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Lossランクの反逆者

第1話 第1話

第1話

第1話

測定器の針が、動かない。

 白い部屋の中央に据えられた異能測定装置《鋳環式・霊素計》。俺の両手を載せた金属板は冷たいまま、数値表示はゼロを刻み続けていた。金属の冷たさが掌から手首へ、手首から腕へと這い上がってくる。まるで体温ごと吸い取られているようだった。装置の表面には微細な術式紋様が刻まれていて、他の候補生が手を置いたときには淡く発光していたはずだ。俺の掌の下では、その紋様すら死んだように沈黙している。

 周囲がざわつく。ガラス越しの観測室では鋳環庁の測定官たちが顔を見合わせ、端末を叩いている。故障か、という声が聞こえた気がした。一人がケーブルの接続部を確認し、もう一人が装置の側面パネルを開けて基盤を覗き込んでいる。測定室の空気が冷えていく。空調の音だけが、やけに大きく響いていた。

 だが俺は知っている。故障じゃない。

 この手は、一度も光ったことがない。

 異能ランク判定試験。十六歳を迎えた訓練候補生が、国家直轄の異能管理機関《鋳環庁》から正式にランクを与えられる日。幼少期から叩き込まれた基礎術式、霊素の制御訓練、結界構築演習——その全てが、今日この数値に集約される。

 三十分前、同期の神崎颯太が測定板に手を置いた瞬間、部屋が白い光で満ちた。数値は跳ね上がり、測定官が声を上げた。Aランク。歓声。拍手。神崎は涼しい顔で観測室に会釈してみせた。あいつの背中は自信に満ちていた。当然だろう。訓練時代から術式の精度は群を抜いていたし、霊素量も同期の中で頭一つ飛び出ていた。才能という言葉がそのまま人の形をとったような男だ。

 その前に測定を受けた橘もBランク。瀬尾もCランク。候補生四十二名のうち、全員が何らかの数値を叩き出していた。最低でもEランク。測定板に手を置けば、多かれ少なかれ霊素計は反応する。それが異能者として訓練を受けてきた人間にとっての当たり前だった。

 俺を、除いて。

 測定板の上で指を握り、開く。何度やっても同じだ。体の奥を探っても、何もない。泉が枯れているのではなく、最初から泉など存在しなかったかのような空虚。十六年間、訓練のたびに感じていた違和感の正体が、今ようやく数値として突きつけられている。

「——灰原蓮。判定結果を通告する」

 スピーカーから落ちてきた測定官の声は、事務的だった。感情がない。当然だ。この結果に感情を挟む余地など、どこにもない。

「ランク:Loss。計測不能——下限。異能発現の兆候は認められず、育成枠からの除籍を勧告する」

 Loss。Fランクですらない。測定器が反応しなかった者に付けられる、記号以下の烙印。

 十六年間の訓練候補生活が、たった一言で終わった。

 観測室の誰かが書類をめくる音がした。それだけだった。俺が測定板から手を離しても、誰も声をかけなかった。金属板が俺の体温で僅かに曇っていて、その曇りが数秒で消えた。俺がここにいた痕跡さえ、すぐに消えるのだと思った。

 寮の自室に戻ると、もう荷物がまとめられていた。段ボール一箱。ベッドは新しいシーツに替えられ、ロッカーは空。鋳環庁の事務処理は迅速だ。居場所を奪うことに関しては、特に。

 段ボールの中身を確認した。訓練着は入っていない。鋳環庁の備品だから当然だ。残っていたのは私物だけ。数冊の文庫本、歯ブラシ、着替えが二組、それと——母親の写真が一枚。記憶にない女の笑顔。施設に預けられる前に撮られたらしい唯一の手がかりは、色褪せた四つ切りの写真だけだった。段ボールの底に沈んだそれを指先で触れ、すぐに蓋を閉じた。

 俺は段ボールを抱えて廊下を歩いた。すれ違う候補生たちが目を逸らす。昨日まで同じ訓練場で汗を流していた連中が、今日はもう俺を見ない。Lossという烙印は、人の目を曇らせる。廊下の壁に貼られた訓練成績の一覧表。そこに並んだ名前の中に、まだ俺の名前がある。明日には剥がされているだろう。

