第1話
第1話
五年という歳月は、人の心を殺すのに十分すぎる時間だった。
迷宮第12層の中継拠点——石壁に囲まれた小さな広間に、六人の冒険者が円を描くように立っていた。松明の炎が揺れるたびに、壁に映る影も揺れる。天井から滴る水滴が、等間隔で石床を叩いていた。ぴちょん、ぴちょん、と。その音だけが、誰も口を開かないこの空間で時間の経過を知らせてくれる。その輪からわずかに外れた位置に、レンは膝をついていた。背中の大荷物を下ろし、革紐で縛った補給箱の封を切る。中から回復薬の小瓶を取り出し、一本ずつ仲間の手に渡していく。誰もレンの目を見なかった。
Sランクパーティ「鉄壁の盾」。王都ベルグラムで最も名の知れた攻略集団のひとつ。その末席に、レンは五年間しがみついてきた。戦闘スキルはE——冒険者ギルドが定めるランクの最底辺だ。剣を振るえば子供にも劣り、魔法の適性は皆無。できることといえば、罠の気配をわずかに感じ取る「罠感知」と、誰よりも重い荷物を黙って運ぶことだけだった。
「レン、水」
前衛のガルドが振り向きもせずに手を差し出す。太い指が空を掴むように開かれて、その仕草には人間に向けるものとは思えない粗雑さがあった。レンは黙って水袋を渡した。ガルドはそれを受け取ると、半分ほど飲んで残りを地面にぶちまけた。水が石の床を叩き、暗い染みが広がっていく。喉が渇いていたわけではない。ただの癖だ。レンの持ち物は、いつでも好きに使っていいという、五年かけて出来上がった暗黙の了解。
レンは空になった水袋を拾い上げ、荷物に括り直した。指先が微かに震えていたが、それは寒さのせいだと自分に言い聞かせた。
「なあ、見たか。これ」
パーティリーダーのヴェルトが、腰のポーチから掌大の金属板を取り出した。薄い青銅色の表面に、細かい魔法陣が刻まれている。ギルドの売店で最近目にするようになった品だ。
「新型の探知魔道具。第15層までの罠配置を全部マッピングしてくれるらしい。値は張るが、まあ——」
ヴェルトの視線が、一瞬だけレンに向いた。すぐに逸れた。
「経費で落とせるだろ」
その言葉の意味を、レンは正確に理解していた。胃の底が冷たくなる感覚があったが、顔には出さなかった。五年もいれば、そういうことは得意になる。感情を殺すのではない。感情が生まれる前に、その芽を摘む。それがレンが五年間で唯一磨き上げた、誰にも評価されない技術だった。
魔術師のセリアが探知魔道具を受け取り、起動させた。淡い光が広がり、周囲の通路構造が宙に浮かぶ図面のように映し出される。罠の位置が赤い点で示され、安全な経路が緑の線で描かれていく。レンが半日かけて慎重に探る情報が、たった三秒で表示された。
誰も何も言わなかった。だが、空気が変わったことはレンにもわかった。湿った石壁の匂いに混じって、決定的な何かの終わりの気配がした。
「レン」
ヴェルトが口を開いた。松明の炎が一瞬大きく揺れ、リーダーの顔に深い影を落とす。整った顔立ちに浮かぶのは、嫌悪でも怒りでもなく、もっと残酷なもの——無関心だった。
「お前がいると、経験値配分が減る」
六つの影のうち、五つが微動だにしなかった。その沈黙が、全員がこの話を事前に知っていたことを物語っている。レンだけが知らなかった。いつも、そうだ。重要なことはいつもレンのいない場所で決まり、レンの前では結果だけが告げられる。まるで天気のように。晴れであれ嵐であれ、レンにはただ受け入れることしか許されない。
「……追放、ですか」
「そんな大げさな話じゃない。パーティ編成の見直しだ。ギルドにはそう報告する」
ヴェルトの口調は、明日の天気を語るように平坦だった。レンは立ち上がろうとしたが、膝に力が入らなかった。五年分の荷物の重さが、今になって全身にのしかかってくる。
「装備は回収する。元々パーティ備品だからな」
ガルドが近づいてきた。レンの腰の短剣を外し、胸当てのバックルに手をかける。レンは抵抗しなかった。抵抗する理由が、もう見つからなかった。
