Novelis
← 目次

不敗の謀聖、和平を謀る

第3話 第3話「間道の夜に来た追手」

第3話

第3話「間道の夜に来た追手」

三日目の夜に、追手は来た。

帝都を出てから昭衍と夏雲は北街道を避け、間道を選んで歩いた。追放された軍師に馬は与えられず、官給の装備も剥がれた身では、徒歩で国境を目指すほかない。昼は灌木の影に身を潜め、夜に移動する。昭衍の判断だった。夏雲は異を唱えなかった。軍師が夜を選ぶなら、それは昼に動けない理由があるということだ。三日間、二人は一言も余計な言葉を交わさなかった。水筒の水を分け合い、乾し肉を齧り、黙って歩いた。夏雲は昭衍の背を見つめながら、この人は最初から追手が来ることを予見していたのだと思った。追放という温情の裏にある殺意を、朝堂の石畳に印綬を置いたあの瞬間から読み切っていたのだ。

その理由は、三日目の黄昏に姿を現した。

西の稜線に日が落ちかけた刻限、昭衍は足を止めた。枯れた河床を辿って丘陵地帯に入ったところだった。風が変わった。人の気配ではない。気配を殺した者の、気配の不在だった。鳥が鳴かない。虫が黙っている。丘の斜面を覆う枯れ草が、風もないのにわずかに揺れた。空気の温度が一段下がったように感じた。昭衍は無意識に呼吸を浅くし、周囲の音を拾おうとした。遠くで狐が鳴くはずの刻限だった。何も聞こえない。沈黙そのものが、包囲の証だった。

「夏雲、東へ走れ」

「何を——」

「命令ではない。頼みだ」

昭衍の声には、朝堂で印綬を返したときと同じ静けさがあった。だがその目は違う。戦場の目だ。地形を読み、敵の数を数え、生き残る道を探す目。夏雲はその目を見て悟った。追手が来ている。そして昭衍は、二人では逃げ切れないと判断した。

「殿を務めるつもりですか。丸腰で」

「お前が東に逃げれば、追手は分散する。俺は北へ抜ける。合流点は——」

言い終える前に、最初の刃が飛んだ。

暗器だった。丘の稜線から投じられた黒い刃が、夕闇の中を音もなく滑り、昭衍の左肩を掠めた。袍の布が裂け、浅い傷から血が滲む。焼けるような痛みが走ったが、昭衍はそれを無視した。痛覚よりも先に、頭が動いている。投擲の角度から射手の位置を割り出し、同時に退路を計算する。同時に三方から黒装束の影が躍り出た。五人。いや、七人。特務暗部の精鋭だと昭衍は即座に看破した。通常の兵ではない。一人一人が暗殺の技を叩き込まれた専門の殺し手だ。足音がない。呼吸音もない。枯れ草を踏む音すら殺している。これは兵士ではなく、刃そのものだった。

「走れッ!」

昭衍が叫んだ。夏雲は一瞬だけ躊躇い、歯を食いしばって東へ駆けた。振り返りたい衝動を、全身の筋肉で押し殺しながら。追手の二人が夏雲を追う。残り五人が昭衍を囲んだ。夏雲の判断は正しい。ここで二人とも死ぬより、一人が生き延びるほうが——軍師ならばそう計算する。

だが昭衍は軍師であって武人ではなかった。

最初の一太刀を、拾った枯れ枝で逸らした。乾いた木が砕ける感触が掌に伝わる。二撃目は避けきれず、右の脇腹を浅く斬られた。熱い液体が腰を伝い、帯に染みた。三撃目は完全に捉えられた。背後から突き出された剣が左の肩甲骨の下を貫き、昭衍は前のめりに倒れた。口から血が溢れる。枯れた河床の砂利が頬を削った。鉄の味が舌の上に広がり、視界が赤く染まった。

暗殺者たちは確実だった。倒れた昭衍にさらに二太刀を浴びせ、背と右腿を裂いた。止めを刺そうとした刹那、北の丘の向こうから蹄の音が響いた。複数の馬。それも速い。暗殺者の長が手を上げ、部下を制した。

「撤収。息はもう長くない」

黒い影が溶けるように消えた。来たときと同じく、音もなく。後には血溜まりに伏した昭衍だけが残された。

月が昇った。

半月の薄い光が荒野を銀に染め、枯れた河床に横たわる昭衍の体を照らした。血は止まっていなかった。砂利の隙間に赤黒い筋が幾本も走り、乾いた大地がそれを吸い込んでいく。昭衍の意識は既に朧だった。

寒い、と思った。北方の冬営でも感じたことのない寒さだった。体の内側から熱が抜けていく。指先が動かない。呼吸のたびに胸の奥で何かが泡立つ音がする。肺をやられたか。軍師の頭が、自分の体を他人事のように分析していた。出血量から推測して、あと半刻も保たない。止血の手段もなく、叫ぶ声も出ない。実に明瞭な死の方程式だった。

