第2話
第2話「すり鉢状のコロシアム」
闘技場の場所は、情報端末ですぐに見つかった。
ロビー中央から東に三ブロック。かつてはデュエルフィールドと呼ばれていた小さな対戦エリアがあった場所だ。だが転移ゲートを抜けた先に広がっていたのは、記憶とは完全に別の空間だった。
すり鉢状の巨大なコロシアム。数千人規模の観客席がぐるりと闘技場を囲み、その八割が埋まっている。天井は吹き抜けで、夜空に浮かぶ双子の月が青白い光を落としていた。風の音響効果まで実装されているのか、高台に立つと微かに冷たい空気が頬を撫でる。石造りの壁面には松明のエフェクトが等間隔で揺れていて、観客たちの影が巨大な波のようにうねっている。三年前のデュエルフィールドは最大百人の観客席しかなかった。スケールが文字通り桁違いだ。
「満席かよ……」
空いている席を探して最上段まで登る。ここなら他のプレイヤーに顔を覗き込まれる心配もない。フードを目深に被り直して、眼下の闘技場に目を向けた。
中央のステージに二つのギルドが展開している。左側は赤い旗——名前は知らない。右側は、さっきモニターで見たばかりのエンブレム。黒地に金の王冠。《覇王連合》。
場内アナウンスが響く。
『本日のメインマッチ! 挑戦者《紅蓮旅団》対、現王者《覇王連合》!』
歓声が地鳴りのように広がった。座席が振動するほどの音圧に、思わず肩が強張る。隣の席の男が興奮気味に連れに話しかけている。
「今日で何連勝だっけ」 「三十一。先週《鉄騎兵団》のエリート部隊を十二分で溶かしたばっかだぞ」 「《紅蓮》じゃ相手にならないだろ。カイトさんの動き見たくて来たようなもんだし」
三十一連勝。数字だけで異常さが分かる。ギルド戦は変数が多い。地形、メンバーのコンディション、相手の戦術——どれだけ実力差があっても、三十回連続で勝ち切るのは至難のはずだ。
開始のゴングが鳴った。
《紅蓮旅団》が教科書通りの布陣を敷く。タンクラインを前面に展開し、後衛をその後ろに固める。手堅い。だが——。
「遅い」
俺の口から勝手に言葉が漏れた。陣形の完成に四秒かかっている。その四秒で、《覇王連合》はすでに動き始めていた。
カイトの指揮は、映像で見るのとライブで見るのとではまるで違った。
開幕と同時に、三人の遊撃が左翼から弧を描くように展開する。《紅蓮》のタンクラインが遊撃に意識を向けた瞬間、正面の本隊が一歩だけ前に出る。たった一歩。だがその一歩で《紅蓮》のタンクは判断を迫られる——遊撃を無視して正面を受けるか、陣形を崩して対応するか。
どちらを選んでも詰んでいる。正面を受ければ左翼が崩壊し、遊撃に対応すれば正面が薄くなる。古典的な挟撃。だが問題は戦術そのものじゃない。タイミングだ。遊撃の到達と本隊の圧力が、コンマ数秒の精度で噛み合っている。息を呑んだ。握りしめた拳の中で、指先が汗ばんでいるのが分かった。三十人が一つの意思で動いているように見える。あれは練習量だけで到達できる領域じゃない。
《紅蓮》のタンクリーダーが遊撃への対応を選んだ。二人を割いて左翼に向かわせる。悪くない判断だ。だがカイトはその選択を待っていたかのように、本隊を一気に加速させた。
前衛が突っ込む。《紅蓮》の薄くなった正面が割れる。割れた隙間からDPSが後衛に殺到し、ヒーラーが三人まとめて落ちた。時間にして二十秒。回復手段を失った《紅蓮》はそこから総崩れになり、三分後にはフィールドに立っている者は全員《覇王連合》のメンバーだけだった。
三分。三十対三十のギルド戦が三分で決着する光景を、俺は見たことがない。
「うっわ、速すぎ」 「いや、《紅蓮》が弱いんじゃなくて《覇王連合》がおかしいんだって」 「カイトさんの初動見た? あの陽動、《不落の独奏者》の十八番だったやつじゃん」 「知ってる。カイトさんって元々ソロ時代の不落を研究して、それを三十人規模に落とし込んだらしいよ」 「研究っていうか、もう完全に超えてるだろ。不落の独奏者が束になっても勝てないレベルだわ」
——超えてる、か。
