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月弧の軍師

第3話 第3話

第3話

第3話

渓谷の底を流れる細い川が、夜明け前の闇の中で銀色に光っていた。

セラフィーナは岩棚の上に伏せ、眼下に広がる峡谷を見下ろしていた。冷えた岩が腹と胸を刺すように押し返してくる。三日前に王都を発ち、ガルシア辺境伯の手勢と合流してから、ほとんど眠っていない。辺境伯の兵は八百。対する帝国先鋒は三千。数の差は歴然だが、この渓谷に足を踏み入れた時点で、数は意味を変える。

「配置は完了した」

ガルシアが杖を突きながら岩棚に上がってきた。老将の息は荒いが、目は鋭い。闇の中でもその眼光だけが異様に冴えていた。

「東の崖上に弓兵二百、西の枝谷に伏兵三百。残る三百は谷の入口に布陣させた。お前の図面の通りだ」

セラフィーナは頷いた。月弧の陣。父が骨格を描き、自らが完成させた防衛策。紙の上では何度も検証した。伏兵の移動時間、偽退却の距離、反転攻勢の合図——すべての数字は頭に刻み込んである。だが今、冷たい岩の感触を掌に感じながら、紙と現実の間に横たわる深淵を見つめていた。

「怖いか」

ガルシアの問いに、嘘をつく気にはなれなかった。

「はい。策が机上の空論で終わる可能性を、一番恐れています」

「それでいい。怖くない軍師は、兵を無駄に死なせる」

老将は闇の向こうに目を向けた。渓谷の奥、帝国軍の篝火が点々と連なり、まるで地上に降りた星座のように谷底を照らしている。三千の兵が眠る光。あの光の一つひとつに、人の命が灯っている。

「伯。一つだけ確認させてください。偽退却の際、谷口の三百は本当に逃げるように見せなければなりません。崩れた振りではなく、本物の恐慌に見える後退を」

「承知している。古参の隊長に任せた。あの男は芝居がうまい。逃げる演技で三度、実戦を切り抜けた男だ」

セラフィーナの唇が、わずかに緩んだ。ガルシアの人選は的確だった。兵の質と癖を知り尽くした老将だからこそ、この策は成立する。

東の空が、ほんのわずかに白み始めた。夜と朝の境目に、薄い藍色が滲むように広がっていく。残された時間が、目に見える形で削られていった。

──

帝国先鋒の指揮官は、夜明けとともに進軍を命じた。

渓谷の幅は騎馬三騎が並べる程度。帝国重騎兵の優位が発揮できない地形だが、先鋒の任務は突破であり、この狭隘を抜けた先の平原こそが本隊の戦場だった。先鋒三千のうち、騎兵は五百。残りは軽装歩兵と弓兵で構成されている。渓谷戦に適した編制であり、帝国の用兵は手堅い。

谷口に差し掛かったとき、斥候が報告した。カルヴァーンの兵が三百ほど、谷の入口に陣を敷いている。粗末な柵と盾を並べただけの、急造の防御陣地。

先鋒指揮官は鼻で笑った。八百足らずの辺境守備隊が、三千の帝国正規軍に立ち塞がるつもりか。抵抗は半刻と持つまい。突撃の角笛が鳴り、帝国歩兵が谷口の陣地に殺到した。

カルヴァーンの三百は、予想通りに崩れた。

盾が弾き飛ばされ、柵が踏み倒され、兵たちは悲鳴を上げて谷の奥へと逃げ出した。武器を捨てる者、仲間を押し退けて走る者——恐慌そのものだった。帝国の歩兵が勢いに乗って追撃する。逃げる敵の背を斬り、谷の奥へ奥へと殺到していく。

指揮官は追撃を止めなかった。渓谷を一気に抜ければ、今日中に平原に出られる。この程度の守備隊なら掃討は容易い。騎兵にも前進を命じ、自らも馬を進めた。

渓谷が、徐々に狭まっていることに気づいたのは、先頭の歩兵が谷の屈曲点を越えた直後だった。

両側の崖が迫り、川が蛇行し、道が急に細くなる。逃げていたカルヴァーン兵の姿が、岩陰に消えた。追撃していた帝国歩兵の足が止まる。前方に、何もない。静寂だけが、谷底に満ちていた。

岩棚の上で、セラフィーナは右手を上げた。指先が微かに震えている。この手を振り下ろせば、人が死ぬ。だが——振り下ろさなければ、もっと多くが死ぬ。

ガルシアが角笛を吹いた。低く、長い音が渓谷の壁に反響し、重なり合い、谷全体を震わせた。

東の崖上から矢が降った。二百の弓兵が一斉に弦を放ち、矢は放物線を描いて帝国兵の頭上に落ちた。渓谷の狭さが矢の密度を凝縮し、最初の一射で先頭の百名近くが倒れた。隊列が乱れ、兵が盾を掲げるが、崖上からの射角には盾が役に立たない。

