第1話
第1話
金曜日の退勤時刻ほど、虚しいものはない。
改札を抜ける人波に押されながら、佐伯陽介は新宿駅の地下通路を歩いていた。午後六時十二分。背中のリュックには使い古したノートPCと、昼に食べ残した鮭弁当の空容器が入っている。周囲のスーツ姿は誰もが足早で、飲み会か、恋人のもとか、少なくとも「誰かが待っている場所」へ向かっている顔をしていた。
俺が向かうのは、築三十年のワンルームだ。
駅構内の蛍光灯が白々しく照らす地下通路を、流れに逆らわず歩く。壁面には新しい商業施設の広告が隙間なく貼られていて、笑顔の女優がこっちを見ていた。目が合った気がして視線を逸らす。三十二歳、中堅メーカーの経理課勤務。月末の伝票処理と四半期の決算補助が主な仕事で、数字は裏切らないが、数字は褒めてもくれない。
元妻の顔を最後に思い出したのは、いつだったか。離婚届を出したのが三年前の冬。理由は「一緒にいても一人でいるのと変わらない」という、反論のしようがない一言だった。あの日、区役所の窓口で書類を受理されたとき、職員が「お疲れさまでした」と言った。労いなのか、事務的な挨拶なのか、判別がつかなかった。どちらでも同じことだったが。
通路の角を曲がったとき、足が止まった。
壁だ。何の変哲もないコンクリートの壁面。広告の端、ちょうど非常口の案内板の下あたり。そこに——亀裂が走っていた。
黒い、線。
いや、線というには生々しい。ひび割れたコンクリートの隙間から滲み出すような、輪郭の曖昧な黒。それが壁面を縦に三十センチほど、脈打つように這っている。
「……なんだ、これ」
声が出ていた。立ち止まった俺の横を、サラリーマンが二人、OLが三人、学生らしい集団がひとかたまり、何事もないように通り過ぎていく。誰も壁を見ない。誰も足を止めない。
亀裂は、確かにそこにある。
目を擦った。瞬きを三回。亀裂は消えない。むしろ微かに——広がったように見えた。黒い線の端が、数ミリ、上に伸びている。
一歩、近づいた。地下通路の空気が変わった気がした。周囲の雑踏——革靴の硬い足音、キャリーケースの車輪、どこかの店舗から漏れるポップミュージック——それらが一瞬、水の底に沈んだように遠くなった。亀裂の周囲だけ、温度が違う。冷たいのではない。温度という概念そのものが希薄になったような、奇妙な空白。鼻の奥に、雨上がりのアスファルトに似た、だが決定的に違う匂いがかすめた。錆と、土と、もっと深い場所にあるもの。名前のつけられないもの。
背筋に冷たいものが走った。気のせいだ。疲れているんだ。月末処理が三日続いて、昨夜は二時まで残業して、睡眠は四時間で——そういうときに、人間の目は変なものを見る。経理の仕事で学んだことがある。数字のズレは、見つけた瞬間にメモしないと二度と見つからない。でもこれは数字じゃない。壁のひび割れだ。ただの。
俺は歩き出した。振り返らなかった。
ワンルームに帰ると、いつもの手順が待っている。靴を脱ぐ。リュックを床に置く。冷蔵庫からペットボトルの茶を出す。コンビニで買った弁当をレンジに入れる。五百ワット、三分。その間に着替えて、ジャージに袖を通す。
テレビをつけた。ニュースキャスターが為替の話をしている。一ドル百五十二円。経理課的には来月の原価計算に影響が出るな、と反射的に考えて、すぐにどうでもよくなった。
レンジが鳴る。チキン南蛮弁当。四百二十円。温まったタルタルソースの匂いが狭い部屋に広がって、それが今日という一日の到達点だった。
食べながら、壁の亀裂のことを考えた。
見間違いだろう。配管の影か、広告の剥がれた跡か。地下通路なんて薄暗いし、蛍光灯の角度で変な影ができることもある。それに、仮に本当にひび割れていたとして、それは施設管理の問題であって、経理課の佐伯陽介が気にすることじゃない。
弁当を食べ終えて、割り箸を折って、プラスチック容器をゴミ袋に押し込む。二十一時。深夜のランニングには少し早いが、今日はもう他にやることがない。