観客たちの会話が耳に刺さる。だが否定できない。今の試合、俺は開幕の遊撃展開を見た瞬間に《紅蓮》の敗北を読んだ。読めたのは自分の戦術がベースになっているからだ。だがその先——タイミングの精度、判断の速度、状況が動いた後の対応——すべてが俺の全盛期を上回っていた。
俺が五対五で磨いた戦術眼を、こいつは三十人の集団戦に完璧に翻訳している。スケールアップの過程で劣化するはずの精度がまったく落ちていない。むしろ人数が増えた分だけ選択肢が広がり、より精密な殺し方が可能になっている。
認めたくないが、認めざるを得なかった。
これは俺の上位互換だ。
闘技場の中央で、カイトが剣を納める。白銀の軽鎧に金のライン。装備のグレードが高いのは見れば分かるが、それ以上に立ち姿が違う。力みがない。三十一連勝しているプレイヤーの余裕——いや、これは余裕じゃない。まだ本気を出す相手に会っていない人間の、退屈に近い静けさだ。
《覇王連合》のメンバーがカイトの周りに集まる。カイトは軽く頷いてメンバーの労をねぎらっているようだった。そのやり取りすら統率が取れていて、ギルドとしての完成度の高さが透けて見える。
俺は無意識にスキル欄を開いていた。《独奏の残響》——Tier C。この場にいる誰よりも、その格付けの正しさを実感している。
かつて俺が立っていた場所に、別の誰かがいる。しかもその誰かは、俺が辿り着けなかった高みにいる。
三年。
三年あれば、世界はこれだけ変わる。俺が天井を眺めて腐っている間に。
「すげえなカイト。でもさ、俺一度でいいから生で不落の独奏者の試合見たかったんだよな」
後ろの席から聞こえた声に、背筋が凍った。
「無理でしょ。三年前に引退してるし、もう復帰しないって」 「だよなあ。伝説は伝説のまま終わりか」
伝説。その言葉が、嘲笑よりもずっと深く胸に突き刺さった。伝説とは、もう現在にはいない者に与えられる称号だ。博物館に飾られた剣のようなものだ。誰も実戦では使わない。美しいまま埃を被って、いつか誰の記憶からも消えていく。
奥歯を噛み締める。フードの奥で、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
ステージの片づけが終わり、カイトが退場ゲートに向かって歩き出す。
その途中で、足が止まった。
カイトが観客席を見上げた。何千人もの観客がいる中を、ゆっくりと視線が滑っていく。上段へ。最上段へ。
目が合った。
正確には、合った気がした。カイトのアバターは銀髪に蒼い目で、その瞳がこちらを捉えたかどうかは距離的に判別できない。だが俺の《独奏の残響》が微かに反応した。戦闘外でこのスキルが反応したのは初めてだ。観察対象として認識した、ということ。つまり——向こうもこちらを見ている。
カイトの視線が、ほんの一瞬だけ止まった。
反射的にフードを引き下げた。顔が隠れる。心臓が跳ねている。指の先が冷たい。見られた——いや、見られただけだ。休眠タグの古参がいるな、程度の認識だろう。俺のことなど知るはずがない。
だが指先が震えている。呼吸が浅くなっているのを自覚して、意識的に息を吐いた。吐いた息が、コロシアムの冷えた空気に白く溶けた。
カイトはすぐに視線を戻し、何事もなかったように退場ゲートをくぐっていった。
俺は最上段の席で、しばらく動けなかった。闘技場の照明が通常モードに切り替わり、観客がぞろぞろと帰っていく。歓声の残響が薄れ、やがて静寂が降りてくる。双子の月だけが変わらず青白い光を落としている。
立ち上がる。足はまだ少し震えていたが、ログアウトボタンには手を伸ばさなかった。
代わりに、情報端末を開いた。検索欄に四文字を打ち込む。指は震えたまま、だが一文字も打ち間違えなかった。
『闘技場 参加登録』
登録ボタンの上で、指が止まる。画面の光が暗い観客席にぽつりと灯っている。一度押せばもう戻れない。休眠タグが外れ、対戦履歴にこの名前が刻まれる。三年間隠れていた幽霊が、表舞台に引きずり出される。
それでも、迷いは一瞬だった。
胸の中の歯車が、三年ぶりに確かな音を立てて回り始めていた。