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最弱吟遊詩人の戦律

第3話 第3話「リュートの重心の崖」

第3話

第3話「リュートの重心の崖」

岩肌に指をかけた瞬間、爪の先に冷たい湿気が走った。

崖を降りる。足場は思ったより安定していたが、幅は靴底の半分もない。背中のリュートが重心をずらすたびに心臓が跳ねる。落下ダメージの計算が脳裏をよぎった。この高さなら即死はしない。たぶん。HP32のうち半分は持っていかれるだろうが、残り半分で洞窟に入れればいい。

三メートル、五メートル、七メートル。手のひらの皮膚が岩に擦れて熱い。五感再現率98%を恨むのも何度目か。だが耳だけは研ぎ澄ませている。旋律は近い。洞窟の入口から、手招きするように響いてくる。

最後の一メートルで足を滑らせた。

背中から岩棚に落ちる。衝撃がHPを14削った。残り18。リュートは無事だ。仰向けに空を見上げると、さっきまで立っていた崖の縁が遠い。帰りは——考えるのをやめた。まず、中に入る。

洞窟の入口は蔦をかき分けてようやく体一つ通れる幅だった。暗い。マップに表示されない空間は、ゲームのライティング処理も最低限らしい。視界の有効範囲は三メートル程度。壁の苔がぼんやり光っているのが唯一の光源だ。

だが、音がある。

〈聴覚強化〉が捉える情報量が、外とは段違いだった。洞窟という閉鎖空間で音が反響し、壁の形状や通路の分岐が「聞こえる」。目を閉じたほうがむしろ見通しがいい。奇妙な感覚だ。視覚を捨て、聴覚だけで空間を把握する。吟遊詩人の、これが戦い方なのかもしれない。

足音を殺して進む。反響音から通路を描くと、洞窟はゆるやかに下りながら北東に延びている。幅は二メートル前後、天井は手を伸ばせば届くくらい。そして——

右の分岐路から、呼吸音。

重い。深い。大型のモンスターが、すぐそこにいる。音の間隔からして睡眠中だ。六秒周期の規則的な呼吸。寝息が洞窟の壁を伝って、足元まで振動している。

マップ表示なし。敵の名前もレベルもわからない。わかるのは、こいつが俺のHP18を一撃で消し飛ばすだけの存在だということだけだ。呼吸の深さ、空気の振動の大きさ。体格は少なくとも二メートル以上。レベル5推奨エリアのモンスターが眠っている横を、レベル2の吟遊詩人が通り抜ける。正気じゃない。

左の通路に逸れる。足を持ち上げ、つま先から下ろす。一歩に三秒かけた。呼吸音のリズムを数え、吸気のタイミング——外部の音に最も鈍感になる瞬間——に合わせて進む。音楽をやっていた人間なら理解できるはずだ。ブレスのタイミングは意識の空白だ。

五歩。十歩。呼吸音が背後に遠ざかる。通過した。

その先も同じだった。分岐のたびに耳を澄ませ、モンスターのいない通路を選ぶ。一度だけ、袋小路に入り込んで引き返す羽目になった。背後から石を転がすような足音が近づいてきて、壁の窪みに体を押し込んで息を殺した。一分。二分。巡回ルートが通り過ぎるまで、永遠のような時間だった。

メモ帳に通路の構造を書き込んでいく。音の反響から推測した分岐の位置、モンスターの巡回パターン、安全な通過タイミング。俺にしか作れないマップだ。「音の地図」。記事のタイトルにはなる。

どれくらい歩いただろう。二十分か、三十分か。時間感覚が曖昧になる。暗闇と緊張の中で、頼れるのは耳だけだ。不思議と、恐怖より集中が勝っていた。ライターとして未知の情報に近づいている興奮が、最弱職の無力感を上書きしている。

そして、音が変わった。

通路が急に開けた。反響音のパターンから、広い空間に出たとわかる。天井が高い。残響が四秒以上続く。大聖堂のような空間が、地下にある。

目を開ける。

息を呑んだ。

洞窟の最深部は、巨大なドーム状の空洞だった。壁一面を覆う苔の生物発光が、青白い光で空間を満たしている。天井から鍾乳石が無数に垂れ下がり、その先端から水滴がゆっくりと落ちる。一滴ごとに、澄んだ音が空間に広がった。自然の音響装置だ。このドーム全体が、ひとつの楽器のように共鳴している。

そして中央に、それはあった。

石の台座。腰の高さほどの、磨かれた黒い石。その上に、朽ちかけた譜面台が立っている。金属製。表面は緑青に覆われ、ところどころ錆が浮いている。だが譜面を載せる部分は不自然なほど綺麗で、何かの文字——いや、音符のようなものが刻まれていた。

ゲーム内オブジェクトにカーソルを合わせる。

〈沈黙の譜面台〉——状態:休眠中

それだけだ。説明文なし。用途不明。インタラクト可能の表示だけが、ぼんやりと光っている。

旋律はここから出ていた。俺を崖の上から、森の中から、チュートリアル広場から導いてきた音の正体が、この譜面台だった。今は沈黙している。俺が近づいたことで、呼び声の役目を終えたように。

