第2話
第2話
Aランク能力者の氷槍が、俺に照準を合わせている。
路地裏の空気が肺を刺す。吐く息が白く凍り、鼻腔の粘膜が痛むほどの冷気だった。街灯の光すら凍りついたように色を失い、アスファルトの黒が氷の膜越しに青白く歪んでいる。
逃げろ。頭の中で何度も反復される命令に、脚だけが従わない。恐怖で動けないのとは違う。視界の端で、地面に倒れた男の唇が紫を通り越して灰色に変わっていくのが見えた。指先はとうに白蝋のようになり、浅い呼吸のたびに胸がかすかに上下するだけだ。あの男がこのまま放置されたら死ぬ。その確信が、逃走本能に蓋をしていた。
「聞こえなかったか? 見てたのか、と聞いている」
黒いコートの男が一歩近づく。革靴の底が氷を踏む硬質な音が路地に反響した。冷気がさらに密度を増す。肌の表面に目に見えない針を無数に突き立てられているような感覚。もう俺の靴底は完全に凍りつき、足を剥がそうとすると氷が軋んだ。
「……見てた」
声が震えた。認めたところで状況が好転するわけがない。だが嘘をつける空気ではなかった。この男の前では、あらゆる虚偽が凍結して砕け散るような気がした。
「養成校の生徒か。制服でわかる」
男の視線が俺の胸元の校章に落ちる。そして、わずかに目を細めた。その瞳の奥に感情の温度はない。ただ対象を測定する機械のような正確さだけがあった。
「Gランクの識別章。——呆れた。こんな場所にGが何の用だ」
「通りかかっただけだ」
「そうか。運が悪かったな」
同情でも嘲笑でもない。ただ事実を述べるような声だった。それが余計に恐ろしい。この男にとって、俺を殺すことには感情的な重みがない。路地裏のゴミを片付けるのと同じ手間でしかない。
氷槍の先端が微かに輝いた。圧縮された冷気が光を屈折させている。あれが射出されたら、俺の「微熱」では受け止めることも逸らすこともできない。出力差は数百倍。理論上の絶望が、今まさに物理的な距離として目の前にある。
「その男を……放してくれ」
なぜそんな言葉が出たのか、自分でもわからなかった。口が勝手に動いていた。倒れた男の灰色の唇が、記憶の中の誰かと重なったのかもしれない。あるいは単に、目の前で人が死んでいくのを黙って見ていられるほど、俺は器用にできていなかった。
男——氷室、とでも呼ぶべきか。整った顔に、初めて表情らしきものが浮かんだ。それは、困惑だった。
「Gランクが、俺に命令しているのか」
「命令じゃない。頼んでる」
「同じことだ。——答えは変わらない」
氷室の右手が振られた。
氷槍が射出される、と思った。だが違った。氷室は槍を放つ代わりに、地面に倒れた男に向けて冷気の濃度を上げた。男の体表に薄い氷の膜が形成され始める。凍結速度が加速している。皮膚を覆う氷の層が、微かにぱきぱきと音を立てて厚みを増していく。
「やめろッ!」
体が動いた。凍りついた靴底を力任せに引き剥がし、路地を駆ける。氷が砕ける音が足元で弾け、冷気が剥き出しの足首を噛んだ。能力核に意識を集中させた。ありったけの熱を、掌に。四十度に届くかどうかの微熱。それでも、倒れた男の体に触れて氷の膜を少しでも融かせれば——。
三歩目で、世界が白くなった。
衝撃はなかった。痛みもなかった。ただ胸の中央に、冷たいものが通り抜けた感触だけがあった。内臓の奥を氷水が一直線に貫くような、温度だけの暴力。見下ろすと、制服の胸元から透明な氷の棘が十センチほど突き出していた。
氷室は槍を投げなかった。地面から氷柱を生やしたのだ。俺が駆け出すことを読み、動線上のアスファルトに仕込んでいた。
「……あ」
声が漏れる。口の中に鉄の味が広がった。舌の上に重く熱い液体が溜まり、唇の端から顎を伝って落ちた。膝から力が抜け、前のめりに倒れる。氷柱が体内で折れ、鋭い破片が肺を抉る感覚。冷たい。体の芯から凍っていく。
「言ったはずだ。運が悪かったと」
氷室の声が遠い。視界が暗転と明転を繰り返す。路地裏の薄い街灯が、万華鏡のように歪んで見えた。
——死ぬのか、こんなところで。
教科書の文字がちらつく。Gランクの平均寿命は他のランクと変わらない。なぜなら危険な任務に就くことがないからだ。安全な人生。無害な人生。湯を沸かすだけの人生。それが、路地裏の氷の上で終わる。
御子柴の声が脳裏に蘇った。
——型の精度は、Cランクの連中より上だ。
そうだ。俺は二年間、毎日百回の正拳を突いてきた。出力が足りないなら精度で補う。弱い能力でも、使い方次第で——。
次第で、何だ?
