第3話
第3話
灰褐色の巨頭が持ち上がる動きは、恐ろしいほど静かだった。
水面から離れた顎の下から藍色の液体が糸を引いて滴り落ち、縦穴の底にぽたり、ぽたりと波紋を広げる。その一滴ごとに、鉄錆と腐葉土を煮詰めたような臭気が立ち昇り、ヒノキの鼻腔を焼いた。胃の底が締め上げられる。吐き気を飲み込む動作すら、今は許されない。ヒノキは壁面に張りついたまま、呼吸を殺した。殺したつもりだった。だが横隔膜が震え、喉の奥から掠れた空気が漏れる。それすら致命的な音に聞こえた。
グラトニアの頭部が、ゆっくりと回転した。
眼があった。
片方だけだ。左の眼窩は古い傷で潰れ、甲殻が不規則に再生して塞いでいる。残った右眼は琥珀色で、虹彩の中に金色の粒子が浮遊していた。体表から立ち昇る胞子と同じ色だ。その瞳孔が、壁面の中腹にしがみつく小さな人間を捉えた。
死ぬ、とヒノキは思った。
感情ではなく、事実の確認としてそう思った。Eランクの素材屋が災害級の視線の先にいる。逃げる速度も、耐える術もない。壁を登りきるまでに何秒かかるか——七メートル、手がかりの間隔から逆算して最低でも三十秒。グラトニアが一息吐けば、それで終わる。
奥歯を噛み締める力すら残っていなかった。指が壁面の溝から滑り始めている。汗のせいだ。握力が利かない。右手の指が一本、また一本と岩肌から離れ——。
落ちる、と思った瞬間、左手が無意識に何かを握り締めた。
腰帯に挟んでいた採取袋。今朝、湿地帯の入口で見慣れない菌類を見つけて確保しておいたものだ。亀裂に入る前に籠は置いてきたが、この小さな袋だけは腰帯に残っていた。袋の口が開き、中身がこぼれた。
掌の上に転がったのは、三本の小さなキノコだった。
傘は半透明で、内側から淡い金色の光を放っている。柄は白く、根元に糸状の菌糸が複雑に絡み合った塊がついている。今朝、亀裂の周辺で見つけた未分類の菌類。図鑑にない。記録にもない。胞子の色だけがグラトニアの体表から立ち昇るものと一致していたから、関連を調べようと持ち帰るつもりだった。
グラトニアの鼻面が、動いた。
首が伸びる。六メートルの巨体が水中で身じろぎし、藍色の波紋が壁面を洗う。ヒノキの足元まで冷たい飛沫が跳ねた。水を通して伝わる振動が脛を伝い、膝の裏を痺れさせる。だが攻撃の動きではなかった。牙を剥いていない。喉の奥から低い振動が伝わってくるが、咆哮ではない。もっと細く、低く、抑えた音だ。その振動は岩壁を通じてヒノキの胸郭にまで達し、肋骨の内側をそっと撫でるように共鳴した。猫が喉を鳴らすのに似ている——と思って、自分の正気を疑った。災害級モンスターを猫に喩える人間が、かつていただろうか。
グラトニアの鼻先が、ヒノキの左手に近づいた。壁面にしがみつく人間と、水底から首を伸ばす巨獣。距離が一メートルを切った。熱い呼気が掌を包む。湿った風圧に混じって、甘い腐臭と苔の匂いが鼻を突く。生き物の内側の温度が、呼気を通してそのまま伝わってきた。金色の胞子が渦を巻いて舞い上がり、ヒノキの視界を琥珀色に染めた。
そして——鼻面が、掌の上のキノコに触れた。
擦りつけるような、緩慢な動き。硬い甲殻の感触が掌に伝わる。ざらついた鼻先が、三本のキノコを一本ずつ確かめるように撫でていく。捕食ではない。嗅いでいるのでもない。これは——。
懐柔だ。
ヒノキの脳裏に、十五年前に読んだ魔物生態学の記述が蘇った。日に焼けた頁の手触りまで思い出せた。古書店の奥の棚で見つけた、背表紙の金文字が半ば消えかけた一冊。素材屋の仕事には不要な知識だったが、気づけば三度通読していた。『高位魔物の中には、特定の共生生物に対して親和行動を示す種が確認されている。これは捕食関係ではなく、相利共生に基づく種間コミュニケーションであり——』
このキノコは、グラトニアの共生菌だ。
体表に生える菌類と同種か、あるいは近縁の菌。だから胞子の色が一致していた。グラトニアはヒノキを脅威と認識しているのではない。自身の共生菌を持つ存在——巣の一部、あるいは世話をする者として反応している。
