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未踏灯──Eランクと魔改の石板

第2話 第2話

第2話

第2話

唸り声は、空気そのものを震わせた。

レンは反射的に腰の短剣に手を伸ばした。柄を握った瞬間、左肩に走った痛みで歯を食いしばる。落下の衝撃が関節の奥に残っていた。短剣を抜き、刃こぼれだらけの切っ先を闇の方角に向ける。手が震えていた。寒さでも痛みでもない。この場所の空気が、体の芯に巻きついて離れない。肌の表面を這うような冷気ではなく、骨の髄に直接染み込んでくる異質な圧迫感だった。呼吸をするたびに肺が重くなる。吸い込んだ空気そのものに、何か見えない質量が混じっているかのようだった。

唸り声は続いている。断続的ではなく、途切れることのない持続音だった。地面を通じて足裏にまで伝わってくる。大きな生き物の呼吸のリズムに似ているが、呼気と吸気の間がない。まるで声を出すこと自体がその生き物の存在様式であるかのように、低く、重く、空間を満たし続けている。

レンは後退しようとして、背中に壁の感触を得た。崩落してきた穴を見上げる。青白い鉱石の光が照らす天井は高く——五階建ての建物がすっぽり収まるほどの距離があった。崩落口は遥か上方に暗い穴として口を開けているが、壁面は滑らかで、とても登れる状態ではなかった。

退路はない。

松明は落下の途中で見失った。だが、この空間には鉱石の光がある。冷たく青い光は影を濃く落とし、奥行きの把握を困難にしていたが、完全な暗闇よりはましだった。レンは壁に背をつけたまま、視線を闇の奥に据えた。

唸り声の方向が変わった。右から——いや、左だ。音が壁面に反射して、発生源が掴めない。レンは呼吸を殺し、耳を澄ませた。第3層の魔物なら、足音で位置がわかる。スライム系なら粘液が地面を擦る音、ゴブリン種なら爪が石を引っ掻く音。どんな魔物にも移動の気配がある。

だが、聞こえてくるのは唸り声だけだった。足音がない。

その事実が、レンの背筋を凍らせた。

足音のない大型の魔物。第3層までの図鑑には存在しない。レンが知る限り、公式に記録されている迷宮の魔物で、この規模の唸り声を出しながら無音で移動できるものはいない。

ここが公式マップに載っていない空間であることを、改めて思い知らされた。

青白い鉱石の光が、不意に揺らいだ。

光源そのものが揺れたのではない。何かが光の前を横切ったのだ。レンの正面、およそ三十歩先の壁面に群生していた鉱石の光が、一瞬だけ遮られた。影は左から右へ、滑るように移動した。大きい。人の背丈の二倍はある影が、音もなく動いている。

レンは短剣を構え直した。刃を顔の前に立て、切っ先の向こうに目を凝らす。鉱石の光が影の輪郭を浮かび上がらせた。

四本の脚。太く、地面をしっかりと捉えている。だが足音がしない理由が見えた——足の裏が、地面と同じ色をした鱗に覆われている。歩くたびに鱗が地面の凹凸に吸いつくように密着し、衝撃を完全に吸収しているのだ。

胴体は岩のように厚く、表面にはこの空間の壁面と似た紋様が走っていた。紋様は鱗の一枚一枚に刻まれており、鉱石の光を受けて鈍く明滅している。長い首がゆっくりと持ち上がり、頭部が鉱石の直下に入った瞬間、レンはその全容を視認した。

竜だった。

東洋の龍でも、童話に出る翼のある竜でもない。四つ足で地を這い、尾は太く短く、頭部は扁平で横に広い。顎の下から喉にかけて、薄い膜状の器官が呼吸に合わせて膨張と収縮を繰り返していた。唸り声の発生源はそこだった。鳴嚢のような構造が振動し、空間全体に低周波を送り続けている。

目が合った。

竜種の瞳は縦に裂けた金色で、虹彩の中に赤い斑点が散っていた。その瞳がレンを捉えた瞬間、唸り声の周波数が変わった。低音がさらに沈み、空気の振動が肌を叩くほどの圧に変わる。鳩尾の奥が締め上げられるような感覚が走り、膝が一瞬だけ笑った。本能が叫んでいる。逃げろ、と。だが逃げる先がないことを、体はとっくに理解していた。

レンは動けなかった。恐怖で、ではない。体が正確に計算していたのだ。この距離、この体格差、この装備。刃こぼれした短剣一本で、あの鱗に傷をつけられる可能性は——ゼロに等しい。逃げ場はない。背中は壁。左右に空間はあるが、足音を消して移動できる四足竜種に、Eランクの脚力で逃げ切れるはずがなかった。