走ることだけが、唯一まともな習慣だった。離婚のあと、眠れない夜が続いた時期に始めて、三年経った今も続いている。理由は単純で、走っている間は何も考えなくていいからだ。呼吸と足音だけの世界。ただし、走り終わって汗を拭いた瞬間に現実が戻ってくる。明日も同じ朝が来る。同じ電車に乗り、同じデスクに座り、同じ数字を叩く。その繰り返しの先に何があるのかは、考えないことにしている。
ランニングシューズの紐を結び、玄関を出た。四月の夜気が肌を刺す。住宅街の街灯が等間隔に並んで、その下をただ走る。最初の五分は体が重い。息が上がり、ふくらはぎが軋む。だが十分を過ぎると余計なものが剥がれ落ちて、足の裏がアスファルトを叩くリズムだけになる。吸って、吐いて、右足、左足。交差点の信号が赤に変わるのを待つ間、自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえた。どこかで猫が鳴いて、それからまた静寂。走り出す。この時間だけは自分が透明になれる気がした。何者でもない、ただの動いている体。それは心地よくもあり、同時にどうしようもなく寂しかった。
三十分ほど走って戻り、シャワーを浴びて、布団に入った。天井の染みを数えるともなく眺めていると、また壁のことが頭を過ぎった。
——あの黒い線は、脈打っていなかったか。
馬鹿馬鹿しい。目を閉じた。金曜の夜は、いつもこうだ。土日が来ても予定はない。予定がないから金曜に解放感もない。ただ曜日が変わるだけ。
眠りに落ちる直前、瞼の裏にあの黒い亀裂が一瞬だけ浮かんで、消えた。
土曜の朝は、八時半に目が覚めた。休日でも体内時計は律儀で、平日と大して変わらない時間に意識が浮上する。枕元のスマートフォンを手に取り、惰性でニュースアプリを開いた。
画面をスクロールする指が、止まった。
『【速報】新宿駅地下通路で原因不明の地盤沈下 一部区間を緊急封鎖』
記事に添付された写真を拡大する。見覚えのある通路。非常口の案内板。その下のコンクリート壁が——陥没していた。昨日の亀裂があった場所と、完全に一致する。写真では壁面に幅二メートルほどの穴が空き、その奥は暗くて見えない。黄色い規制テープが張られ、作業員と警察官が映っている。
記事を読んだ。「午前三時頃、巡回中の警備員が異音を確認」「地盤調査では原因特定に至らず」「地下水脈の影響の可能性」「本日中に専門チームを派遣」。
どれも、俺が見たものの説明にはなっていない。
地盤沈下なら、ひびが入る。コンクリートが割れる。それは分かる。だが昨日俺が見たのは、物理的な破損じゃなかった。あの黒い亀裂は、壁の「上」にあった。壁に亀裂が入ったんじゃない。壁の表面に、別の何かが這っていた。
——そしてそれは、俺にしか見えていなかった。
布団の中で、体が強張った。スマートフォンを持つ手が、微かに震えている。合理的に考えろ。俺は経理屋だ。数字で考えるのが仕事だ。
仮説一。昨日の亀裂は疲労による幻覚で、今朝のニュースは偶然の一致。確率的にはあり得る。
仮説二。俺が見た亀裂は実在し、その後に地盤沈下が起きた。つまり俺は崩壊の「予兆」を視認していた。ただし周囲の人間には見えていなかった。
仮説二を採用した場合、導かれる問いは一つ。
——なぜ、俺だけに見えた。
ベッドから出て、窓を開けた。四月の冷えた空気が頬を叩く。向かいのマンションのベランダに洗濯物が揺れていて、どこかの部屋からテレビの音が漏れていて、世界はいつも通りに回っている。
俺だけがズレている。いつの間にか、何かがズレた。
スマートフォンをもう一度見た。ニュースの写真を拡大する。陥没した壁の奥の暗闇。その暗がりの中に——
画面の中で、黒い亀裂が、広がっていた。
写真の中だ。静止画のはずだ。なのに、昨日と同じあの黒い線が、壁の穴の縁から、じわりと這い出している。画面越しでも、見える。
俺は自分の右手を見た。スマートフォンを握る指。爪。関節。何の変哲もない、三十二歳の経理屋の手。
けれどその手の甲に、一瞬だけ——本当に一瞬だけ、蛍光灯の残像のように、赤黒い何かがちらついた気がした。
気のせいだと、今度は思えなかった。