第1話
第1話「屋上の鉄扉」
屋上の鉄扉は、いつも俺にだけ開いている。
正確には、誰も来ないから開けっぱなしなだけだ。四月の風が制服の裾を揺らす。眼下の校庭では昼休みのサッカーが始まっていて、歓声が小さく聞こえる。あの輪に入る方法を、高校二年になった今でも俺は知らない。
コンビニで買ったおにぎりを頬張る。鮭。冷たい。味がするのは最初の一口だけで、あとはただ咀嚼する作業になる。
スマホを開くと、クラスのグループLINEが未読127件。スクロールすると全部同じ話題だった。
《Aether Chronicle》——今週リリースされた新作VRMMO。フルダイブ型。同時接続数は初日で500万を突破したらしい。
「蒼真くんはやらないの?」
朝、隣の席の女子に聞かれた。たぶん全員に同じことを聞いていたんだろう。社交辞令。俺は「ゲームあんまりやらないんで」と答えた。嘘だ。VRヘッドセットなら去年の誕生日に買った。親が「外に出ないなら中で遊びなさい」と置いていったやつ。一度も使っていない。
使わなかった理由は単純だ。一人で始めても、一人で終わるだけだから。
——そのはずだった。
午前一時。部屋の明かりを消して、ヘッドセットを被る。ダウンロードは昨日の夜に済ませていた。あの「やらないんで」は嘘どころか、もう準備万端だった。自分でも笑える。
誰にも見られない時間を選んだ。クラスの誰かとサーバーで鉢合わせたくない。深夜帯なら人も少ない。
起動。
暗転。
──ログイン完了。
視界が爆発的に広がった。星空の下に浮かぶ石造りの円形広場。足元の石畳は濡れたように光を反射していて、空気に混じるのは焚き火の匂い——いや、これは嗅覚シミュレーションか。思った以上にリアルだ。
深夜だからか、広場にいるプレイヤーはまばらだった。それぞれがキャラクターメイクを終えた姿で走り回っている。
目の前に半透明のウィンドウが浮かぶ。
《キャラクター作成:ステータスポイントを配分してください》
筋力、敏捷、知力、体力、魔力、運。六つのパラメータに、持ち点は30。
他のプレイヤーはどう振っているんだろう。攻略サイトを——いや、やめた。リリース三日目でもうテンプレビルドが出回っているのは知っている。でも俺は、誰かの真似をしてまで「正解」を選ぶ気にはなれなかった。
全部「運」に振った。
30ポイント、全振り。筋力1。敏捷1。知力1。体力1。魔力1。運31。
確認ウィンドウが出る。《警告:極端なステータス配分です。本当によろしいですか?》
「……いいよ」
声に出して答えた。現実で運がなかった分、ここでは運だけで生きてみたい。理由なんてそれだけだ。我ながら馬鹿な理由だと思う。
確定。光に包まれて、気がつくとチュートリアルの森に立っていた。
木漏れ日が差す穏やかなフィールド。足元には苔が生えていて、どこかで鳥が鳴いている。初心者には優しい雰囲気——のはずだった。
最初の敵、チュートリアルスライム。半透明の緑色のやつが、ぷるぷると道を塞いでいる。HP表示を見ると、たったの15。
木の棒を構える。初期装備。振り下ろす。
《ダメージ:1》
スライムのHPバーがほぼ動かない。そして反撃。体当たりを食らって、俺のHPが3割吹っ飛んだ。
「……嘘だろ」
もう一度振る。1ダメージ。反撃。HPが半分を切った。
三度目の攻撃を振ろうとした瞬間、横から光の矢が飛んできてスライムを一撃で消し飛ばした。
「あ、ごめんね! 横殴りしちゃった?」
振り向くと、エルフ耳の魔法使いが手を振っている。その後ろに、剣士と僧侶。三人パーティ。
「気にしないで」
それだけ答えた。エルフの子は「じゃあね、頑張って!」と仲間の方に駆けていく。三人は笑いながら森の奥へ消えていった。
静かになる。
次のスライムが湧いた。向き合う。木の棒を構える。1ダメージ。反撃。1ダメージ。反撃。
三体目のスライムで、俺は死んだ。
リスポーン。森の入口に戻される。周囲では新しいプレイヤーたちが次々とパーティを組んで出発していく。「タンク募集!」「ヒーラーいない?」「PT空きあるよー!」
声をかけられることはない。レベル1、装備なし、筋力1の初心者に用はないだろう。当然だ。現実と同じだ。
メニューを開く。ログアウトボタンが光っている。指先をそこに近づけて——止めた。
