第2話
第2話
国境の砦が落ちた報せは、早馬ではなく、血まみれの伝令兵が担架で運ばれてくる形で王都に届いた。
セラフィーナがそれを知ったのは、レオンが息を切らせて書庫に飛び込んできた昼過ぎのことだった。王都の大通りを軍馬が駆け、鍛冶場からは昼夜を問わず鉄を打つ音が響いているという。だが書庫の石壁は厚く、外界の喧騒はくぐもった振動としてしか伝わってこない。まるでこの部屋だけが、迫りくる嵐から切り離されているかのようだった。
「西の峡口砦が陥ちた。守備隊三百のうち、生き残りは四十に満たない」
レオンの声には、普段の軽みがなかった。制服の肩口に泥が跳ねている。騎士見習いの詰所から走り通してきたのだろう。
「峡口砦は渓谷の入口を塞ぐ要だ。あそこを抜かれたということは——」
「ああ。帝国軍はもう渓谷に入っている。斥候の報告では、先鋒だけで三千。後続の本隊がどれほどの規模か、まだ掴めていない」
セラフィーナは広げていた図面から顔を上げた。月弧の陣。昨夜からほとんど眠らず、反転攻勢の手順を書き加え続けていた。伏兵の配置を示す墨の線はまだ乾ききっておらず、指先にかすかな黒い跡が残っている。
三千。その数字が頭の中で地形図と重なり、渓谷の幅と騎兵の展開速度から行軍日数が弾き出される。峡口から王都までの距離を考えれば、猶予は十日もない。
「宮廷は何と」
「防衛の指揮はヴェルナー将軍に一任された。王の御前軍議は今朝行われたが、渓谷に兵を差し向けるかどうかで揉めている。ヴェルナーは平原での正面決戦を主張している」
セラフィーナの眉がわずかに動いた。ヴェルナー将軍——宮廷派の筆頭であり、父を断罪する軍法会議で最も声高に有罪を叫んだ男だ。大兵力の正面衝突しか知らず、地形を活かした機動戦の素養はない。それが渓谷戦の指揮を執る。
「平原決戦。渓谷を抜けた先の穀倉地帯で迎え撃つつもりか。そこで戦えば、帝国の重騎兵の機動力がそのまま優位になる。カルヴァーンの歩兵主体の編制では——」
「勝てない。わかっている。だが、俺たちにそれを変える力がない」
レオンの言葉に、セラフィーナは口を閉ざした。図面の上に視線を落とす。月弧の陣は完成しつつある。渓谷の狭隘な地形を利用し、伏兵を弧状に配置して敵の先鋒を谷の奥に誘い込む。偽退却で敵を引き出し、退路を断ち、反転攻勢で殲滅する。少数の兵でも地形と連携次第で大軍を止められる。計算上は、そうなっている。
だが計算は、紙の上にしか存在しない。
セラフィーナは測距器を手に取り、渓谷の幅を改めて測った。伏兵の移動に必要な時間を再計算し、反転の合図を出す位置を修正する。没頭すればするほど、策の精度は上がっていく。上がっていくほどに、それを実行できない自分の無力さが際立った。
兵法書は五百冊を読み尽くした。卓上軍議は四十二戦無敗。父が未完のまま遺した策を、自らの手で完成させようとしている。それでも、没落貴族の娘に与えられる駒は一つもない。
「せめてガルシア辺境伯に、この図面を届けられれば」
「ガルシア伯は辺境の守りで手一杯だ。宮廷からの援軍も期待できない状況で、伯の手勢だけでは——」
レオンが言葉を切った。書庫の外で、何かが動く気配がある。足音。それも、革底の軍靴ではない。重い長靴が石畳を踏む音だ。セラフィーナは反射的に図面を丸め、書架の裏に隠した。レオンの手が剣の柄に伸びる。
扉が開いた。
灰色の外套を纏った大柄な老人が、身を屈めるようにして書庫に入ってきた。顔の左半分を古い刀傷が走り、白い髭に覆われた顎は鉄のように固い。片手に持った杖は飾りではなく、右膝の古傷を庇うための実用品だった。
「ガルシア伯——」
セラフィーナの声がかすれた。レオンも剣の柄から手を離し、姿勢を正した。
ルドルフ・ガルシア。カルヴァーン辺境伯にして、かつて父エルヴィンと轡を並べた老将。宮廷での影響力は削がれて久しいが、辺境の民からの信望は厚い。その男が王都に、しかもヴァレリア家の書庫に直接姿を現した。尋常ではない。