同時に、西の枝谷から伏兵三百が雪崩れ出た。帝国軍の側面と背後を突き、退路を塞ぐ。逃げたはずの谷口の三百も反転し、前方から押し返してくる。

月弧の陣。弧を描くように配置された伏兵が、敵を包み込む。渓谷の地形そのものが、巨大な罠の顎となっていた。

──

帝国先鋒は混乱した。だが、壊滅はしなかった。

指揮官が即座に騎兵を集結させ、西の伏兵に向けて反撃を命じた。狭い谷での騎兵突撃は自殺行為に近いが、このまま包囲されれば全滅する。窮鼠の一撃だった。

セラフィーナは岩棚から身を乗り出し、帝国騎兵の動きを見た。心臓が跳ねる。想定していた。渓谷で追い詰められた部隊が最初に試みるのは、最も薄い包囲の一点を騎兵で破ることだ。父の兵法書にも、そう記されている。

「第二角笛を」

ガルシアが二度目の角笛を吹いた。音色が変わる。高く、短い連続音。

西の伏兵三百が、道を開けた。まるで騎兵の突撃に怯えたかのように、左右に散開する。帝国騎兵は突破口を見出し、枝谷へと突入した。

その枝谷が、百歩先で行き止まりになっていることを、彼らは知らない。

セラフィーナが地形図から読み取り、偵察で確認させた情報だった。枝谷の奥は崖に阻まれ、騎馬が転回できる幅もない。帝国騎兵五百は、自ら袋小路に飛び込んだ。

散開した伏兵が再び枝谷の入口を塞いだ。騎兵を失った帝国歩兵は、弓兵の射撃と前後からの挟撃に晒され、組織的な抵抗が瓦解していく。

戦闘は二刻で終わった。

帝国先鋒三千のうち、死傷は四百余り。残る二千五百は武器を捨て、投降した。枝谷に閉じ込められた騎兵も、馬を降りて膝をついた。カルヴァーン側の損害は、死者十二名、負傷者四十三名。寡兵で大軍を呑み込んだ、鮮烈な勝利だった。

セラフィーナは岩棚を降り、谷底に立った。投降した帝国兵が列を成し、武器の山が積み上げられていく。朝の光が渓谷の壁を照らし、先ほどまで矢が降り注いだ岩肌が白く輝いている。足元の川が、赤く染まっていた。

勝った。

父の策を継ぎ、自らの手で完成させた月弧の陣が、現実の戦場で機能した。三年間、埃まみれの書庫で積み上げてきたものが、紙の上の空論ではなかったことが証明された。

だが、喜びより先に、膝が震えた。死者十二名。その数字が、急に重さを持って胸に落ちてくる。十二の命が、自分の策の上で失われた。策が正しかったから被害は最小限で済んだ。だがもし一手でも誤っていたら、この数字は十倍にも百倍にもなり得た。勝利の設計図を描いた手が、同時に十二の棺の蓋を閉じたのだ。

ガルシアが傍に来て、無言でセラフィーナの肩に手を置いた。老将の掌は大きく、乾いていて、かすかに震えている。この男もまた、何十年もこの重さを背負ってきたのだ。

「エルヴィンの娘よ。見事だった」

それだけ言って、ガルシアは投降兵の処理に向かった。

レオンが駆け寄ってきた。頬に浅い切り傷がある。谷口の偽退却部隊に加わり、反転攻勢では先頭で剣を振るっていたのだろう。汗と土埃にまみれた顔が、朝日の中で笑っていた。

「やったな、セラ」

「ええ。——やった」

声が掠れた。レオンはそれ以上何も言わず、ただ隣に立っていた。

渓谷の風が、火薬と血の匂いを運んでくる。勝利の余韻の中で、セラフィーナの視線は渓谷の奥——帝国本隊が控えているであろう方角に向いていた。先鋒三千は止めた。だが、これは始まりに過ぎない。帝国が本腰を入れれば、万を超える兵が押し寄せる。八百の手勢では、次はない。

そして、この勝利の報せが王都に届いたとき、宮廷がどう動くか。没落貴族の娘が前線で指揮を執っていたと知れれば、ガルシア辺境伯の立場は——。

西の空に、鷹が一羽、旋回していた。帝国軍の伝令鷹だ。先鋒の壊滅を、本隊に知らせに飛んでいる。セラフィーナはその影を見上げ、唇を引き結んだ。渓谷に刻んだ最初の勝利が、次にどんな嵐を呼ぶのか。答えはまだ、あの鷹の翼の先にある。

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