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無能軍師の静かな炎

第1話 第1話

第1話

第1話

勝利の報せが王都アルヴァリスに届いたとき、レン=カルヴァスは自分の策が完璧に機能したことを確信していた。

北方国境のケルダ要塞。帝国辺境軍二万が南下を開始し、アルシェス王国の北辺が崩落の危機に晒されたのは、わずか三週間前のことだった。主力は東方遠征に出払い、北方に残された守備隊はわずか四千。誰もが陥落を覚悟した。だがレンは違った。地図の上に指を走らせ、敵の進軍路に潜む三つの隘路を見出し、補給線の延びきる地点を算出した。四千の兵を三段に分け、縦深のある遅滞防御で敵を消耗させる——枢密院で披露したその策を、列席の将軍たちは鼻で笑った。

「机上の空論だ」

そう吐き捨てたのが、将軍グレイヴスだった。だが他に策はなく、レンの案は渋々採用された。そして結果は、レンの計算通りだった。帝国軍は隘路で足止めされ、補給が途絶え、最終的に撤退を余儀なくされた。四千で二万を退けた殊勲。その報告書が玉座の間で読み上げられるとき、レンは当然、自分の名が呼ばれるものと思っていた。

「——北方防衛戦の勝利は、グレイヴス将軍の卓越した指揮によるものである」

宰相の声が、大理石の広間に響いた。レンは最後列に立っていた。軍師の席は前方にあるはずだったが、今朝になって配置が変えられていた。

グレイヴスが壇上に進み出る。金糸の刺繍が施された礼装。磨き上げられた胸甲。その巨躯が玉座の前で片膝をつくと、居並ぶ廷臣たちから拍手が湧いた。

「将軍の深謀遠慮により、北方は守られました」

宰相の言葉に、レンの視界が白く明滅した。深謀遠慮。あの策を鼻で笑った男の、何が深謀遠慮だというのか。

だが声は上げなかった。宮廷とはそういう場所だった。レンはそれを知っていたはずだった。剣を握れぬ者の献策など、剣を握る者が拾い上げれば、それは剣の手柄になる。

知っていたはずだった——頭では。

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謁見の間を退出したレンを、回廊の角で近衛兵二人が待っていた。

「軍師レン=カルヴァス殿。枢密院より召喚状が出ております」

枢密院の小部屋は、窓のない石室だった。長卓の向こうにグレイヴスが座り、その隣に宰相ドルーアンが立っている。レンが入室すると、扉が背後で閉められた。

「単刀直入に言う」グレイヴスが口を開いた。腕を組み、レンを見下ろす目には、勝者の余裕があった。「お前の職を解く」

レンは動かなかった。予感はあった。だが、これほど早いとは思わなかった。

「北方防衛戦において、お前の策は確かに採用された」グレイヴスは続けた。「だが結果を見ろ。四千の兵のうち六百を失った。敵を殲滅できず、撤退を許した。完勝には程遠い」

「撤退させることが目的でした」レンは静かに答えた。「兵力差五倍の状況で殲滅を狙えば、こちらが壊滅します」

「口答えをするな」

グレイヴスの拳が卓を叩いた。水差しが跳ね、水滴が地図の上に散った。

宰相ドルーアンが咳払いをした。痩せた老人は、レンを見もせずに羊皮紙を広げた。

「枢密院の総意として、軍師レン=カルヴァスの能力は王国の水準に達していないと判断されました。本日付で軍師の職を解き、王都からの退去を命じます」

能力が水準に達していない。

つまり——無能。

レンの指先が微かに震えた。怒りではなかった。少なくとも、この瞬間はまだ。六年だった。士官学校を首席で出て、末席軍師から這い上がり、北方の防衛線を設計するまでに六年を費やした。その六年間の全てが、今、たった一枚の羊皮紙で否定された。

「弁明の場は」

「必要ない」グレイヴスが遮った。「無能な軍師に弁明させて何になる。明朝までに王都を出ろ。さもなくば、反逆の嫌疑で投獄する」

反逆。その言葉を聞いて、レンはようやく理解した。これは人事ではない。粛清だ。手柄を奪うだけでは足りない。策の立案者そのものを消さなければ、いずれ真実が漏れる。グレイヴスはそれを恐れている。

