第2話
第2話「瞼の裏の星の情報」
翌日の学校は、いつもと同じだった。
屋上。鮭のおにぎり。未読のグループLINE。違うのは、俺の頭の中だけだ。昨夜見た星空がまだ瞼の裏に焼きついている。あの星の一つ一つが情報を纏って瞬いていた光景が。授業中もふとした拍子に視界の端が光る気がして、何度も瞬きを繰り返した。現実の蛍光灯がやけに白く、無機質に感じる。あの星空を知ってしまった目には、教室の光は情報量が少なすぎた。
六限目の世界史。教科書を開くふりをしながら、スマホで《Aether Chronicle》の攻略Wikiを漁った。
「アストラル・シーカー」——該当なし。
「星の瞳」——該当なし。
「隠しクラス 覚醒条件」——いくつか記事はあるが、全部「未確認情報」「ガセ濃厚」のタグがついている。三日目で攻略Wikiが充実しきっているこのゲームで、一切の情報がない。つまり、俺以外にまだ誰もこのクラスに辿り着いていない。検索ワードを変えて何度も試した。「運極振り」「隠しNPC 老騎士」「チュートリアル 星空イベント」——どれも空振り。画面に映る「検索結果: 0件」の文字を見るたび、胸の奥が締まるような、それでいて熱いものが込み上げてくる。俺だけが知っている。この500万人の世界で、俺だけが。
チャイムが鳴る。帰りのHR。担任が連絡事項を読み上げる声が遠い。
早く、夜になれ。
——午後十一時。ヘッドセット起動。
ログイン完了。
昨日ログアウトした場所——チュートリアルの森の出口に立っていた。目の前に広がるのは、初心者の街《リグノア》。石畳の大通りに露店が並び、プレイヤーたちが行き交っている。深夜帯でもそこそこの人口だ。
街に入った瞬間、〈星の瞳〉が勝手に起動した。
視界が変わる。
通りの石畳に、淡い光の線が走っているのが見える。人の流れに沿った太い線と、路地裏に逸れる細い線。光の濃さはたぶん、通行量に対応している。太い線を辿れば人気スポット、細い線の先には——誰も気づいていない場所がある。
面白い。
細い光を追って路地に入る。三つ目の角を曲がったところで、壁の一部が薄く発光していた。普通に歩いていたら絶対に見逃す。触れると、石壁がずるりとスライドして小さな空間が現れた。
《隠しショップ『星屑の棚』を発見しました》
薄暗い部屋の奥に、フードを深く被った商人NPCが座っている。埃っぽい空気の中に、甘い香——星の匂い、と脳が勝手に名付けた——が微かに漂っていた。棚には瓶や巻物が無造作に並び、それぞれが内側から仄かに光を放っている。品揃えを見て目を疑った。
——〈古代語の辞典〉。〈地脈感応のお守り〉。〈星図の欠片〉。
どれもWikiに載っていないアイテムばかりだ。値段は安い。存在を知らなければ買えないだけで、知ってしまえば初心者でも手が届く設定。
「あの、この〈星図の欠片〉って——」
「あんたに見えているなら、必要なものさ」
商人NPCの声は低く、どこか昨夜の老騎士と似た響きがあった。フードの奥の目がこちらを見ている気がした。NPCの目に、見られている。ゲームの中で、データの塊に過ぎないはずの存在に見透かされている感覚。それが不快ではなく、むしろ安堵に近かったのが自分でも不思議だった。
全部買った。所持金がほぼ吹っ飛んだが、構わない。
隠しショップを出て、再び大通りへ。今度はNPCたちを〈星の瞳〉で見る。武器屋の親父、宿屋の女将、噴水広場の吟遊詩人——それぞれの頭上に、通常では表示されない情報が浮かんでいた。
武器屋の親父。頭上の表示:《信頼度:低|隠し台詞:未開放|条件:「鍛冶師の紹介状」を所持》。
宿屋の女将。《信頼度:中|隠しクエスト:あり|条件:深夜2時以降に話しかける》。
吟遊詩人。《信頼度:不明|隠し台詞:あり|条件:なし》。
条件なし?