思考が追いつくより先に、視界が変わった。
空気中に、光の文字が浮かんでいた。
淡い青白の光で構成された長方形の枠。その中に、見覚えのある書体で文字が並んでいる。冒険者ギルドの登録証と同じ、システムが生成する汎用フォント。ヒノキは十五年間、ステータス画面をほとんど開いたことがない。Eランクの素材屋に確認すべきスキルなど一つもなかったからだ。
だが今、呼んでもいないのに、それは現れた。
『従魔契約——対象:グラトニア(災害級指定種)。契約条件を満たしています。承認しますか?』
ヒノキは文字を三度読み返した。意味が頭に入ってこない。従魔契約。テイマーのスキルだ。魔物と契約し、使役する技術。冒険者登録時の適性検査で、ヒノキのテイマー適性は最低値だった。数値にしてゼロ。測定限界以下。担当官に「素材屋か荷運びが向いている」と言われ、実際にそうなった。十五年間、その言葉を疑ったことは一度もなかった。
そのゼロの適性に、契約ウィンドウが浮かんでいる。
グラトニアの琥珀の目が、静かにヒノキを見つめていた。敵意はない。殺意もない。ただ——待っている。何かを待つ目だった。あの衰弱した体で、傷だらけの甲殻で、この暗い穴の底で、何を待っていたのか。潰れた左眼窩の周囲に走る古い傷痕が、暗がりの中でもはっきりと見えた。何年この穴の底にいたのか。何年、この闇の中で息をしていたのか。
ヒノキの指が動いた。
意志ではなかった。恐怖でもなかった。十五年間、剣も魔法も持たず、ただ観察し、触れ、記録し続けてきた手が——ダンジョンの生態系に向き合い続けてきた手が、最も自然な動作として承認の文字に触れた。
光が弾けた。
掌の上のキノコが金色に発光し、菌糸が指の隙間から蔓のように伸び出した。グラトニアの鼻面を伝い、甲殻の表面を走り、傷口を縫うように広がっていく。痛みはない。熱もない。ただ、腹の奥に重い何かが落ちてきた感覚があった。臓腑にもう一つの心拍が加わったような、異物感と親密さの入り混じった圧力。それは不快というより、長く空だった器にようやく水が注がれるような、満たされる重さだった。グラトニアの呼吸が——自分の呼吸と重なった。
藍色の液体が光を帯び、縦穴全体が一瞬だけ昼のように明るくなった。壁面の岩肌に刻まれた何十年分もの水流の跡が、隅々まで露わになって消えた。
そして、静寂が戻った。
ヒノキは壁面に張りついたまま、荒い息を繰り返していた。掌のキノコは消えていた。菌糸も光も残っていない。ただ、左手の甲に薄い金色の線が一本走っていた。手首から中指の付け根まで、菌糸の通った跡のように。触れると微かに温かい。自分の体温ではない熱が、その線の下で脈打っていた。
グラトニアは再び頭を水面に沈めていた。呼吸のリズムは安定している。先ほどまでの不規則な浅い呼吸ではない。深く、緩やかな、眠りに落ちる直前の呼吸だ。
ステータス画面が、まだ視界の隅に残っていた。
ヒノキは震える目でそれを読んだ。
『従魔契約 成立。従魔枠:1/7』
一の七。分母の七という数字が、理解を拒んでいた。従魔枠の上限は通常一か二だ。最高位のテイマーでも三を超えることは稀だと聞く。七という数字は文献にすら存在しない。
そしてもう一つ——グラトニアの巨体が沈む藍色の水面の下に、今度はくっきりと見えた。甲殻の剥落した箇所に刻まれた、無数の切創。直線的で、等間隔で、深い。獣の爪でも魔物の牙でもない。
刃紋が見えた。
一定の幅で反復する鍛造の痕跡。鉱石を扱う素材屋として、金属加工の紋様は嫌でも覚える。あれはケルベスで鍛造される標準規格の武器——冒険者ギルドの正規装備と同じ紋様だ。
グラトニアを傷つけ、この穴に封じたのは、冒険者だ。
縦穴の底で眠る災害級の呼吸が、自分の腹の奥で微かに震えるのを感じながら、ヒノキは壁面をゆっくりと登り始めた。