第3話
第3話
赤い光が、世界を塗り替えた。
視界も、音も、感覚も——すべてが熱に呑まれていく。路地裏の暗がりが消えた。代わりに、俺の体から放射される赤い光が壁面を染め、アスファルトを照らし、夜の空気を真昼のように灼いている。
体温が百度を超えた。
超えた、という認識すら正確かどうかわからない。皮膚の表面から水分が蒸発し、白い湯気が全身を包んでいる。制服は胸元から燃え落ち、焦げた布の破片が宙を舞って灰になった。血液が——胸の傷口から溢れるはずの血液が、体外に出た瞬間に沸騰し、赤い霧となって路地に広がっていく。
赤い霧。
それは視界を覆うほどの濃度で立ち込め、路地裏を真紅の空間に変えた。霧の中で、俺の体が燃えている。内側から。骨の髄から。能力核——いや、もう「微熱」という名前では呼べない。みぞおちの奥で脈動するものは、もう一つの心臓のようだった。拍動するたびに全身の血管が赤く輝き、皮膚の下に溶岩の地図が浮かび上がる。
痛みは——ある。あるはずだ。百度を超えた体温で人間がまともでいられるわけがない。だが痛覚は熱の奔流の向こう側に追いやられ、代わりに得体の知れない万能感が体を満たしていた。指を握れば空気が焦げ、息を吐けば吐息が陽炎になる。
「——第二覚醒か」
氷室の声が、赤い霧の向こうから聞こえた。動揺は一瞬で消え、その声にはむしろ冷徹な分析の色があった。
「Gランクが第二覚醒するなど前例がない。管理局の記録にも——いや、そんなことはどうでもいい」
冷気が膨れ上がった。路地の空気が一瞬で白く凍てつき、氷室を中心に半径五メートルの氷結領域が展開される。地面が、壁が、空気そのものが凍りつく。Aランクの全力展開。先ほどまでの牽制とは桁が違う冷気が、赤い霧を押し返しにかかった。
「制御できていないな。暴走だ。——始末する」
氷の槍が五本、同時に生成された。それぞれが一メートルを超える長さで、先端は光を通すほど透明に研ぎ澄まされている。空気中の水分を急速凍結して作り出す、Aランク氷結術式の本領。五方向からの同時射出。回避は不可能。
槍が放たれた。
五本の氷槍が白い軌跡を引いて俺に迫る。速い。音より速いかはわからないが、俺の動体視力では捉えきれない速度だった。
だが——体が動いた。
避けたのではない。俺の体表から爆発的に放出された熱波が、五本の氷槍を一瞬で蒸発させたのだ。氷が水になる段階を飛ばし、直接蒸気に変わる。昇華の逆——いや、強制蒸発。俺の体を中心に半径二メートルほどの空間で、氷は存在を許されなくなっていた。
「馬鹿な」
氷室が初めて顔色を変えた。Aランクの氷結が、蒸発した。力と力の正面衝突で、Gランクの少年がAランクの術式を無効化した。ありえない。理論上ありえない。
ありえないのは俺自身が一番わかっている。
だが体は止まらない。能力核の奥で目覚めた第二の炎が、意思とは無関係に出力を上げ続けている。体温はもう測定不能だ。足元のアスファルトが柔らかく融けて靴底を呑み込み、壁面のレンガが赤く焼けて罅割れ始めた。路地裏が窯の中に変わっていく。
一歩、前に出た。
融けたアスファルトが足跡の形に陥没する。二歩目。三歩目。歩くたびに地面が焼けて赤い轍を残した。赤い霧が俺の動きに従うように揺らぎ、路地全体がうねりを帯びる。
氷室が後退しながら氷壁を張る。三重、五重、七重。だが俺が手を伸ばすだけで、最初の壁が蒸気に変わり、次の壁が融解し、その次が罅割れた。触れてすらいない。俺の体から放射される熱が、二メートル先の氷を消し飛ばしている。
「Gランクの覚醒でこの出力はありえない。おまえは——何だ?」
氷室の問いに、答える余裕はなかった。
右腕が、焼けている。
全身を満たす熱の中で、右腕だけが異常だった。他の部位は熱に適応しているように見えるのに、右腕の皮膚が黒く変色し始めていた。表皮が炭化し、その下の肉が赤く露出する。能力核から送り出される熱量に、右腕の組織だけが耐えきれていない。二年間の型稽古で最も酷使してきた右腕。反復運動で微細な損傷が蓄積していた部位が、真っ先に限界を迎えたのだ。