レンは宰相の顔を見た。ドルーアンは視線を逸らした。その仕草で全てを悟った。宰相もグレイヴスの側にいる。あるいは、最初からそう仕組まれていたのかもしれない。

「——承知しました」

レンは一礼した。背筋を伸ばしたまま、真っ直ぐに。それが最後の意地だった。

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王都アルヴァリスの夜は、常に明るい。

中央大通りには魔導灯が並び、酒場からは兵士たちの歌声が漏れ、貴族の馬車が石畳を軋ませて走り抜ける。北方防衛戦の勝利を祝う宴が、あちこちで開かれていた。グレイヴス将軍の武勇を讃える歌まで、もう出回っているらしい。

レンは裏通りを歩いていた。軍師服はすでに剥がされ、替わりに渡されたのは擦り切れた旅人の外套一枚だった。手荷物は革鞄ひとつ。中身は着替えと、北方の地形図の写し。地形図に意味はもうなかったが、捨てることができなかった。

足が止まったのは、西門の手前だった。

振り返ると、王城の尖塔が夜空に浮かんでいた。魔導灯の光が霧に滲み、白く輝く城壁が闇の中に聳えている。美しい、とレンは思った。六年間、あの城壁の内側で、この国のために策を練り続けた。

「無能、か」

声に出してみると、その言葉は思ったよりも軽かった。あるいは、重すぎて感覚が麻痺しているのかもしれなかった。

レンは外套の襟を立てた。春とはいえ、夜風は冷たい。石畳の冷気が薄い靴底を通して足裏に沁みた。

西門の衛兵は、追放令の書状を確認すると、無言で門を開けた。同情も侮蔑もない、ただ事務的な視線だった。それが一番堪えた。

門を出ると、闇が広がっていた。王都の灯りが背後に遠ざかるにつれ、星だけが頭上に残った。街道は二手に分かれている。南へ行けばアルシェス領内の地方都市がある。職にありつけるかもしれない。だがグレイヴスの手は地方にも届くだろう。

もう一方の道は、西へ向かっていた。

国境の向こう。小国ヴェルダ。アルシェスが「いずれ飲み込む」と公言してはばからない、弱小の隣国。

レンは西の道を見つめた。星明かりの下、荒野へと続く一本の道が白く伸びている。敵国——いや、もはやアルシェスこそが敵なのかもしれなかった。

踏み出した一歩は、軽かった。

失うものは、もう何もない。背後の灯りに未練はない。あるのは、踏み躙られた六年分の誇りと、それを取り返すための——まだ形を持たない、静かな炎だけだった。

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三日後、レンは国境の荒野で意識を失った。

水は二日目に尽きた。食料は最初からなかった。追放令には「王都からの退去」としか書かれておらず、旅費も馬も与えられなかった。当然だろう。死んでくれれば都合がいいのだから。

乾いた土の上に倒れ伏したとき、レンの目に映ったのは、見知らぬ革靴の爪先だった。

「おい、生きてるか」

低い声が降ってきた。日に灼けた顔、刀傷の走る頬、鎧の代わりに革の胸当て。軍人の所作だが、どの国の軍装でもない。

傭兵だ、とレンは思った。それが最後の意識だった。

目を覚ましたとき、焚き火の匂いがした。干し肉を齧る音と、低い笑い声が聞こえる。レンは粗末な毛布の上に寝かされていた。

「起きたか、アルシェスの軍師殿」

焚き火の向こうから、先ほどの男が顎でレンを示した。レンの革鞄が開かれ、中の地形図が広げられている。そして——軍師服の襟に縫い込まれていた紋章が、男の手の中にあった。

レンは身を起こした。周囲には十数人の男たちが座っている。いずれも似たような風体——正規軍の残滓を身にまとった、はぐれ者の集団。

男が紋章を火にかざした。鷲と剣の意匠が炎に照らされ、赤く光った。

「アルシェス軍師団の紋章だ。見覚えがある」男の目が細まった。「俺も昔、この紋章の下で戦ったことがある——捨てられるまではな」

男は紋章をレンに投げ返した。乾いた金属音が夜の荒野に響いた。

「カイルだ。元アルシェス第七遊撃隊。今はただの傭兵崩れだ」

カイルは立ち上がり、腰の剣に手をかけた。その刃がゆっくりと抜かれ、焚き火の光を映して揺れた。

「さて、軍師殿。聞かせてもらおうか——アルシェスの犬が、なぜ国境の外で野垂れ死にかけている?」

剣の切っ先が、レンの喉元に向けられた。

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