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灰翼の軍師

第3話 第3話「灰色外套の訪問者」

第3話

第3話「灰色外套の訪問者」

沈黙が、蝋燭の炎を三度揺らす間だけ続いた。

カイは戸口に立ったまま、女の全身を観察していた。灰色の外套の下、旅装は軽い。長距離を馬で移動する者の身なりだ。短剣の鞘は使い込まれているが手入れが行き届いており、飾り気がない。軍人ではない。しかし武器を日常の延長として扱う者の佇まいだった。靴底についた赤土は乾ききっており、少なくとも半日以上前にこの部屋に入ったことを示していた。

「人違いだ。俺はマルクという測量士で——」

「フェルゲンに入村して一年と四月。親方はグスタフ・ベッカー。日雇いの報酬は一日銅貨六枚。昨夜は『錆びた轡』で蕪の汁を一杯。今朝、東嶺軍の伝令嚢から書簡を二通抜き取り、日暮れ前に戻した」

カイの喉が詰まった。測量釘を握る指先から、血の気が引いていく。

書簡の件まで知られている。ならば言い逃れは通じない。問題は、この女が何者で、何を目的としているかだ。東嶺の追手なら、こうして名乗る前に刃が来る。賞金稼ぎならば、もっと人数を揃える。一人で、しかも正面から名を呼ぶ。それは——交渉の意思を示している。

「……何者だ」

「ミレーヌ。西凛軍情報局、通称『灰翼』の工作員です」

灰翼。その名はカイも知っていた。東嶺軍参謀部にいた頃、灰翼の活動報告は定期的に回覧されていた。西凛が誇る諜報機関。暗殺から情報操作まで、表の軍が触れない領域を担う影の組織。回覧される報告書には、灰翼の手口が詳述されていた。接触対象の弱みを握り、選択肢を奪い、協力以外の道を塞ぐ。今まさに、その手口の中にいる。

敵国の諜報員が、自分の部屋にいる。その事実が、背筋に冷たい線を引いた。

「灰翼が没落した東嶺の軍師に何の用だ。俺にはもう肩書きも兵もない」

ミレーヌは寝台から立ち上がった。動作に無駄がなく、音もほとんどしなかった。外套の内側から薄い革の書類挟みを取り出し、卓の上に置く。

「お座りください。立ち話で済む内容ではありません」

命令ではなかった。しかし拒否の余地を残さない物言いだった。カイは数秒の間を置いてから、戸を閉め、卓の向かいの椅子に腰を下ろした。測量釘は手放さなかった。

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ミレーヌが書類挟みを開いた。中から現れたのは、数枚の羊皮紙と、一通の封書だった。

「レグナート家三男、カイ・レグナート。東嶺軍史上最年少の参謀。二年前の秋、ヴァーゼン平原の会戦において、退却命令の遅延により麾下の部隊が壊滅。軍法会議にかけられるも、レグナート家の嘆願により死刑は免れ、官位剥奪と永久追放の処分を受けた」

カイは表情を動かさなかった。だが胸の奥で、古い傷が軋むのを感じた。ヴァーゼン平原。その名を聞くだけで、焼けた草の匂いと、馬の悲鳴と、崩れていく陣形の記憶が鮮明に蘇る。

「退却命令の遅延は、当時副官であったドーレン・ヴェーラーが伝令を握り潰したことに起因する。ドーレンは貴殿の失脚後、遺された作戦書を接収し、それを自らの策として運用することで参謀長の座を得た」

「——そこまで知っているなら、なぜ今さら俺のところに来る」

ミレーヌの目が、蝋燭の光を受けて静かに光った。

「知っているだけでは足りないからです。灰翼は情報を集める組織ですが、それを戦場で形にできる人間は別です。カイ殿——あなたの頭脳を、買いたい」

取引。その言葉が、空気の温度を変えた。

「買う、と言ったな。対価は何だ」

ミレーヌは封書を指先で押し出した。蝋で封じられ、刻印はない。

「ドーレン・ヴェーラーが貴殿の作戦書を接収した際の記録。灰翼が東嶺軍内部の協力者を通じて入手したものです。ドーレンが参謀長に就任する以前、レグナート家の書庫から軍事文書を持ち出した事実を示す物証が含まれています」