吟遊詩人に話しかけた。通常の台詞が再生される。「旅の方ですか。この街の歴史を聞いていきませんか?」——定型文。でも〈星の瞳〉が別のレイヤーを映し出していた。吟遊詩人の足元に、ごく小さな文字列。
《彼は嘘をついている》
背筋に冷たいものが走った。何の嘘だ? 街の歴史が嘘? そもそもNPCが「嘘をつく」という概念が、ゲームとして——
吟遊詩人はにこやかに笑っている。穏やかな顔。優しい声音。だがその足元の文字列は消えない。俺が見ている限り、静かに、確実にそこに在り続けている。他のプレイヤーが吟遊詩人の前を素通りしていく。誰もこの文字を見ていない。誰もこの違和感に気づいていない。
考えるのは後だ。今は記録だけしておく。
大通りを離れ、街の外周を歩く。城壁沿いの草地。ここも誰も来ない場所だ。雑草の合間に光る点が散在しているのが見える。拾うと、〈古代銀貨〉や〈風化した手紙〉といった細かなアイテム。単体では価値がなさそうだが、〈星の瞳〉で調べると一つ一つに古代語のテキストが付随していた。
パズルのピースみたいだ。集めれば何かが見えてくる予感がする。
城壁の北東角に辿り着いた時、〈星の瞳〉が激しく反応した。
地面の下——深い場所に、巨大な空洞の輪郭が浮かび上がっている。自然の洞窟じゃない。明らかに人工的な構造。通路があり、部屋があり、階層がある。
ダンジョンだ。
マップを開く。この座標にダンジョンの表示はない。Wikiにも、掲示板にも、どこにも——ない。
心臓がうるさい。またあの境界のわからなさだ。現実の鼓動か、ゲームの鼓動か。
地面を探ると、雑草に隠れた石板があった。星の模様が刻まれている。さっき買った〈星図の欠片〉を嵌め込むと——石板が沈み込み、地面が円形にせり上がって階段が現れた。
《未踏ダンジョン『忘却の星廟』を発見しました》 《サーバー初発見ボーナス:経験値 ×3、ドロップ率 ×2(24時間)》
サーバー初発見。
つまり、500万人以上のプレイヤーの中で、このダンジョンを見つけたのは俺が最初。
手が震えた。嬉しいのか怖いのか、自分でもよくわからない。ただ、スクリーンショットを撮っていた。無意識に。証拠を残しておきたかったのかもしれない。誰に見せるつもりもないのに。
階段の下を覗き込む。暗い。深い。階段の石段には星の模様が等間隔に刻まれていて、俺が見つめると応えるように一つずつ点灯していった。まるで、降りてこいと誘っている。冷たい風が下から吹き上がってくる。土と、もっと古い何かの匂い。一人で潜るにはリスクが高すぎる。レベル1のステータスで未踏ダンジョンに挑むのは自殺行為だ。
でも、入口を見つけたという事実だけで十分だった。
街に戻り、宿屋にログを残す。本当は誰にも言うつもりはなかった。でもスクリーンショットはシステム上のログに残る。そしてこのゲームには——スクリーンショット共有機能がある。
翌朝、学校に着く前にスマホで掲示板を開いて、目を疑った。
スクリーンショットがシステムログから自動で共有されていた。プライバシー設定をデフォルトのままにしていた俺の落ち度だ。
スレッドが立っていた。
『【速報】運極振りの無名プレイヤー、サーバー初の未踏ダンジョン発見』
書き込みが、三時間で800を超えている。
——「は? 運31って何だよステ振りバグだろ」 ——「場所特定班おるか? 城壁北東らしいけど入口が見つからん」 ——「星図の欠片がないと開かないっぽい。そもそもそれどこで手に入れた」 ——「こいつレベル1だぞ。レベル1でサーバーファースト取るとかバグ利用じゃねえの」 ——「運営に通報した」 ——「通報するなアホ 仕様通りだって運営が声明出してる」
教室に入る。おにぎりを持って屋上に向かう途中、いつもの階段を上がる。鉄扉を押す。
風が吹いた。いつもと同じ。校庭ではサッカーが始まっている。いつもと同じ。
だけど昨日までは、ここで見上げる空はただの空だった。今は——夜になれば星が見える空だと知っている。あの星の一つ一つに、まだ誰も知らない情報が詰まっていると。
スマホが震えた。掲示板の通知。書き込みが1200件を超えている。
その中に、一件だけ毛色の違うメッセージがあった。ダイレクトメッセージ。差出人は——《Iron Crown》。サーバー最大手ギルドの名前。
《あなたの探索能力に興味があります。一度お話しできませんか》
おにぎりを頬張る。鮭。冷たい。
だけど今日は、味がした。