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不落の独奏者は錆を纏う

第1話 第1話「三年目のワンルーム」

第1話

第1話「三年目のワンルーム」

三年。たったそれだけの時間で、人間は自分が何者だったかを忘れられる。

俺——神崎レンは、薄暗いワンルームの天井を眺めていた。カーテンの隙間から差し込む夕日が、埃の粒子をオレンジに染めている。天井の染みは三年前から同じ形をしていて、それが妙に安心する自分が嫌だった。テーブルの上には食べかけのコンビニ弁当。冷めたハンバーグの脂が白く固まり、付け合わせのスパゲッティが弁当の端で干からびている。シンクには洗い物が溜まっている。水を止め忘れた蛇口から、ぽたり、ぽたりと雫が落ちる音だけが部屋に響いていた。どれも昨日と同じ景色だ。明日も変わらない。

スマホが震えた。

通知欄に浮かんだ名前に、心臓が跳ねた。ヨシノ。《ラストノート》の連絡用グループ——三年前に全員が沈黙した、あのグループチャットだ。

『レン、見てるか知らないけど一応送る。お前がいた頃の《アスクレイド》はもう終わった。全部、あいつに塗り替えられた』

短い文章だった。それだけだった。既読もつけなくていい、返信も期待していない。そういう温度の、ただの報告。

なのに、胸の奥で何かが軋んだ。

錆びついた歯車に無理やり力を加えたような、鈍い痛み。懐かしさじゃない。もっと原始的な——噛みつきたいような衝動。三年間、あらゆる感情に蓋をして生きてきたはずだった。バイトに行き、飯を食い、寝る。それだけの生活にようやく馴染んだと思っていたのに、たった一行のメッセージで全部揺さぶられている。

気づけば、クローゼットの奥からVRヘッドセットを引っ張り出していた。奥の方に押し込んでいたせいで、表面には薄く埃が積もっている。袖で拭うと、見慣れたロゴが現れた。充電ケーブルを挿す。電源ランプが青く灯るまでの数分間、俺は自分が何をしようとしているのか理解できなかった。

いや、理解したくなかっただけだ。

ヘッドセットを被る。こめかみを圧迫するパッドの感触が、かつての記憶を呼び覚ます。何千時間もこの重さと過ごした。体は忘れていなかった。

──ログイン。

暗転した視界に光が走り、世界が構築される。足元からタイルの硬い感触が這い上がってくる。空気の匂い、環境音のざわめき、遠くで鳴るBGM。三年経っても、VRの没入感は体が覚えていた。

だが、目の前に広がった光景は記憶の中のそれとは別物だった。

《アスクレイド・オンライン》メインロビー。かつては石造りの重厚な広場だったここが、巨大なクリスタルの柱で囲まれた近未来的な空間に変わっている。天井には半透明のホログラムが浮かび、ギルドランキングがリアルタイムで更新されていく。足元のタイルすら素材が変わっていた。かつての石畳の無骨な凹凸ではなく、踏むたびに淡い光の波紋が広がる、いかにも最新アップデートですと主張するような素材だ。

知らない名前ばかりだ。

《覇王連合》《鉄騎兵団》《星霜騎士団》——ランキング上位を占めるギルドの旗が、ロビーの四方に掲げられている。かつて俺たちの《ラストノート》が刻んでいた場所には、見たこともないエンブレムが並んでいた。

「……まあ、そうだよな」

三年だ。メタが三回は変わってる。知らないスキル、知らない装備、知らないシステム。プレイヤーの顔ぶれだって総入れ替えに近いだろう。行き交うアバターの装備はどれも見たことのないデザインで、エフェクトの密度も段違いだった。俺の黒いロングコートは、三年前のレイドイベントで手に入れた最高峰の装備だったはずだ。今ではまるで初心者が拾った街売り品のように見える。

ステータスウィンドウを開く。

名前の横に灰色のタグが刻まれていた。『休眠』。三年以上ログインのないアカウントに付与される烙印だ。周囲のプレイヤーから見れば、俺は墓場から這い出してきた化石でしかない。

