第1話
第1話
朝のギルドホールは、湿った革と安い珈琲の匂いがする。
宮坂レンは掲示板の前で足を止めた。昨晩、自分の名前を書き込んだ募集用紙——「第3層周回・前衛1名募集」の欄に、見覚えのない赤い横線が引かれている。レンの名前だけが消されていた。他の応募者の名前はそのまま残っている。
三度目だった。今週だけで。
赤い線はまっすぐ引かれていた。迷いなく、ためらいなく。消す側にとっては当然の判断なのだろう。Eランクを前衛に入れるパーティなど、まともな判断力があれば組まない。わかっている。わかっていて、それでも毎晩名前を書く自分が滑稽だった。
「……まあ、そうだよな」
声に出すと、妙に軽く聞こえた。隣の募集用紙にも目を向ける。「Dランク以上」「最低でもD」「要・身体強化スキルLv3以上」。どれも、Eランクの自分には縁のない条件が並んでいた。
受付カウンターの向こうで、職員の女性がこちらを見ている気配がした。視線を合わせれば、決まって同じ言葉をかけられる。「宮坂さん、今日も単独ですか? 無理はしないでくださいね」——親切な声。だが言葉の裏には、Eランクが単独で潜ること自体への呆れが滲んでいる。
レンは掲示板に背を向け、装備庫へ歩き出した。使い古した革鎧に腕を通し、刃こぼれの目立つ短剣を腰に差す。革鎧の内側は汗と湿気で変色していて、胸当ての留め具はひとつ欠けたまま針金で代用してある。新調する余裕はない。短剣の刃を親指の腹で確かめると、砥ぎ直した跡がいくつも重なって、元の刃紋がもう判別できなかった。同期のハンターたちはとっくにDランクに上がり、中層のパーティ探索で報酬を稼いでいる。レンだけが低層をうろつき、一日の探索報酬で食費を賄う暮らしを続けていた。
身体強化スキルの出力は、同期の半分以下。ギルドの測定官にも「体質的な上限でしょう」と告げられている。才能がない。それは自分が一番わかっている。
それでも、潜ることをやめる選択肢はなかった。
五年前の冬を、レンは今でも正確に覚えている。
母がダンジョンに入ったのは十二月七日の朝だった。Bランクハンター・宮坂ハルカ。中層の定期探索任務。危険度は低いとされていたルートだ。夕方に帰るはずだった。朝、玄関で「夕飯はカレーがいい」と言ったレンに、母は笑って「じゃあ帰りに買い物して帰るね」と答えた。その声の温度を、レンはまだ覚えている。冬の朝の、白い息の向こうに見えた母の横顔。目尻の笑い皺と、探索用のブーツを履きながら片手で髪を束ねる慣れた仕草。日常の、何でもない朝だった。何でもないまま終わるはずだった。その日の夜、ギルドから自宅に連絡が入った。「帰還が確認できません」。
捜索隊が三日間、中層を隅々まで調べた。遺体はおろか、装備の破片すら見つからなかった。戦闘の痕跡もない。まるで最初からそこにいなかったかのように、母はダンジョンの中層から消えた。
ギルドの公式記録には「探索中行方不明・推定死亡」と記載されている。だがレンは、その結論を受け入れたことが一度もなかった。Bランクのハンターが、低危険度の中層で痕跡もなく消えるはずがない。何かがあった。何かが母をどこかに連れ去った——あるいは、母は自分の意思でどこかに行った。
どちらにしても、手がかりはダンジョンの中にしかない。
「行ってきます」
誰にともなく呟いて、レンは迷宮の入口に立った。地下へ続く大階段の先から、ひんやりとした風が吹き上がってくる。土と、鉄錆に似た鉱物の匂い。何百回と嗅いだはずのこの匂いを、不快だと思ったことはなかった。むしろ近い。母が帰ってこなかった場所の空気だと思うと、どこかで安堵すら覚える自分がいた。
第1層と第2層は、足早に通過した。低層は構造が単純で、魔物の配置パターンも把握している。松明の炎が壁面を舐めるように照らし、自分の影だけが連れのように揺れた。
第3層に入ると、空気が変わる。湿度が上がり、天井から滴る水の音が等間隔に響く。壁面には苔が厚く張りつき、踏み締める地面も微かにぬめる。レンは短剣の柄に手を添えながら、踏破済みのルートを進んだ。