答えが出ないまま、意識が沈んでいく。冷たい。もう指先の感覚がない。能力核がみぞおちの奥で明滅している。消えかけの炭火のように、弱々しく。だが完全には消えない。二年間、毎日欠かさず使い続けた核だ。微弱でも、しぶとい。
——熱い。
不意に、沈んでいく意識の底で何かが弾けた。
みぞおちの奥。能力核があるはずの場所。そこに、今まで感じたことのない熱の塊が膨れ上がっていた。微熱どころではない。内臓が焼かれるような灼熱。体温計があったなら、三十七度を突き破り、三十八、三十九と数字が跳ね上がっていくのが見えたはずだ。
胸に刺さった氷柱の表面から、蒸気が上がった。
氷室が足を止めた。
「——何だ?」
透明だった氷柱が白濁していく。融解ではない。内側から加熱されている。氷が水に変わり、水が蒸気に変わる。俺の体内で、氷室のAランク氷結術式を上回る熱量が発生している。
ありえない。Gランクの「微熱」に、そんな出力はない。
だが体は知っていた。能力核が回転数を上げ、血液の一滴一滴に熱を注ぎ込んでいるのがわかる。体温が四十度を超えた。四十一度。四十二度。人体が正常に機能できる限界を、能力核が力ずくで押し広げていく。
胸の氷柱が完全に蒸発した。穴から白い蒸気が噴き出し、血が——赤い血が蒸発し、淡い赤色の霧となって立ち昇る。
「馬鹿な。Gランクの識別章だったはずだ」
氷室の声に、初めて動揺が混じった。右手から冷気を放射し、牽制の氷弾を三発。俺の体表に着弾した瞬間、すべてが蒸発した。着弾の衝撃すら感じない。まるで肌が、氷そのものを拒絶しているかのようだった。
四十五度。四十八度。五十度——。
体が勝手に起き上がる。意思ではない。熱が、俺の体を内側から持ち上げたのだ。路地裏の氷が足元から融解し、水蒸気の幕が二人の間に立ち込める。
痛みがない。穴が空いた胸も、折れたはずの氷柱の破片も、すべてが灼熱に焼き潰されて痛覚が麻痺している。代わりに、体中の血管が脈打つのが聞こえた。どくん、どくん、と。一拍ごとに体温が一度ずつ上がっていく。
俺は自分の右手を見た。
皮膚の下で、血管が赤く発光していた。まるで溶岩の亀裂のように、手の甲から前腕にかけて赤い筋が浮かび上がっている。触れたものを焼くのではない。俺自身が、炉になろうとしている。
「やめろ。自分の体が持たないぞ」
氷室が警告した。敵に対する慈悲ではない。予測不能な事態への本能的な警戒だ。Aランク能力者が、Gランクの少年を前に後退した。一歩。また一歩。その革靴の下で、融けた氷が水溜まりを作り、路地の排水溝に向かって流れていく。
体温が六十度を超えた。
制服の繊維が焦げる匂い。路地の壁面に張っていた霜が蒸発し、レンガが乾いた音を立てて罅割れる。空気が揺らぐ。陽炎が、四月の夜の路地裏に立ち昇った。
視界が赤い。赤いのか。自分の目が赤く光っているのか。わからない。わかるのは、体の中で何かが目覚めようとしていること。二年間、毎日百回の正拳で叩き続けた能力核の殻が——今、砕けようとしていること。
氷室が両手を構えた。本気の構え。冷気が路地の空気を白く染め、氷の壁が三重に展開される。Aランクの全力防御。
俺の胸の穴から、赤い蒸気が噴き上がった。
体温が百度に届こうとしていた。意識が白熱する。脳が沸騰している。
——これが。
言葉にならない。だが、能力核の奥で、もう一つの核が脈動しているのがわかった。微熱の奥に隠されていた、もう一つの炎。
制御できない。止められない。止めたくない。
夜の路地裏に、赤い光が溢れた。