視界の端で、星が回っている。いや、星は動いていない。自分の目が回っているのだ。薄れゆく意識の中で、昭衍は不思議な明晰さを覚えた。死にゆく者に訪れるという、最後の覚醒かもしれなかった。

地図が見えた。瞼の裏に、あの赤い版図が浮かんでいる。自分が広げた帝国の領土。その赤の中に、どれだけの血が塗り込められているのか。兵を殺さず勝つことに腐心した。だが勝利そのものが、より大きな殺戮の土台になっていたとしたら。征服した土地の民が泣いた声を、昭衍は聞いたことがない。聞こうとしなかった。地図の上の赤い色は、いつも美しく、いつも静かだった。

——俺の十二の勝利は、何を生んだ。

問いだけが残り、答えは出なかった。意識が暗転する寸前、砂利を踏む蹄の音が近づいてきた。松明の光が瞼の裏を赤く染める。声が聞こえた。若い女の声だった。

「止まれ。あれは何だ」

蹄の音が止まった。数頭の馬。装備の軋む音。革鎧が擦れ合う乾いた音と、馬が鼻を鳴らす湿った息遣い。昭衍の傍らに降り立った足音は軽く、だが迷いがなかった。膝をつく衣擦れの音。首筋に指が当てられ、脈を探られた。その指先は冷たく、だが確かだった。戦場を知る者の手だと、朦朧とした意識の底で昭衍は思った。

「まだ息がある。だがこの出血では——」

別の声。男の声だ。年嵩の、慎重な声。

「旗印のない者です。身元が分からぬ以上、関わるのは——」

「黙れ、趙叔」

若い女の声が遮った。松明がさらに近づき、昭衍の顔を照らした。昭衍はもう目を開ける力がなかった。だが耳は辛うじて生きていた。

「この袍の仕立て……紺青の軍師袍だ。燎原帝国の高官のものだぞ」

「しかし、こんな荒野で帝国の高官が一人で——」

女の指が昭衍の襟元に触れた。官位の章は剥がされていたが、袍の裏地に刺繍された紋様を探り当てたらしい。息を呑む気配がした。

「……軍師府の紋だ」

沈黙が落ちた。松明の火が爆ぜる音だけが荒野に響く。年嵩の男——趙叔と呼ばれた者が、緊張を含んだ声で言った。

「殿下。まさか、この者は——」

「陸昭衍だ」

女は断言した。その声には驚きよりも、鋭い確信があった。

「燎原帝国軍師・陸昭衍。不敗の謀聖。先週、追放の報が入った。その男がここにいる。この傷は暗殺の手口だ。帝国は追放だけでは済ませなかったらしい」

趙叔の声がさらに低くなった。

「であれば尚のこと。この男を拾えば帝国との関係が——」

「関係?」女は短く笑った。「帝国が我が連邦に向けている刃を、関係と呼ぶのか。趙叔、担架を用意しろ。この男を陣に運ぶ」

「殿下、お待ちください。評議会の承認なく敵国の——」

「敵国の、何だ。敵国の軍師を拾うなと? 帝国が捨てたのだ。捨てられた剣を拾って何が悪い」

趙叔は口をつぐんだ。殿下と呼ばれた女——翠霞連邦第三王女・李霜月は立ち上がり、斥候隊に命じた。声は若いが、命令の出し方に淀みがない。生まれながらに人を率いてきた者の、自然な威がある。

昭衍の意識は、もう波打ち際の砂のように崩れかけていた。担架に載せられる衝撃で背の傷が悲鳴を上げ、一瞬だけ視界が戻った。月光の下に、馬上の影が見えた。銀灰の軽鎧。翠霞連邦の斥候隊の旗印——蒼い三日月に翡翠の鳥。見知らぬ旗だった。十二の戦で一度も対峙したことのない国の旗。

視界が暗転した。

担架が馬に曳かれ、荒野を揺れながら進む。揺れるたびに傷口が引き裂かれるような痛みが走り、それがかえって意識を繋ぎ止めた。意識の断片の中で、昭衍は声を聞いた。霜月の声だ。傍らを歩きながら、誰に言うでもなく呟いている。独り言か、あるいは月に向かって語りかけているのか。

「不敗の謀聖が、敵国の荒野で血に塗れて死にかけている」

馬の蹄が砂利を踏む音が、規則正しく刻まれる。

「これは天の配剤だ」

その声の最後の一音を聞いたところで、陸昭衍の意識は完全に途絶えた。月光だけが変わらず荒野を照らし、蒼い旗印の一隊は北へ——翠霞連邦の領土へ向かって、夜の中を進んでいった。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!