第3話
第3話
ダイレクトメッセージの通知が、一日中スマホの画面に居座っていた。
《Iron Crown》。攻略サイトのギルドランキングでは不動の一位。メンバー数は三百人超、大規模レイドの最速クリア記録を量産している化け物集団。その幹部から「話がしたい」と来ている。
授業中に何度も画面を確認した。既読をつけていない。つけたら何かが始まってしまう気がして、通知の数字をただ眺めていた。ポケットの中でスマホが震えるたびに、心臓が一拍だけ速くなる。指先が無意識にポケットに伸びて、そのたびに引っ込める。数学の教師が黒板に書く二次関数のグラフが、ダンジョンの地形マップに見えた。
昼休み。屋上。鮭のおにぎり。いつもの席に腰を下ろして、空を見上げる。四月の雲が薄く流れている。風が少し冷たい。コンクリートの手すりに寄りかかると、制服の背中にひんやりとした感触が伝わる。屋上には俺しかいない。いつものことだ。おにぎりの海苔の匂いが風に乗って散る。咀嚼する音だけが妙にはっきり聞こえて、自分の孤独の輪郭を確かめるような昼だった。
掲示板のスレッドは朝の時点で二千件を超えていた。「運極振りの無名」は一種のミームになりつつある。場所特定班が城壁北東を掘り返しているらしいが、〈星図の欠片〉がないと入口は開かない。欠片の入手先——隠しショップの場所は、まだ誰にもバレていない。
俺だけが持っている情報。俺だけが見える世界。それを、巨大ギルドが欲しがっている。
おにぎりの最後の一口を飲み込んで、メッセージを開いた。
《お話ししましょう。今夜、ログインします》
送信。既読がついた。三秒で返信が来る。
《22時、リグノア中央噴水広場でお待ちしています。——レイガ》
丁寧な文面だった。名前を検索すると、《Iron Crown》の副団長。レベルは現時点でサーバー上位十名に入る重剣士。掲示板では「氷の参謀」と呼ばれている。
夜が来るのが、昨日とは違う意味で待ち遠しかった。
——午後十時。ログイン完了。
リグノア中央噴水広場。夜でも松明の灯りで明るい。プレイヤーの往来は昼間ほどではないが、それでもちらほらと人影がある。
噴水の縁に座っている人物が、すぐにわかった。
銀色の重鎧。背中に背負った両手剣の柄が、松明の光を弾いて鈍く光っている。端正な顔のアバター。髪は短く刈り込まれていて、目つきは鋭いが嫌味がない。名前の横にギルドタグ——《Iron Crown》。
レイガが立ち上がった。
「来てくれたな。座ってくれ」
噴水の縁を勧められる。隣に座った。水の音が近い。飛沫がときおり腕にかかって、ゲームなのに涼しさを感じる気がした。〈星の瞳〉が自動で起動して、レイガの頭上に情報が浮かぶ。
《信頼度:中|敵対意思:なし|隠し情報:あり》
敵意はない。だが「隠し情報あり」の表示が気になった。
「単刀直入に言う」レイガは前を向いたまま話し始めた。「あの未踏ダンジョンの発見、見事だった。お前の探索能力は本物だ。ウチのギルドに来ないか」
予想通りのスカウト。だがレイガの声には、ただの勧誘とは違う真剣さがあった。
「条件を聞かせてもらえますか」
「斥候要員として動いてもらう。未踏エリアの探索、隠しクエストの発掘、レアアイテムの発見——お前の〈星の瞳〉がどういう仕組みかは知らないが、できることは把握している。報酬はギルド収益からの分配。レベリングのサポートもつける。装備も最高級のものを用意する」
レイガがメニューを操作して、契約書のようなウィンドウを表示した。報酬額が並んでいる。レベル1の初心者には目が眩むような数字だ。
「悪い話じゃないだろう。お前は戦闘力が低い。一人で潜れるダンジョンには限界がある。ウチの精鋭が護衛につけば、探索の幅は段違いに広がる」
正論だった。反論の余地がないほど合理的で、効率的な提案。
〈星の瞳〉がレイガの言葉を解析する。嘘はない。条件は本物だし、報酬もちゃんと払うつもりだろう。《Iron Crown》は大手ギルドとしての信用を重視している。契約を破るようなことはしない。
