、日を追うごとに深くなっていた。骨の芯に熱い針を刺されているような、そういう種類の痛みだ。

 午前三時。客が途絶えた店内で、俺は棚卸しのリストを片手に在庫を数えていた。缶コーヒーの列。ブラック、微糖、カフェオレ。指先でひとつずつ数えながら奥へ手を伸ばしたとき、右腕の疼きが跳ねた。

 不意に、強く。

 反射的に手が握り込まれた。掌の中にあった缶コーヒーが、くしゃりと潰れた。

 アルミの悲鳴のような音が静まり返った店内に響く。俺は自分の右手を見下ろした。百九十ミリリットルの缶が、紙コップのように握り潰されている。中身のコーヒーが指の間から滴り、床にこげ茶色の水溜まりを作った。

 何だ、これは。

 腕力の問題ではなかった。候補生時代の体力測定でも、素手でスチール缶を潰せるような握力は計上されていない。明らかに異常な力。だがそれよりも、疼きのほうが気になった。缶を潰した瞬間、右腕の痛みが一瞬だけ消えた。快感に近い解放感。そしてすぐに、前よりも深い疼きが戻ってくる。

 潰れた缶を見つめていると、濡れた掌にかすかな違和感があった。目を凝らす。蛍光灯の光の下で、指先に何かが纏わりついている気がした。黒い——いや、気のせいだ。コーヒーの汚れだろう。

 俺は缶をゴミ箱に捨て、モップで床を拭いた。手を洗い、新しい缶を棚に補充した。在庫リストに廃棄一本と書き込む。ボールペンを握る右手がまだ微かに震えていた。

 それだけのことだ。缶が一本潰れた。ただの事故。

 ——ただの事故のはずだった。

 午前四時を過ぎた頃から、疼きの質が変わった。右腕だけだった痛みが、肩を越えて胸の奥にまで広がっている。心臓の鼓動に同期するように、ずきん、ずきん、と脈打つ。まるで体の中に異物が入り込んで、出口を探しているかのような圧迫感。

 俺は何度か深呼吸を試みた。過呼吸の類だろうか。候補生時代の訓練で極度の緊張状態に置かれたとき、似たような症状が出た仲間がいた。だが俺は今、緊張する理由がない。コンビニの夜勤だ。命を脅かすものは何もない。

 それなのに、体が警告を発している。何かが来る、と。

 午前五時十五分。空が白み始めた頃、常連の女子高生が入ってきた。制服に指定鞄。こんな時間に通学路のコンビニに寄る早起きな生徒。毎朝メロンパンとカフェオレを買っていく。俺が袋に入れると「ありがとうございます」と律儀に頭を下げる、それだけの関係だった。

 会計を済ませた女子高生が自動ドアを抜けて出ていく。その背中を見送りながら、俺はレジに手をついた。

 疼きが、止まった。

 唐突に。まるでスイッチを切ったように、右腕の痛みが消失した。安堵する間もなく、それよりも異質な感覚が全身を貫いた。

 空気が——重い。

 店の外だった。ガラス越しに見える駐車場の景色が、わずかに歪んでいる。アスファルトの表面が陽炎のように揺らめき、街灯の光が不自然に屈折していた。早朝の空気にはありえない現象。まだ五月の朝で、地表が揺らぐほどの熱など発生しない。

 女子高生が駐車場の端で足を止めた。彼女も気づいたのだろう。振り返った顔に、困惑がある。メロンパンの袋を抱えたまま、彼女は足元のアスファルトを見下ろしていた。亀裂が、彼女の靴先に向かって這うように伸びている。

 俺の右腕が再び疼いた。さっきまでとは比較にならない強さで。肘の内側が裂けるような痛みに、思わずカウンターの縁を掴んだ。指の跡がステンレスに残るほどの力で。

 外の空気が——歪み始めている。

 候補生時代の教科書が脳裏を過った。特定条件下で空間の霊素濃度が臨界を超えたとき、現実空間に異常領域が生成される現象。その名称は。

 歪域。

 自動ドアの向こうで、駐車場のアスファルトに亀裂が走った。

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