痛みが——万能感の膜を突き破って、脳に届いた。
焼ける。右腕が内側から焼けている。皮膚が炭になり、筋繊維が縮み、その下の骨膜が熱で膨れる感覚。指が動かない。肘から先の感覚が、灼熱の痛みに塗り潰されていく。
叫んだ。声にならない叫びが喉を裂き、吐息が炎のように空気を焦がした。
その叫びと同時に、制御を失った熱波が前方に炸裂した。
氷室の七重の氷壁が、一瞬で消滅した。蒸発の過程すら見えない。そこにあった氷が、次の瞬間にはなかった。爆発的な蒸気が路地を満たし、視界が完全に白く染まる。
蒸気が晴れたとき、氷室は路地の出口に立っていた。十メートル以上の距離を一瞬で退いている。黒いコートの右袖が焼け焦げ、その下の肌が赤く爛れていた。Aランク能力者が——防御の上から火傷を負っている。
「……第二覚醒者か」
氷室の目が細まった。苦痛ではなく、計算の目だった。状況を測り、撤退の判断を下すまでの時間がわずか二秒。
「覚えておけ。管理局が見逃すことはない」
氷室の足元から冷気が噴き出し、靴底に氷のレールが形成された。それを滑るように、黒いコートの影が路地の闇に溶けていく。追う力は残っていなかった。追う意思はあったかもしれないが、右腕が限界を告げていた。
一人になった路地裏で、膝から崩れ落ちた。
赤い霧が薄れていく。体温が急速に下がり始め、能力核の脈動が弱まっていく。覚醒の炎が引いた後に残ったのは、焼け焦げた路地と、融けたアスファルトと、炭化しかけた右腕の激痛だった。
右腕を見る。肘から指先にかけて、皮膚が黒い樹皮のように罅割れていた。ところどころ赤い肉が覗き、触れていないのに焼けるような痛みが波のように押し寄せる。指は一本も動かない。
それでも——倒れた男は生きていた。
十メートル先で横たわる男の体を覆っていた氷は、すべて融けていた。かすかに胸が上下している。浅いが、呼吸はしている。
守れた、のか。わからない。ただ、目の前で人が死ぬのは止められた。
左手で携帯を取り出そうとして、ポケットの中で端末が熱で変形しているのに気づいた。通話も通報もできない。
「……くそ」
吐き捨てるように呟いた瞬間、路地裏の上空で何かが光った。
見上げる。ビルの屋上付近に、青白い光点が三つ。等間隔に並び、こちらを観測している。肉眼では形状が判別できないが、能力核が本能的に反応した。あれは機械じゃない。術式だ。監視術式。誰かが——最初から、この路地を見ていた。
光点が明滅した。通信しているのだ。
直後、遠くからサイレンのような音が聞こえた。だがパトカーのそれとは違う。低く、重く、空気を圧迫するような周波数。養成校の緊急訓練で一度だけ聞いたことがある。
管理局の拘束部隊の出動信号。
「Gランク識別番号〇七二三、火宮蓮。第二覚醒反応を確認。管理法第十七条に基づき、即時拘束命令が発令されました」
声は上空から降ってきた。青白い光点の一つが拡大し、人型の輪郭が浮かび上がる。管理局の術式官。姿は見えないが、声だけが夜の路地裏に冷たく響いた。
「抵抗した場合、無力化処置が適用されます。その場で待機してください」
右腕が焼け、体温調節が崩壊し、能力核は沈黙し、携帯は壊れている。路地には融けたアスファルトの異臭と、自分の焦げた皮膚の匂いが充満している。
逃げられるのか。こんな体で。
だが、氷室の最後の言葉が頭にこびりついている。「管理局が見逃すことはない」。あの男は管理局を恐れていなかった。むしろ、管理局の動きを正確に予測していた。それはつまり——
サイレンが近づいてくる。上空の光点が四つに増えた。
俺は左手で壁を掴み、立ち上がった。炭化した右腕が垂れ下がり、一歩ごとに視界が明滅する。
それでも、ここで捕まるわけにはいかない。理由はうまく言葉にできない。ただ、路地裏で見たものが——Aランク能力者が一般人を氷漬けにする光景が、管理局の監視下で起きていたという事実が、腹の底で煮えていた。
融けたアスファルトに焼け跡を残しながら、路地の反対側へ走り出した。