第3話
第3話「南門の外の松明」
城壁が震えた。足裏から脛へ、脛から腹の底へと伝わる振動は、まるで城そのものが恐怖に慄いているかのようだった。
南門の外に広がる松明の群れが、一斉に動いた。闇を切り裂く橙の光が幾百と揺れ、その一つ一つの下に殺意を帯びた人の影がある。黒瀬の軍勢が鬨の声を上げ、城門に向かって殺到してくる。地を揺るがす足音と怒号が混じり合い、夜の空気そのものが敵意に染まった。蒼真が声を発するより早く、石垣の下で木が裂ける音がした。破城槌だった。鈍く重い衝撃が城壁を伝い、蒼真の足元の石がわずかにずれた。味方であるはずの軍がなぜ破城槌を用意している——その問いは、もはや意味を持たなかった。南門の扉が二度目の衝撃でひしゃげ、鉄の留め具が悲鳴のような音を立てて歪み、三度目で蝶番が弾け飛んだ。
「全兵、南門へ集結——」
蒼真の声を、炎が掻き消した。城門が破られると同時に、火矢が雨のように降り注いだ。夜空を切り裂く赤い軌跡が幾筋も弧を描き、城内のあちこちに突き刺さる。乾いた春風にあおられ、城内の木造の兵舎に一瞬で火が移る。赤い光が石垣を舐め、蒼真の顔を灼いた。肌が焼けるような熱さに目を細めながら、蒼真は悟った。あまりにも手際が良すぎた。どこに火を放てば城内が最も早く燃え上がるか、黒瀬はすべて知っている。二十年この城に仕えた男なのだから。
伍平が蒼真の腕を掴んだ。老兵の掌は硬く乾いていて、だがその握力には抗いようのない切迫があった。
「若様、南門はもう保ちませぬ。二の丸へ退がりなされ」
「兵は」
「散っております。半数は——すでに武器も取れぬまま」
八百の留守兵のうち、まともに戦える者は三百と伍平は言っていた。その三百すら、夜半の急襲では隊伍を組む暇もない。蒼真は城壁の上から見下ろした。黒瀬の兵が南門を突破し、城内へ雪崩れ込んでいる。統制の取れた動きだった。火の手が上がる場所を避け、あらかじめ決めてあったかのように城内を制圧していく。留守兵の中には、戦う間もなく武器を捨てて逃げる者がいた。責められはしない。味方だった者が突如として敵に変わる——その混乱に、老兵や傷兵が対応できるはずもなかった。
蒼真は歯を食いしばり、城壁の階段を駆け下りた。母と妹を逃がさねばならない。
本丸の奥、母の居室へ走る間にも、城内の景色が刻一刻と変わっていった。兵舎が燃え、武器蔵の屋根が崩れ落ち、炎の柱が夜空を焦がす。煙が低く垂れ込め、視界が利かない。喉の奥が焼け、息を吸うたびに肺が拒んだ。蒼真は袖で口を覆いながら、石畳の道を記憶だけで辿った。幼い頃から駆け回った城だ。目を閉じても歩ける——はずだった。だが火に巻かれた城は、蒼真の知るどの姿とも違っていた。見慣れた渡り廊下は炎に呑まれて骨だけになり、庭の老松は黒い影となって傾いでいる。ここはもう、蒼真の城ではなかった。
母の居室に辿り着いたとき、静乃はすでに身支度を整えていた。髪をきつく結い上げ、動きやすい小袖に着替えている。傍らに妹の小夜がいる。十二になったばかりの小夜は顔を強張らせていたが、泣いてはいなかった。母が泣かせなかったのだろう。静乃は蒼真の姿を見て一瞬だけ目を閉じ、すぐに開いた。その一瞬に、母がどれほどの感情を押し殺したのか、蒼真には見えた。
「北の搦手から出られますか」
「わかりません。まだ北には火が回っていないはずです」
「ならば今のうちに」
蒼真は母と妹の手を取り、北の搦手門へ向かった。本丸の裏手を抜ける細い通路で、日頃は使用人が水を運ぶために使う道だった。石壁に囲まれた通路は煙が薄く、まだ呼吸ができる。小夜の手が震えていた。冷たく、細く、小鳥の骨のように頼りない手だった。蒼真はその手を強く握った。大丈夫だ、と言おうとして、声にならなかった。大丈夫だと言える根拠が、どこにもなかったからだ。
搦手門が見えた。その向こうは山林だ。あそこまで出れば——
轟音がした。