老将はセラフィーナを見据えた。深い皺に刻まれた目元に、感傷の色はない。戦場で兵を値踏みするときの、あの容赦のない視線だった。
「峡口砦の陥落は聞いたな」
「はい。先刻、レオンから」
「宮廷は平原決戦を選んだ。ヴェルナーが王を説き伏せた。渓谷は放棄する」
セラフィーナの拳が白くなった。渓谷を放棄すれば、帝国軍は地形の制約なく展開できる。カルヴァーンの兵力差を地形で補う最後の機会が、政治の都合で捨てられようとしている。
「伯は——それを承知で王都に」
「わしは辺境の守りを息子に任せて出てきた。王都に用があったわけではない」
ガルシアは書庫を見回した。埃の積もった書架、冷たい石床、窓から差し込む細い光。この場所がどれほどの歳月をこの娘に強いてきたか、老将の目はすべてを読み取っているようだった。
「エルヴィンの娘よ。お前が騎士見習いどもの指導書を書いていることは知っている。名を伏せた卓上軍議で負け知らずであることも。そして——」
老将の視線が書架の裏に向いた。セラフィーナが隠した図面の、羊皮紙の端がわずかに見えている。
「父の遺した策に、何か加えているのだろう」
否定する意味はなかった。セラフィーナは図面を取り出し、ガルシアの前に広げた。月弧の陣。伏兵の配置、偽退却の経路、反転攻勢の手順——父の骨格に、自らの計算を重ねた完成図。
ガルシアは杖を壁に立てかけ、両手で図面を押さえた。老いた指が地形線をなぞり、伏兵の配置を確かめ、反転の時機を読み取っていく。沈黙が長く続いた。書庫の外で鍛冶場の槌音が響き、遠くで軍馬の嘶きが聞こえる。
「エルヴィンが獄中で悔やんでいたのは、敗戦ではなかった」
ガルシアは図面から目を上げた。
「この策を、完成させられなかったことだ」
セラフィーナの喉が詰まった。視界が滲む。だが涙は落とさなかった。今、泣いている場合ではない。
ガルシアは図面を丸め、外套の内側にしまった。そして立ち上がり、杖を取り、セラフィーナを真っ直ぐに見下ろした。
「前線に来い」
短い言葉だった。だがその声には、宮廷の追従も、社交の虚飾もない。戦場で兵に命令を下すときの、あの重さだけがあった。
「宮廷の許可は」
「ない。わしの独断だ。辺境伯の非公式な客人として同行する。名は出さん。お前の素性を知る者は、わしとこの騎士見習いだけだ」
レオンが息を呑んだ。ガルシアが背負おうとしている危険の大きさを、彼は即座に理解したのだろう。没落貴族の娘を前線に連れ出すことが知れれば、老将自身の立場さえ危うくなる。
「伯、それは——」
「黙れ、小僧。お前も来い。剣の腕は並だが、この娘の傍にいる覚悟だけは本物だろう」
レオンは口を閉ざし、ただ頷いた。
セラフィーナは書庫を見回した。三年間、この石壁の中だけが自分の世界だった。埃の降り積もる書架、冷たい床、窓から差し込む細い朝の光。ここで父の兵法を学び、策を磨き、そして誰にも届かない無力さを噛み締めてきた。
測距器を腰帯に差し、兵法書を一冊だけ手に取った。父が最も多く書き込みを残した、渓谷戦術の覚書。
「参ります」
声は静かだったが、震えてはいなかった。
ガルシアは背を向け、書庫を出た。レオンが続く。セラフィーナは最後に書架を振り返り、そして扉を閉めた。
王都の空は曇っていた。西の方角——国境の渓谷がある方角から、低い雲が流れてくる。その雲の下で、帝国の軍旗が風に翻っているのだろう。三千の先鋒が渓谷を進み、その後ろに本隊が控えている。
セラフィーナの胸の内で、月弧の陣の図面が脈打つように存在を主張していた。紙の上の策を、現実の地形に、生身の兵に、重ねる機会がようやく訪れようとしている。
だが同時に、冷たい予感が背筋を這った。策が通じるかどうかは、戦場に立ってみなければわからない。父もまた、策を携えて戦場に赴き——そして、すべてを失った。
西の空が、低く唸った。雷か、それとも砲声か。判別できぬまま、三人は王都の裏門へ向かって歩き出した。