屋上のことを思い出した。あの鉄扉。誰もいない場所で、冷たいおにぎりを食べる昼休み。あれが日常で、あれが俺の全部で。ゲームを閉じたら、また明日が来る。何も変わらない明日が。
「……もうちょっとだけ」
パーティを組まないなら、戦わなければいい。森の端を歩く。メインルートから外れた獣道。敵のポップが少ないエリア。木の根を跨いで、崖沿いの細い道を進む。
夜のフィールドは暗い。松明を持っていないから、月明かりだけが頼り。でも不思議と怖くはなかった。
誰にも会わない道を選んで歩く。それだけは得意だから。
どれくらい歩いただろう。森を抜けると、マップの端にひっそりと佇む廃墟が見えた。苔むした石壁。崩れかけた門。他のプレイヤーの足跡はない。
普通なら見向きもしない場所だろう。経験値もアイテムも期待できない。でも——
足元で何かが光った。
石畳の隙間から、淡い青の光が脈打つように漏れている。近づくと、光は導くように廃墟の奥へ続いていた。
システムメッセージが表示される。
《隠しエリアを発見しました》
心臓が跳ねた。
ゲーム内の心臓が跳ねるのか、現実の心臓が跳ねているのか、フルダイブだとその境界がわからなくなる。
光を辿って、崩れた階段を降りる。地下へ。空気が変わる。湿った石の匂いと、どこか甘い香り。壁にはびっしりと文字が刻まれているが、読めない。古代語だろうか。
最奥の小部屋に辿り着いた時、俺は息を呑んだ。
誰かが——いる。
錆びた鎧を纏った老人が、石の椅子に座っていた。NPC。だが、チュートリアルの森には存在しないはずのNPC。瞳だけが異様に澄んでいて、暗闇の中で星のように光っている。
老人が口を開いた。
「——待っていた」
声が、地下に低く響く。
「お前には"星読み"の素養がある」
意味がわからない。ステータスを見る。レベル1。スキルなし。戦闘力は最底辺。こんなキャラに素養もなにもないだろう。
「何かの間違いじゃ——」
「間違いではない」
老騎士の声が、静かに遮った。
「ここに辿り着くまでに、お前は何体の敵を倒した?」
答えは明白だった。ゼロ。スライムにすら勝てなかった。倒したのは一体もいない。
「そう。一度も敵を倒さず、ここに来た。それが条件だ」
老騎士が立ち上がる。錆びた鎧が軋む音が地下に反響する。
「弱さだけが、唯一の鍵だった」
目の前に、見たことのないシステムウィンドウが展開された。
《隠しクラス覚醒条件を満たしました》 《クラス:アストラル・シーカー》 《覚醒しますか? YES / NO》
指が震えていた。これが現実の手の震えなのか、ゲーム内のアバターの震えなのか、やっぱりわからない。
YES。
光が全身を包む。視界がホワイトアウトして——戻った時、世界が変わっていた。
正確には、世界は同じだ。変わったのは俺の目。
地下室の壁に刻まれた古代文字が、読める。いや、文字としてではなく、意味として流れ込んでくる。石壁の奥に隠し通路があることが、見ただけでわかる。天井の染みのパターンが、かつてここに何があったかを語りかけてくる。
スキル欄を確認する。
〈星の瞳〉——周囲の隠された情報を可視化する。
戦闘スキルはゼロ。攻撃力は変わらない。相変わらずスライムにすら勝てないだろう。
でも、今の俺には——世界が、見える。
老騎士の姿はもう消えていた。代わりに、壁に浮かび上がる一行の文字。
《この世界を、覚えていてくれ》
意味はわからない。ゲームのフレーバーテキストにしては、妙に切実な響きがあった。
地下室を出る。森を抜ける。空を見上げると、星が——降るほどの星が見えた。さっきまでと同じ空のはずなのに、星の一つ一つが情報を纏っている。あの星座の方角に未踏のダンジョンがある。あの星の色は地脈の流れを示している。
「……なんだよ、これ」
笑っていた。一人で、深夜のVR空間で、声を出して笑っていた。
弱いままだ。誰とも組めないままだ。でも今、世界が俺に話しかけている。聞いたことのない言葉で、見たことのない景色で。
午前三時。そろそろ現実に戻らないといけない。明日も——いや、今日も学校がある。屋上で一人、おにぎりを食べる昼休みが来る。
でも、明日の夜が待ち遠しいと思ったのは、いつぶりだろう。
ログアウトボタンに手を伸ばす。その直前、視界の端に小さな通知が流れた。
《星の瞳がフィールド情報を記録しました——未解析データ:1,247件》
この世界には、まだ誰も見つけていないものが山ほど眠っている。
俺はまだ、何も見ていない。