 それでいい。同情されるくらいなら、無視されるほうがましだ。

 寮の玄関を出ると、空は灰色だった。四月の東京。桜はとうに散り、湿った風が首筋を撫でる。雨の匂い。もうすぐ降る。道端のアスファルトに花びらの残骸が張りついていて、踏むと湿った感触が靴底を伝った。桜の季節が終わるのと、俺の候補生生活が終わるのが、同じ日だった。出来すぎている。

 門の前で足を止めた。

 見覚えのある背中がそこにあった。栗色の髪を一つに結んだ少女が、傘を持って立っている。振り返った顔には、俺がいちばん見たくない表情が浮かんでいた。

「蓮」

 幼馴染。候補生時代から同じ班で訓練を積んだ唯一の存在。藤宮美咲。今日の判定はBランク。順当な結果だ。あいつは昔から真面目で、才能こそ飛び抜けてはいなかったが、努力を怠らなかった。

「これ、傘。雨、降るから」

 差し出された透明のビニール傘。その手が微かに震えていた。

 俺は美咲の目を見た。潤んでいる。泣くな。頼むから泣くな。お前が泣いたら、俺は——

「同情なら要らない」

 声が硬かった。自分でもわかるくらい、冷たい声だった。

 美咲の手が止まる。唇が震えた。何か言おうとして、飲み込んだ。傘を握る指先が白くなっている。爪が掌に食い込むほど、きつく。

「……同情じゃ、ない」

「じゃあ何だ」

 沈黙が落ちた。門柱の向こうで風が鳴っている。美咲の目が俺を真っ直ぐに見ていた。怒りでも哀れみでもない。もっと厄介な、名前のつけられない感情だった。俺はそれに耐えられなかった。

 答えは返ってこなかった。当然だ。Bランクの異能者と、Lossの元候補生。ここから先、俺たちの世界は交わらない。美咲は鋳環庁の実務部隊に配属される。結界維持か、霊素制御の現場運用か。いずれにせよ、異能者としてのキャリアが始まる。俺には、何も始まらない。

 俺は美咲の横を通り過ぎた。背中に視線を感じた。振り返らなかった。振り返ったら、この足が止まる。すれ違いざま、ビニール傘の柄が俺の段ボールにかすかに触れた。美咲がもう一度傘を差し出そうとして、途中でやめた気配だけが伝わってきた。

 門を出て百メートル。最初の雨粒が頬を打った。冷たかった。四月の雨は、まだ冬の名残を引きずっている。

 段ボールの中身が濡れないよう、腕で庇いながら歩く。鋳環庁の最寄り駅まで二十分。財布の中身は一万三千円。口座には訓練候補生に支給されていた月額手当の残りが数万円。

 それが、灰原蓮の全財産だった。

 駅に向かう途中、コンビニの自動ドアが開いて、中から明かりが漏れた。暖色の蛍光灯。棚に並ぶおにぎりとパン。レジに立つ店員はイヤホンをしたまま欠伸をしている。雨に追われるように店内に入ると、温かい空気が濡れた肌を包んだ。異能社会のどこにも居場所がない人間でも、コンビニは受け入れてくれる。百五十円のおにぎりを買う金さえあれば。

 ガラスに貼られた求人チラシが目に入った。

『夜勤スタッフ急募 22:00〜6:00 時給1,250円 未経験可』

 未経験可。異能の有無は問わない。当たり前だ。コンビニの棚を並べるのに術式は要らない。

 俺はチラシの端を破り、電話番号をポケットにねじ込んだ。紙が雨で湿ってインクが滲みかけていた。急いで内ポケットに移す。この番号だけが、今の俺にとっての唯一の手がかりだった。

 これが、俺の新しい現実だ。ランク判定も、訓練候補生も、鋳環庁も関係ない。ただの夜勤バイトとして、異能社会の底辺で息をする。それだけの人生。

 ——それだけの、人生のはずだった。

 雨脚が強くなっていた。駅の高架下で雨宿りしながら、段ボールの縁を握る。頭上を電車が通過するたびに鉄骨が軋み、振動が足の裏まで伝わってくる。排水溝に流れ込む雨水の音が、途切れることなく続いていた。

 指先が微かに痺れた。

 気のせいだと思った。寒さのせいだ。四月の雨に濡れれば、指くらい痺れる。

 だが俺の右手の甲を、ほんの一瞬——黒い粒子が走ったことに、俺自身は気づかなかった。

 雨粒に紛れて消えたそれは、蛍光灯の下ですら影のように淡く、誰の目にも留まらなかった。

 まだ何も始まっていない。

 俺はそう思っていた。

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