「うわ、休眠タグとか初めて見た」

すれ違った二人組の片方が、露骨にこちらを見て笑った。

「マジだ。レベルは……え、カンストしてる? なにこの人」

「昔のカンスト勢でしょ。今のレベルキャップ一二〇だから、旧キャップの一〇〇止まりじゃ中堅にも勝てないよ」

聞こえている。全部聞こえている。だが言い返す言葉はない。事実だからだ。

俺はフードを深く被り、ロビーの端に移動した。壁際の情報端末は三年前と変わらない場所にあった。唯一、俺を安心させるものがこの旧式の端末だというのが皮肉だ。まずは情報収集だ。三年分のアップデートログを開く。膨大な量のパッチノートが目に飛び込んでくる。スキルツリーの大改修、新種族の追加、ギルド戦システムの刷新——。

「ギルド戦、完全に別ゲーじゃねえか」

呟きが漏れた。かつてのギルド戦は最大五対五のアリーナ形式だった。今は最大三十対三十のフィールド占領戦。指揮系統、兵站、陣形——個人技ではなく組織力が問われるゲームに変貌している。

ソロプレイヤーの居場所は、もうない。

いや——もともとなかったのかもしれない。俺が「不落の独奏者」と呼ばれていたのは、ソロで勝ち続けたからだ。だがそれは五対五の旧環境だったから成立した芸当で、三十対三十なら一人の天才より三十人の凡才が勝つ。

パッチノートを閉じようとした指が止まった。

スキル欄。俺の固有スキル《独奏の残響》がまだ残っている。「敵の行動パターンを観察し、戦闘中にリアルタイムで対応策を生成する」——かつて俺の代名詞だったパッシブスキル。効果は健在だが、説明文の末尾に小さく追記されていた。

『※現環境での評価:Tier C』

最強だったスキルが、三段階も格落ちしている。時代が変わったことを、これ以上なく端的に突きつけるたった一文字。

「……ま、そうだろうな」

口では納得してみせた。だが、握った拳の中で爪が掌に食い込んでいるのを、俺は自覚していた。

悔しい。

三年間、何も感じなかった胸の中に、確かに熱が灯っていた。

ロビーの中央に設置された巨大モニターが切り替わった。『本日のギルド戦ハイライト』のテロップが流れ、プレイヤーたちが足を止める。俺もつられて顔を上げた。

映像が始まる。

三十対三十のフィールド戦。一方のギルドが圧倒的に押している。だが俺の目は、勝っている側の指揮官の動きに釘付けになっていた。

開幕の陽動で敵タンクラインを分断し、遊撃隊を死角から差し込んで後衛を壊滅させる。敵が立て直す前に本隊が正面から圧力をかけ、退路を塞いで殲滅——。

知っている。

この動き、この戦術展開、この間合いの詰め方。全部知っている。

俺のだ。

いや——俺のだったものだ。映像の中のプレイヤーは、俺の戦術をベースにしながら、三十人規模にスケールさせている。ソロの技術を集団戦に最適化した、進化形。俺が到達できなかった先の景色が、そこにあった。

画面の端にプレイヤー名が表示される。

《覇王連合》ギルドマスター カイト。

「つっよ。今日も《覇王連合》かよ」「カイトさん三十連勝じゃない?」「不落の独奏者超えたってマジで言われてるし」

周囲の歓声が遠く聞こえる。俺はモニターを見上げたまま動けなかった。

画面の中のカイトが、勝利後に軽く手を振っている。その動作すら洗練されていて、カリスマの塊のようだった。三十人のギルドメンバーがカイトの周りに集まり、口々に勝利を称え合う姿が映し出される。あの輪の中心に立つ感覚を、俺はかつて知っていた。五人の仲間と共に掴み取った勝利の高揚を。だが画面の中の光景は、俺が知っているそれの六倍の規模で、六倍の熱量で回っている。

スマホの通知を思い出す。『全部、あいつに塗り替えられた』。ヨシノが言っていたのは、こいつのことか。

映像が終わり、リプレイが始まる。もう一度、同じ戦術を見せつけられる。二度目はさらに残酷だった。一度目は衝撃で見落としていた細部が、今度ははっきり見える。陽動のタイミング、遊撃の角度、本隊突入の間合い——すべてが俺の癖を踏襲した上で、さらに磨き上げられていた。周囲のプレイヤーたちは興奮冷めやらぬ様子で感想を語り合っている。

俺は黙ってモニターから目を逸らし、ロビーの出口に向かって歩き出した。

足が重い。ログアウトボタンに指を伸ばしかけて、止める。

まだだ。

胸の奥の軋みは、さっきよりも大きくなっている。錆びた歯車が、ゆっくりと回り始めていた。

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