竜種が一歩を踏み出した。音はない。だが地面が微かに軋んだ。巨体の質量だけは、さすがに大地から隠しきれないらしい。

二歩目。距離が詰まる。二十歩。鱗の表面に走る紋様が、近づくにつれて細部まで見えてくる。壁面の紋様と同じ——いや、より複雑だ。幾何学的な線が鱗の一枚ごとに異なるパターンで刻まれ、全体としてひとつの巨大な図形を形成しているように見えた。

レンの脳裏に、母の言葉が閃いた。ハンターになる前、母がよく言っていたこと。

「逃げられないなら観ろ。動きを、呼吸を、重心を。生き物には必ず隙がある」

母は元Cランクのハンターだった。引退した理由をレンは知らない。ただ、幼い頃に見た母の目を覚えている。迷宮から帰ってきた日の、どこか遠くを見つめるような目。夕食の席で箸を動かしながら、何度も窓の外の暗がりに視線を投げていた。幼いレンが「おかえり」と声をかけると、少し遅れて微笑んだ。その微笑みの奥に、子供のレンでさえ踏み込めない深い影があった。あの目が今、自分にも宿っているだろうか。

三歩目。十五歩。竜種の顎の膜が大きく膨らんだ。唸り声が途切れ、一瞬の静寂が落ちた。静寂は音の不在ではなかった。それまで空間を埋め尽くしていた低周波が消えたことで、耳の奥に痛みに似た圧が残った。鼓膜が、失われた振動をまだ探している。

——来る。

レンは壁を蹴って横に跳んだ。直後、竜種の頭部が突進してきた。扁平な頭が壁面に叩きつけられ、石壁が砕け散る。破片がレンの頬を掠め、熱い筋が一本走った。空気の塊が顔を叩き、髪が逆巻く。衝突の衝撃波が空間全体をびりびりと震わせ、天井から細かな砕石が雨のように降り注いだ。

転がりながら体勢を立て直す。左肩が悲鳴を上げたが、構っていられない。竜種は壁から頭を引き抜き、首を回してレンを探している。動きは速くない。突進の一撃に全体重を乗せる分、方向転換に時間がかかる。

だが、それだけだった。レンに見えた隙は、それだけ。方向転換の数秒間に斬りつけたところで、あの鱗に刃こぼれの短剣が通るはずがない。

レンは走った。考えるより先に足が動いていた。竜種の右側面を回り込むように駆け抜け、鉱石の群生が最も密集している壁際を目指す。光が多い場所なら、少なくとも視界は確保できる。走りながら、自分の呼吸音が耳障りなほど大きいことに気づいた。心臓が喉元まで迫り上がり、こめかみの血管が脈打つたびに視界の縁が明滅する。

背後で、竜種が体の向きを変える気配がした。鱗が地面を擦る、かすかな——本当にかすかな音。そして再び、唸り声が空間を満たし始める。低く、重く、逃げ場のない圧。

壁際にたどり着いたレンの足元に、崩落で散乱した鉱石の破片が転がっていた。拳ほどの大きさの、青白く発光する石。拾い上げると、掌に冷たい振動が伝わった。脈打つようなリズム。壁面の紋様に触れた時と同じ感覚だった。

竜種が向き直った。金色の瞳がレンを捉え、顎の膜が再び膨らむ。

二度目の突進が来る。今度は距離が近い。避けきれるかどうか——。

レンは鉱石の破片を握り締めた。武器にはならない。投げたところで、あの鱗に弾かれるだけだ。だが、他に何もなかった。唇が渇き、舌の上に鉄の味が広がる。頬の傷から流れた血が、口の端まで伝っていた。

竜種の後脚が地面を掴み、巨体が沈み込む。跳躍の予備動作。石の床に亀裂が走り、爪が岩盤に食い込む鈍い音が響いた。

レンは呼吸を止め、右腕を振りかぶった。

その時、掌の中で鉱石が脈動した。一際強く、まるで心臓が跳ねるように。青白い光が指の隙間から溢れ、レンの腕を、肩を、視界の端までを白く染めた。

——何だ、これは。

光は収まらない。鉱石が熱を持ち始めていた。掌が焼けるような感覚の中、竜種が跳んだ。扁平な頭部が空気を裂いて迫る。

考える暇はなかった。レンは光る鉱石を、竜種の顔面に向けて投げつけた。

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