カイの視線が、封書に釘付けになった。

物証。ドーレンの裏切りを証明するもの。それは、カイが一年と四月の間、泥の中で渇望し続けたものだった。それさえあれば——。

しかし、冷静な部分が警告を発していた。

「灰翼がそれを握っていたということは、ドーレンを揺さぶる材料として温存していたということだ。それを俺に渡すのは、俺から搾り取れるものの方が大きいと踏んだからだろう」

ミレーヌの唇が、わずかに弧を描いた。笑みとは呼べない。しかし、交渉相手の知性を認めた者の表情だった。

「ご明察です。灰翼は東嶺との戦争を有利に進めるための策を必要としています。東嶺の軍事思想を内側から知り、なおかつドーレンの戦術の原典——つまり貴殿自身の発想体系を熟知している人間。その条件を満たす者は、大陸に一人しかいません」

カイは椅子の背に体を預けた。天井の染みを見つめながら、提示された盤面を頭の中で組み立てていく。

灰翼は駒を欲している。東嶺の裏をかける駒を。カイにとっては、祖国の軍を敵の手で打ち砕く行為に他ならない。ドーレンへの復讐は果たせるかもしれない。しかしその代償は——。

「即答はできない」

カイは視線をミレーヌに戻した。

「一晩、考える時間をくれ」

ミレーヌは数秒、カイの目を見つめた。何かを測るような、あるいは確認するような視線だった。

「明朝、日の出に。この部屋で」

それだけ言って、ミレーヌは外套のフードを上げた。戸口へ向かい、一度だけ振り返る。

「一つだけ申し上げておきます。灰翼があなたを見つけたということは、他の誰かも見つけ得るということです。東嶺の目が、いつまでも節穴であるとは限りません」

足音もなく、ミレーヌは廊下に消えた。

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夜が更けていた。

カイは宿を出て、村外れの丘を登った。春の夜気が肌を刺すが、頭を冷やすにはちょうどよかった。足元の枯れ草を踏む音だけが、夜の静寂に小さく響いた。

丘の頂に立つと、東の空が見えた。星明かりの下、地平線の向こうに東嶺の山並みが黒い稜線を描いている。あの山脈の向こうに、レグナート家の領地がある。軍議室があり、書庫があり、カイが生まれ育った石造りの城館がある。そして——カイを裏切った全てがある。

祖国。

その言葉を、声に出さずに口の中で転がした。

東嶺はカイの生まれた国だ。レグナート家は代々東嶺に仕え、血を流してきた。カイ自身、参謀として東嶺軍の勝利のために頭脳を捧げた。祖国のために。その信念に、一片の偽りもなかった。

しかし祖国は、カイを切り捨てた。ドーレンの讒言を信じ、軍法会議にかけ、追放した。レグナート家の嘆願がなければ、首が落ちていた。その嘆願すら、家名の恥を最小化するための政治的判断に過ぎなかった。

祖国は自分を守らなかった。ならば自分は、祖国を守る義理があるのか。

灰翼の取引を受ければ、カイは西凛のために東嶺を打つことになる。それは反逆だ。名実ともに、裏切り者になる。今はまだ濡れ衣だが、ミレーヌの手を取れば、それは真実に変わる。

だが——拒めばどうなる。このまま泥の中で朽ち、ドーレンが自分の策で歴史を塗り替えていくのを、黙って見ているのか。測量士マルクとして死に、カイ・レグナートという名は反逆者の注釈としてのみ残る。

どちらを選んでも、失うものがある。どちらを選んでも、戻れない。

カイは東の稜線を見つめ続けた。あの山の向こうに、答えはない。答えは、自分の中にしかない。

夜風が吹いた。草が波のように靡き、カイの外套の裾を攫った。

ミレーヌの最後の言葉が耳に残っていた。灰翼が見つけたなら、東嶺もいずれ見つける。猶予は、もう長くない。泥の中の安全は、すでに幻だった。

指を開き、また握った。この手で駒を動かす感覚を、身体が覚えている。盤上に戻るならば、もはや泥の中からではなく、灰色の翼の下からになる。

カイは丘を降りなかった。東嶺の山並みが夜明けの最初の光に輪郭を浮かべるまで、そこに立ち続けた。

——祖国とは何だ。自分を育てた土地か。自分を捨てた権力か。それとも、自分が守ろうとした民のことか。

答えは出なかった。だが問いの形が定まったことで、カイの中で何かが静かに動き始めていた。

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