第2話
第2話
月曜の朝、新宿駅は平常運転だった。
土日の間にニュースを何度も確認したが、地盤沈下の続報は「調査中」の三文字で止まったまま更新されなかった。封鎖区間は地下通路の一部だけで、改札も電車も通常通り。SNSでも話題は半日で流れた。東京という街は、異常を飲み込むのが恐ろしく早い。
俺もまた、その流れに飲まれるように月曜を迎えていた。
いつもの電車。いつもの時間。車内は通勤客で圧縮されていて、吊り革を握る右手の甲を、何度目かも分からず確認する。何もない。土曜の朝に見えた赤黒い明滅は、あれ以来一度も再現していない。日曜は丸一日部屋にいて、手の甲を眺めたり、ニュース記事の写真を拡大したり、我ながら正気を疑う行動を繰り返した。写真の中の黒い亀裂も、日曜に見返したときには消えていた。画像データが変わるはずがない。つまり、土曜の朝に見えたものも含めて、すべて俺の目の問題だ。
そう結論づけた。結論づけることにした。
新宿駅に着いた。ホームから階段を降り、地下通路に入る。封鎖区間を迂回するルートが臨時で案内されていて、普段より三分ほど余計にかかる。それだけのことだ。周囲の通勤客も、迂回路の混雑に苛立ちこそすれ、地盤沈下の原因を気にしている様子はない。
迂回路の角を曲がったとき、足元が揺れた。
最初は、電車の振動だと思った。地下通路では線路の振動が伝わることがある。だが揺れは止まらなかった。むしろ強くなった。天井の蛍光灯がちらつき、壁面の広告パネルがびりびりと音を立てる。
「地震?」
誰かが言った。周囲の通勤客が立ち止まり、天井を見上げる。スマートフォンを取り出す人。緊急地震速報を確認しようとする人。だが速報は鳴っていない。揺れだけが、じわじわと強くなっていく。
そして——音がした。
コンクリートが裂ける音。骨が折れるのに似た、鈍く湿った破砕音。それが壁の向こうから、床の下から、天井の上から、同時に響いた。
足元の床タイルに亀裂が走った。あの黒い亀裂だ。壁に見えたのと同じ、物理的な破損では説明のつかない、滲むような黒。それが蜘蛛の巣のように床面を這い、壁を駆け上がり、天井を覆っていく。
今度は、俺以外にも見えていた。
「壁が——壁が割れてる!」
悲鳴が上がった。黒い亀裂が広がるたびに、その裂け目からコンクリートの破片が剥落し、蛍光灯が火花を散らして消える。通路が、壊れていく。ただの崩落じゃない。壁と床と天井の境界そのものが曖昧になって、空間の形が変わっていく。
人波が逆流した。出口に向かって走り出す群衆。俺も走った。リュックが背中で跳ねる。革靴の底が割れたタイルに滑る。前を走っていたスーツの男がつまずいて転倒し、後ろから来た女性がその上に崩れ落ちた。俺は咄嗟に腕を伸ばして女性の肘を掴み、引き起こした。「走って」とだけ言った。自分の声が妙に遠い。
走りながら振り返った瞬間、通路の奥の光景が目に焼きついた。
コンクリートの壁が消えていた。代わりにあったのは、岩だった。黒みがかった岩肌がむき出しになり、蛍光灯の代わりに壁面を走る青白い脈動が空間を照らしている。天井は吹き抜けのように高くなり、空気が変わった。地下鉄の埃っぽい空気ではない。湿った、重い、土と鉄錆の匂い。
地下通路が——洞窟に変わっている。
脚が止まった。止まってしまった。理解が追いつかない。後ろから押されて前のめりに数歩よろけ、壁に手をついた。壁の感触が、コンクリートではなかった。冷たく、ざらついた岩。指先に苔のような湿り気。
ここは、どこだ。
群衆の悲鳴が反響して輪郭を失い、洞窟の奥から返ってくる。出口に向かっていたはずの通路が途中で途切れていて、その先は崩落した岩で塞がれている。数十人の通勤客が行き場を失い、暗い空間に閉じ込められていた。
泣いている女性がいた。スマートフォンで電話しようとしている男がいた。電波は入らない。誰もが混乱し、誰もが怯えていた。俺もその一人だった。
——そのとき、洞窟の奥から、音がした。
足音ではない。爪が岩を引っ掻く、硬質な摩擦音。それが一つではなく、複数。暗闇の奥から、近づいてくる。