「一つ聞いていいですか」
「何でも」
「斥候って、具体的にはどう動くんですか。自分で探索先を決められるのか、それとも指示を受けて動くのか」
レイガが一瞬だけ間を置いた。ほんの一拍。だがその一拍に、答えが詰まっていた。
「基本はギルドの戦略に基づいて動いてもらう。探索優先度は俺が決める。大規模レイドの前に偵察が必要な場所、効率的にレアドロップが狙えるエリア。報告はリアルタイムで共有——もちろん、お前の発見は全部ギルドの資産になる」
俺の発見は全部ギルドの資産になる。
その言葉が、胸の真ん中に沈んだ。重く、冷たく。
教室のことを思い出した。グループワークで、俺が調べてきた資料を班長がそのまま発表に使った。俺の名前は出なかった。それが嫌だったんじゃない。自分が何かの部品になって、誰かの成果の一部に溶けていく感覚が——嫌だった。発表が終わったあと、班長が「ナイス調べ」と軽く笑った。その軽さが、いちばん堪えた。
ここでも同じだ。
レイガは悪い人間じゃない。合理的で、公正で、約束は守るだろう。でもこの提案の本質は「お前の目を使わせろ」だ。俺という人間じゃなく、俺の持っている機能に用がある。
「——すみません」
声が出た。思ったより静かだった。
「お断りします」
レイガの表情が動いた。驚きではない。どちらかと言えば、興味の色だった。
「理由を聞いてもいいか」
「誰かの駒として動く関係は、もう十分です」
言ってから、少し驚いた。こんなにはっきり言えると思っていなかった。現実では絶対に出てこない言葉だ。でもここでは——この世界では、運31のレベル1の、スライムにも勝てないキャラクターの口から、ちゃんと出た。指先が微かに震えていた。キーボードを叩く現実の指も、たぶん同じように。胸の奥で、錆びた鍵が回るような小さな音がした。何かが開いた。まだ何が開いたのかはわからないけれど、確かに。
レイガが、ふっと笑った。嘲笑じゃない。もっと穏やかな、認めるような笑み。
「そうか。いい目をしているな、お前」
立ち上がる。銀の鎧が月光を反射する。
「気が変わったらいつでも連絡しろ。枠は空けておく」
レイガは手を上げて去っていった。重い足音が石畳に響いて、やがて雑踏に消える。
一人になった。噴水の水音だけが残る。
断ったことに後悔はない。でも、現実的な問題は何も解決していない。レベル1。戦闘力ゼロ。一人では未踏ダンジョンに潜ることすらできない。〈星の瞳〉でどれだけ世界が見えても、見えたものに手が届かなければ意味がない。
噴水の水面を見下ろす。水に映った自分のアバターの顔は、現実の俺より少しだけ目が大きい。キャラメイクでほぼデフォルトのまま確定したから、違いはその程度だ。
——行くか。
立ち上がって、街の北東に向かった。城壁沿いの草地。昨日見つけた未踏ダンジョン『忘却の星廟』の入口。石板はまだ開いたままだった。階段の奥から冷たい風が吹き上がってくる。地面に近い草が、その風に逆らうように揺れていた。土と石の混じった匂いが、夜気に溶けて鼻を掠める。
一人で潜るつもりはない。ただ、確認したかった。〈星の瞳〉で入口から内部を覗く。
地下一層の構造が薄く浮かび上がる。通路は三方向に分岐。敵のシンボルがいくつか見える。最弱の個体でもレベル15。今の俺には即死圏内だ。
でもその奥——三層目あたりに、妙な反応があった。生体反応でもモンスター反応でもない。プレイヤーの反応に近いが、何かがおかしい。信号が不安定に明滅している。まるで、隠れているような。
「……誰かいる?」
声は地下に吸い込まれて消えた。返事はない。階段の闇が、口を開けたまま沈黙している。
だが〈星の瞳〉の表示は消えない。三層の奥で、その反応は微かに、しかし確かに動いていた。
風が止んだ。星空の下、蒼真は地下への階段を見つめている。一人では降りられない深さ。でもそこに、誰かがいる。
スキルウィンドウの隅に、新しい表示が点灯していた。
《星の瞳・深度解析——対象までの推定距離:127m|状態:衰弱|残りHP:12%》
誰かが、死にかけている。