搦手門の上、石垣の一角が崩れ、炎を纏った梁が通路を塞いだ。火は南から北へ、蒼真たちの退路を追うように回り込んでいたのだ。炎の壁が通路の半ばを塞ぎ、熱風が顔を打った。髪の先が縮れ、肌の表面が一瞬で乾く。小夜が悲鳴を上げ、蒼真は咄嗟に妹を庇って壁際に身を寄せた。石壁はすでに熱を帯びていて、背中に触れた瞬間、蒼真は思わず体を離した。
「蒼真」
母の声だった。振り向くと、静乃が蒼真と小夜の間に立ち、二人を搦手門の側へ押しやっていた。崩れた梁の隙間は、身を屈めれば一人ずつ通れる。だがその隙間は狭まり続けている。木が燃え崩れるたびに火の粉が散り、通れる幅が指一本分ずつ失われていく。
「小夜を先に」
蒼真は妹を梁の隙間から押し出した。小夜の着物の裾が焦げたが、向こう側に抜けた。次は母だ。蒼真が手を伸ばした。
だが静乃は、その手を取らなかった。
母は蒼真の手を両手で包み、そして——押し返した。
「母上」
「書庫へ行きなさい」
静乃の声は、恐ろしいほど静かだった。炎が背後に迫り、煙が視界を侵食する中で、母の目だけが澄んでいた。炎に照らされた母の顔は、蒼真がこれまで見たどの表情とも違った。恐怖でも諦めでもない。覚悟を通り越した、祈りに近い何かだった。
「あの巻物を持ち出しなさい。あなたの父が、あなたに託したものを」
「何を——今はそんな場合では」
「今しかないのです」
母の声が初めて強くなった。蒼真の手を握る力が、一瞬だけ痛いほどに強まり、そして離れた。その手の温もりが、離れた後も蒼真の掌に焼きついて残った。
「書庫は本丸の石蔵の中。石造りだから、まだ火は回っていない。あの巻物がなければ、あなたは——」
天井の梁がもう一本、轟音と共に落ちた。火の粉が舞い上がり、蒼真と静乃の間に炎の壁ができた。炎の向こう側で、母の姿が揺らめいた。陽炎のように歪み、蒼真が手を伸ばしても、もう届かない距離になっていた。
「民を忘れるな」
炎越しに、母の声が届いた。七日目の夜に聞いたのと同じ言葉。だが今度はその声に、決別の響きがあった。
「母上——」
伍平の腕が、蒼真の体を引きずった。蒼真は伍平の手を振り払おうとした。だが老兵の腕は鉄のように強く、蒼真の抵抗を許さなかった。
「若様、奥方様の御意志です。無駄になさるな」
伍平の声が耳元で響いた。蒼真は叫んだ。何を叫んだか、自分でもわからなかった。母の名だったかもしれない。ただの咆哮だったかもしれない。炎と煙と轟音がすべてを呑み込み、蒼真の声は城の悲鳴の中に消えた。
伍平に引きずられるようにして、蒼真は本丸の石蔵に辿り着いた。母の言った通りだった。石造りの書庫は周囲が燃えていてもなお、内部に火は入っていない。だが熱だけは石壁を通して忍び込んでいて、空気は窯の中のように重く、熱かった。蒼真は煤けた手で扉を開け、奥の棚に手を伸ばした。封をされた巻物。父が「決して開くな」と言い、母が「持ち出せ」と命じたもの。蒼真はそれを懐に押し込んだ。指が震えていたが、巻物を落とすことだけはしなかった。
搦手門の外で小夜が泣いていた。声を殺して、肩だけを震わせて泣いていた。蒼真の姿を見つけると、小夜は駆け寄り、兄の腰にしがみついた。蒼真は妹の頭に手を置いたが、何も言えなかった。伍平が小夜を抱え上げ、蒼真の腕を引いた。三人は山林の中へ走った。
蒼真は一度だけ振り返った。
燐河本城が燃えていた。父が二十年かけて築いた城が、石垣の上まで炎に包まれ、夜空を赤く染め上げていた。天守の屋根が崩れ、火の粉が星のように舞い上がる。あの城壁の上から父を見送った朝が、伍平と兵を点呼した昼が、母と茶を飲んだ夕暮れが、すべて燃えている。蒼真の目に炎が映り、頬を伝う涙を乾かした。
山道を登りながら、背後で最後の崩落が始まった。本丸の石垣が、支えを失った天守もろとも内側に沈んでいく。大地が揺れ、山の木々から鳥が一斉に飛び立った。崩落の轟音は山中にこだまし、まるで城そのものが断末魔の叫びを上げているようだった。
蒼真は足を止めなかった。懐の巻物と、もう片方の懐に入った母の帳面。その二つの重みだけが、闇の中を走る蒼真の体を現実に繋ぎ止めていた。