革の胸当てが外される。体に馴染んだ革の重みが消えた瞬間、風通しがよくなったはずの体が、かえって寒くなった。腕の護符が取られる。ベルトに吊るした回復薬のポーチが引き抜かれ、最後に——ガルドの手が、レンの首元に下げた小さな石に伸びた。
「転移石も、だ」
帰還用の転移石。迷宮で唯一、地上への帰り道を保証するもの。それを奪うということの意味を、ガルドは知っているはずだった。第12層から装備なしで地上に戻れる冒険者は、少なくともCランク以上の実力が必要とされる。Eランクのレンには——
「死ねと言ってるんですか」
声が震えなかったことだけが、最後の矜持だった。
ヴェルトが肩をすくめた。
「第12層の中継拠点だ。半日も待てば別のパーティが通る。頭を下げて拾ってもらえ。お前の得意分野だろう、人に媚びるのは」
笑い声が上がった。セリアだけが目を逸らしていたが、止めはしなかった。五年の間、誰も一度もレンを庇わなかった。そのことに今さら傷つく感性は、とうに擦り切れている。
転移石の紐が首から外された。冷たい石の感触が指先から消えた瞬間、レンの中で何かが静かに途切れた。怒りではなかった。悲しみでもなかった。もっと深い場所にあった、最後の一本の糸のようなもの。
五人が歩き出す。松明の光が遠ざかり、足音が石壁に反響しながら消えていく。レンは中継拠点の冷たい床に座り込んだまま、闇が満ちるのを見ていた。
松明の残り火が、じじ、と音を立てて萎んでいく。橙色の光が痩せ細り、壁の陰影が濃くなる。静寂の中に、レンの呼吸だけが残った。
湿った空気が肌を撫でた。迷宮の第12層特有の、苔と鉄錆が混じった匂い。五年間嗅ぎ慣れたはずのその匂いが、今は墓の底から立ち昇る瘴気のように感じられた。
目を閉じると、五年前の自分が見えた。冒険者ギルドの受付で、震える手で登録用紙を書いた十五歳の少年。戦えなくてもいい、誰かの役に立てればいい。そう信じていた頃の自分は、今のこの結末を想像できただろうか。暗闇の中で、唇が歪んだ。笑おうとしたのか、泣こうとしたのか、自分でもわからなかった。
遠くで、何かが動く音がした。
硬い爪が石床を引っ掻く、あの音。レンの体が強張る。魔物だ。第12層に棲む下級の獣型——普段ならパーティの前衛が片手で屠る程度の相手。だが今のレンには武器がない。防具もない。逃げる体力すら、五年分の消耗が奪い去っていた。
音が近づいてくる。一体ではない。二体、いや三体。通路の暗がりの中で、複数の赤い光点がちらついた。魔物の目だ。低い唸り声が石壁に反響し、どこから来ているのか判然としない。囲まれている——その直感が、背筋を凍らせた。
レンは後ずさった。背中が壁にぶつかる。冷たい石の感触。逃げ場はない。
膝が折れた。石の床に両手をついたとき、指先に奇妙な感触があった。滑らかな石の表面に、規則的な凹凸。レンは目を凝らした。残り火の最後の光が、床に刻まれた紋様を照らし出す。見たことのない文様だった。五年間この層を何十回と通過して、一度も気づかなかった。だが罠感知の感覚が、微かに、しかし確かにざわめいていた。これは罠ではない。罠とは違う何か——もっと古く、もっと大きな力の残滓。
紋様が、淡く光った。
レンの背後で——石壁が音もなく割れた。
冷気が噴き出す。墓所の底、あるいはそれよりもっと深い場所から吹き上げるような、骨の芯まで届く冷たさ。壁の向こうに空間がある。暗い。深い。何かがいる。その気配は魔物のものとは質が違っていた。魔物の殺意は熱い。だがこの気配は、凍った湖の底に沈む巨石のように、ただ圧倒的な質量で存在していた。
迫る魔物の気配と、背後の未知の闇。どちらも死に繋がっている可能性は同じだった。
だがレンの体は、考えるより先に動いていた。壁の裂け目に身を滑り込ませる。狭い通路が奥へ続いている。魔物の唸り声が背後で途切れた——まるで、この裂け目の先に入ることを恐れているかのように。
暗闇の奥から、鎖の軋む音が聞こえた。