青白い脈動の光に照らされて、それが姿を現した。
獣、としか言いようがなかった。四本脚。体高は大型犬ほど。だが犬ではない。体表が黒い甲殻で覆われていて、関節の隙間から同じ青白い光が漏れている。頭部には目がなく、代わりに額から顎にかけて縦に裂けた口があった。その口が開いたとき、歯の代わりに、無数の棘状の突起が見えた。
三体。いや、四体。暗闇の奥に、まだいる。
群衆がパニックになった。叫び声。逃げようとする足音。だが逃げ場がない。通路は崩落で塞がれていて、獣は出口とは逆の方向から来ている。人々は壁際に押しつぶされるように後退する。
最初の一体が跳んだ。
狙われたのは、先頭にいた中年の男性だった。獣が跳躍し、その甲殻の爪が男性のスーツの肩を切り裂いた。血が散り、男性が悲鳴を上げて倒れる。獣は倒れた男性の上に乗り、縦に裂けた口を開いて——
俺は走っていた。
考えたわけじゃない。体が動いた。リュックを投げつけた。ノートPCが入ったリュックが獣の頭部に当たり、一瞬だけ動きが止まる。その隙に男性の腕を掴んで引きずり出した。肩から血が出ている。深くはない。たぶん。
獣がこちらを向いた。目のない頭部が、それでも確実に俺を「見て」いた。口が開く。棘の列が唾液のような粘液で光る。
二体目が横から来た。壁を蹴って跳躍し、俺の頭上を越えて背後に着地する。挟まれた。前と後ろに一体ずつ。残りの二体は群衆の方に向かっている。
右腕が、熱くなった。
熱い、ではない。燃えている。皮膚の内側から、骨の髄から、何かが這い上がってくるような灼熱。思わず右手を見下ろした。
袖口から覗く手の甲に、赤黒い紋様が浮かんでいた。
土曜の朝に一瞬だけ見えた、あの明滅。それが今、明確な線となって皮膚の上に描かれている。手の甲から手首へ、手首から前腕へ。紋様は脈打つように広がり、熱はさらに増していく。
前方の獣が突進してきた。口を開き、棘の並んだ顎が俺の胸を狙う。
避けられなかった。右腕を前に出した。ただの反射。盾にしようとしたのか、殴ろうとしたのかも分からない。赤黒い紋様が走る右手の掌が、獣の額に触れた。
——そこで、世界が止まった。
掌から何かが流れ出した。電流でも熱でもない。もっと根源的な何か。触れた獣の甲殻に、掌の接触点から放射状に亀裂が入った。黒い甲殻が灰色に変色し、脆くなり、崩れていく。獣の体が内側から瓦解していた。青白い光が漏れ出し、甲殻が砕け、その下の肉が塵になり、骨格すら形を失って——五秒もかからなかった。
俺の掌の上で、大型犬ほどの獣が、跡形もなく消滅した。
灰色の粉塵が、地下の空気にゆっくりと散っていく。
背後の一体が咆哮した。振り返る。獣が跳んでくる。今度は——右手を突き出した。意識して。指先が獣の胸部に触れた瞬間、同じことが起きた。接触点から崩壊が広がり、甲殻が割れ、中身が崩れ、二体目の獣が消滅する。
右腕の紋様が、さらに広がっていた。肘の上まで這い上がっている。熱は引かない。腕全体が自分のものではないような、異質な感覚。
群衆の方を見た。残りの二体が、壁際に追い詰められた人々に迫っている。走った。革靴の底が岩肌を蹴る。一体目の背後から右手を叩きつけ、二体目が振り返ったところを掌で掴んだ。
四体すべてが、灰になった。
静寂が落ちた。群衆は凍りついたように動かない。泣き声すら止んでいた。全員が、俺を見ていた。正確には——俺の右腕を。
赤黒い紋様が肘の上まで広がった右腕。そこから微かに、灰色の粉塵が立ち昇っている。獣を消した、この腕を。
何が起きた。
自分の右手を見下ろした。掌に残った灰色の粉を、指で擦った。何の感触もない。砂よりも細かく、触れた端から消えていく。
紋様は、まだ脈打っていた。皮膚の下を何かが蠢いているような、鈍い熱と圧迫感。それは快感に似ていた。指先に残る、あの一瞬の全能感——触れただけで、あれほどの脅威が消えた。その手応えが、体の奥のどこかに残響している。
同時に、吐き気がした。これは俺の腕じゃない。俺の力じゃない。三十二歳の経理屋が持っていいものじゃない。
洞窟の奥から、新たな爪音が聞こえた。まだ、いる。