周囲を確認する。モンスターの気配はない。この空間だけが、洞窟全体から隔離されたように静かだ。水滴の音と、自分の心臓の音だけが響いている。

「休眠中、か」

触れるべきか。罠の可能性もある。だがここまで来て引き返すライターがいるか? いない。少なくとも俺は。

リュートを背中から下ろし、地面に置いた。身軽になった体で、譜面台に手を伸ばす。指先が冷たい金属に触れた——

世界が裏返った。

視界が白く弾ける。いや、白じゃない。五線譜だ。空間全体が楽譜に変わった。天井から床まで、壁という壁が、無数の音符で埋め尽くされている。四分音符、八分音符、十六分音符。休符。シャープ、フラット、ナチュラル。見たことのない記号も混じっている。ゲームのフォントではない。手書きのような、生々しい筆跡の音符が、洞窟の壁面を這い回っている。

耳が壊れるかと思った。

全方位から音が押し寄せてくる。オーケストラが同時に別の曲を演奏しているような、圧倒的な情報の洪水。弦楽器のトレモロ、金管のファンファーレ、打楽器の地鳴り、木管の旋律。それが混ざり合わず、個別のレイヤーとして耳に流れ込んでくる。一つ一つは美しいのに、全体では不協和音だ。

ステータスウィンドウが勝手に開いた。いや、開いたのではない。楽譜の奔流に押し出されるようにして、スキル欄が視界の中央に浮かび上がった。

〈聴覚強化〉の文字が光っている。パッシブスキルの表示枠が脈動するように膨張し、文字が書き換わっていく——

通知音。だが今までの安っぽい電子音ではない。パイプオルガンの低音が腹の底を揺らすような、荘厳な響き。

——スキル覚醒条件を満たしました。

——〈聴覚強化〉が進化します。

視界の楽譜が渦を巻き始めた。音符が剥がれ、集まり、再配列される。散らばっていた旋律が一本の線に収束していく。不協和音が和声に変わる瞬間の、鳥肌が立つような美しさ。

俺は譜面台から手を離せないまま、その光景を見ていた。

楽譜が一枚の譜面に凝縮される。五線譜の上に、見たことのない記譜法で書かれた旋律。だがなぜか、読める。意味がわかる。この音はこう動く。この和声はこう解決する。この休符の後に、何が来るべきか——

新しいスキル名が、視界の中央に浮かんだ。まだ読めない。文字が光に溶けて、輪郭だけが明滅している。覚醒演出が完了していないのだ。プログレスバーが視界の端でゆっくりと伸びていく。30%、45%、60%——

洞窟全体が振動した。天井の鍾乳石から水滴が一斉に落ち、苔の発光が激しく明滅する。譜面台の表面に刻まれた音符が浮き上がり、俺の手を伝って腕を昇っていく。冷たい。だが痛くはない。音符が皮膚に染み込むような、奇妙な感覚。

85%、90%、95%——

最後の音符が腕から胸に到達した瞬間、全ての音が止んだ。

完全な、沈黙。

水滴の音すら消えた無音の空間で、俺は自分の心臓の音だけを聞いていた。視界の楽譜が一枚ずつ剥がれ落ち、洞窟の壁が元に戻っていく。だがスキル欄は開いたままだ。〈聴覚強化〉があった場所に、新しいスキル名が——

文字が結像する直前、システムメッセージが割り込んだ。

——覚醒スキルの完全解放には「実戦での発動」が必要です。

スキル名は、まだぼやけたままだ。だがスキルの説明文の一行目だけが、かろうじて読めた。

『パーティメンバーの行動を楽譜として視覚化し——』

パーティメンバー。

ソロでは起動すらしないスキル。最弱職がたった一人で辿り着いた最深部で手に入れたのは、一人では使えない力だった。

譜面台の光が消える。洞窟が元の薄暗さに戻り、水滴の音が静かに再開した。手のひらを見る。さっきまで音符が這い上がっていた腕には、うっすらと五線譜のような模様が残っている。

メモ帳を開こうとして、手が震えていることに気づいた。

——これは、記事にできない。少なくとも今は。

攻略サイトに載せれば注目は集まるだろう。だが、このスキルの全容がわからないうちに情報を出すのはライターとして愚策だ。まず、使ってみなければ。

パーティを、組まなければ。

吟遊詩人を入れてくれる物好きが、どこかにいるだろうか。通知欄にタクヤのメッセージが残っている。『吟遊詩人はちょっと……ごめんな』。あの言葉が、棘のように刺さったまま抜けていない。

洞窟の出口に向かって歩き出す。帰りは音の地図がある。来たときほどの緊張はない。

だが足を止めたのは、別の理由だった。

出口に近づいたとき、〈聴覚強化〉が——いや、まだ名前のないこの耳が、拾ったのだ。洞窟の外、崖の上から聞こえる音。プレイヤーの足音。一人じゃない。複数。そしてその中に、金属が重く軋む音。大剣か、鎧か。レベルの低い装備では出せない、密度のある音。

誰かが——この崖の場所を、見つけた?

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