第3層はもう百回以上歩いている。角を曲がるたびに現れる分岐も、壁面のひび割れの位置も、どこに溜まり水があるかも全部知っている。それでも気を抜くことはしない。母のことがある。低危険度でも何が起きるかわからない。それだけは身に染みていた。
東側の回廊を抜けたところで、レンは足を止めた。
壁面に、見覚えのない紋様があった。
蔦のように広がる線刻が、石壁の表面に浅く刻まれている。以前は——少なくともレンの記憶では——なかったものだ。風化した古い彫刻のようにも見えるが、線のひとつひとつが妙に鮮明で、まるで昨日刻まれたかのようだった。
「こんなの、あったか……?」
松明を近づけると、紋様の溝に青みがかった光が走った。一瞬だけ。目の錯覚かと疑うほど微かだったが、確かに光った。レンの胸の奥で、何かが反応した。理屈ではない。この紋様を無視してはいけない、という直感だった。
手袋を外し、指先を壁面に当てた。石の冷たさが指を伝う。紋様の溝をなぞるように、人差し指をゆっくりと滑らせた。指先に伝わるのは単なる冷たさだけではなかった。微かな振動——脈拍のようにゆっくりと波打つ何かが、石の向こう側から響いてくる。まるで壁自体が呼吸しているかのような錯覚に、レンは思わず息を止めた。
三本目の線に触れた瞬間、足元で鈍い音がした。
地鳴りに似た振動が、足裏から脛、腰へと駆け上がる。レンが反射的に壁から手を引いた時にはもう遅かった。立っていた石床に亀裂が走り、蜘蛛の巣のように広がっていく。
「っ——」
崩落は一瞬だった。足場が砕け、体が落ちる。松明が手を離れ、闇の中でぐるぐると回転しながら落ちていく炎の残像だけが視界に映った。壁面を掴もうと伸ばした手が空を切り、背中から何かに叩きつけられ、さらに斜面を転がった。
砂利と礫が体に降り注ぐ中、レンは頭を両腕で覆い、体を丸めた。落下の衝撃が全身を軋ませ、左の肩甲骨のあたりに鈍い痛みが脈打った。口の中に砂の味が広がり、噛み締めた奥歯の隙間から石の粉がじゃりと鳴った。
やがて、崩落の音が止んだ。
静寂が戻る。いや——違う。ここの静寂は、第3層のそれとはまるで異質だった。第3層には水滴の音があり、苔の湿った気配があり、遠くで蠢く魔物の微かな足音があった。ここにはそのどれもない。音の欠落ではなく、音が存在することを許されていないような、圧のある静けさだった。
レンはゆっくりと目を開けた。
暗闇の中に、青白い光が浮かんでいた。天井から——正確には、はるか上方から突き出た鉱石の群れが、自ら発光している。その光は冷たく、硬質で、松明の温かみとは対極にある色をしていた。光に照らされた自分の手を見下ろすと、肌が青みを帯びて、まるで別人の手のように見えた。指先が微かに震えている。寒さではない。この場所が持つ、得体の知れない気配に体が反応しているのだと、レンは自覚していた。
空気が違う。第3層の湿った空気とは異なり、ここには金属の味がした。舌の奥にじわりと広がる、鉄と、もっと古い何かの気配。鼻腔を満たす匂いには苔の成分がない。代わりに、乾いた石と、微かに甘い——花のような、だが花ではない何かの香りが混じっていた。肺を満たすたびに、その空気は体の内側に沁み込んでいくような感覚があった。
レンは体を起こし、あたりを見回した。
広い。第3層のどの部屋よりも広い空間が、青白い鉱石の光の下に広がっていた。地面には見たことのない植物が低く茂り、壁面には先ほどと同じ紋様が、今度は何十倍もの規模で刻まれている。紋様の線は壁面を伝って天井にまで続き、発光する鉱石のひとつひとつを繋ぐように走っていた。まるで巨大な回路図のようだった。
公式マップには、第3層の下にこんな空間は記載されていない。
「……どこだ、ここ」
声が反響した。天井が高い。レンの声は薄く引き伸ばされて、闇の奥へ吸い込まれていった。
そしてその闇の奥から、何かが応えるように——低い、地の底を這うような唸り声が返ってきた。