第1話
第1話
計測器の数値表示が、また「0.00」を示した。
異能実技演習棟の第三訓練場。防弾ガラスで仕切られた計測エリアの中央に立つ俺——神代翔真は、掌を標的に向けたまま動けなくなっていた。
集中しろ。体の奥にあるはずの異能を、腹の底から絞り出すイメージ。教本にはそう書いてある。何百回と読んだ。何千回と試した。
掌が微かに震える。空気が、ほんの少しだけ揺れる。鼓膜の奥でかすかな振動音が聞こえる——ような気がする。それだけだ。
計測器の数値は微動だにしない。
背後に並ぶ同級生たちの視線が、防弾ガラス越しに背中に刺さる。誰も声を出さない。嘲笑すら起きない。それが一番きつい。笑われるならまだ認識されている。無関心は、存在ごと消されるのと同じだ。
「はい、神代。終了」
教官の淡白な声が訓練場に響く。記録用タブレットに目を落としたまま、こちらを見てすらいない。見る必要がないのだ。結果は最初から分かっているのだから。
「E級、出力ゼロ。次、桐島」
俺が計測エリアから出ると同時に、すれ違いざまに桐島が鼻で笑った。
「おつかれ、ゼロ代」
周囲から低い笑い声が漏れる。神代をもじった渾名。もう慣れた——と思いたいが、首の後ろが熱くなるのは止められない。歯の奥を噛み締めて、列の最後尾に戻る。壁に背をつけると、防弾ガラスの冷たさが制服越しに背中に伝わった。
桐島が計測エリアに立つ。右手を軽く振ると、掌から青白い電弧が走った。訓練場の照明がちらつくほどの出力。空気が焼ける匂いが換気口を通じてこちらまで届く。計測器が跳ね上がり、「B+」の判定が点灯する。
「よし、桐島。安定してるな」
教官の声に初めて感情が乗る。
俺はそれを壁際で眺めていた。炎を操る奴、重力を歪める奴、水を自在に形作る奴。この学校では全員が何かしらの異能を持っている。ランク制度は国が管理する公的な格付けで、S級からE級まで六段階。進学、就職、社会的信用——すべてがランクに紐づく世界で、E級は最底辺だ。
しかも俺の能力は「微弱な空気振動」。風すら起こせない。E級の中でも最弱。計測器が反応しないレベルの異能に、存在する意味があるのかすら怪しい。
——放課後の帰り道だけが、息を吸える時間だった。
「翔真、肉まん買ってこ。今日セブンで新しいの出てたよ」
柚月が鞄を揺らしながら振り返る。柏木柚月。幼馴染で、同じE級。能力は「微弱な増幅」——他人の異能出力をわずかに底上げするだけの、これまた計測器泣かせの力だ。
「姉ちゃん、俺ピザまんがいい」
隣を歩く弟の陽太が手を挙げる。中学二年、ランク外の一般人。異能を持たない代わりに、異能者だらけの家系で唯一まともな神経をしている。
「お前はいつもピザまんだろ」
「だって美味いもん」
三人でコンビニに寄り、温かい中華まんを手に商店街を歩く。四月の夕暮れ。オレンジ色の空の下、肉まんの湯気が鼻先をくすぐる。柚月が陽太と新作アニメの話で盛り上がっている。俺は半歩後ろを歩きながら、二人の背中を見ていた。
商店街のスピーカーからは有線放送の古い歌謡曲が流れている。八百屋のおばちゃんが「柚月ちゃん、今日もお兄ちゃんたちと一緒?」と声をかけてくる。柚月が「お兄ちゃんじゃないですよー」と笑って返す。この商店街の人たちは、俺たちのランクなんて気にしない。肉まんを頬張る高校生が、E級かA級かなんてどうでもいいのだ。
この時間は悪くない。ここにランクは関係ない。E級だろうがゼロだろうが、肉まんは同じ味がする。
「翔真、聞いてる?」
「聞いてる」
「嘘。目が死んでた」
「……元からこういう目だ」
柚月が呆れたように笑い、陽太がそれに釣られて笑う。
——こんなはずじゃなかったのに。
その言葉を飲み込む。口に出したところで何も変わらない。異能の才能は先天的なもので、努力で覆った前例はほぼゼロ。E級に生まれた時点で、俺の天井は決まっている。
分かっている。分かっているはずなのに。
「じゃあ翔真、また明日ね」
「おう」
柚月と別れ、陽太と二人で自宅マンションに戻る。築二十年の3LDK。玄関を開けると、誰もいない部屋特有の冷えた空気が足元から上がってくる。母さんは夜勤でいない。父さんは——十年前からいない。
陽太がリビングのテレビを点ける。異能者ニュースの特番。A級異能者がS級昇格試験に挑む密着ドキュメントが流れている。画面の中の異能者は、掌から放った衝撃波でコンクリートの壁を粉砕していた。
「兄ちゃんも将来ああなれたらかっこいいのにね」
悪気はない。陽太に悪気は一切ない。それは分かっている。
「無理だよ。E級だから」
軽く言って、自分の部屋に引っ込んだ。
ドアを閉める。鞄を床に投げる。ベッドに座って、両手を見る。
何百回と繰り返した動作。掌を上に向けて、腹の底に意識を沈める。体の芯にある、微かな——本当に微かな振動の種。それを掌に通そうとする。
空気が揺れる。指先の数ミリ先で、目に見えない波紋が広がる——ような気がする。
それだけだ。
窓ガラスも揺れない。カーテンもそよがない。机の上の消しゴムすら動かせない。
これが俺の異能。E級、出力ゼロ。
——こんなはずじゃなかった。
父さんはS級だった。異能管理局の最精鋭。詳しいことは教えてもらえなかったが、母さんが昔ぽつりと言っていた。「お父さんはすごい人だったのよ」と。その時の母さんの目は、誇らしさと、それ以上の何か——悲しみに近い感情で揺れていた。
その血を引いているはずなのに、俺はゼロだ。
拳を握った。爪が掌に食い込む。痛みだけが確かで、異能は何も応えない。
十七年間ずっとこうだ。期待して、試して、失敗して、諦めかけて、また期待する。その繰り返し。いい加減、認めるべきなのかもしれない。俺には才能がないと。E級の烙印は正しいと。
——けど。
認めたら、終わる気がした。何が終わるのかは分からない。ただ、掌の奥のこの微かな振動を「無意味だ」と切り捨てた瞬間、自分の中の何かが死ぬ。その予感だけが、俺をまだ訓練場に立たせている。
自室の窓から見える街並みは、もう暗い。遠くにランクA以上の異能者だけが入れる特別居住区の灯りが見える。あの光の中に、かつて父さんもいたのだろうか。
スマホが震えた。柚月からのメッセージ。
『明日の演習、ペア実技だって。組んでくれる?』
E級同士のペア。計測器が二つ並んでゼロを表示する光景が目に浮かぶ。周囲の反応も想像がつく。
『いいよ』
それでも断る理由はない。柚月は俺と組むことを恥だと思わない。それだけで十分だ。
スマホを置いて、もう一度掌を見る。今日も何も変わらなかった。明日も変わらないだろう。それでも、明日は来る。
ベッドに倒れ込もうとした、その時だった。
——ウウウウウウゥゥン。
低い、腹の底を震わせる重低音。街全体に響き渡る、聞き慣れた音。
異形警報。
窓の外、商店街の向こう——おそらく三丁目付近で、警報灯が赤く回転している。異形出現を知らせる第二種警報。B級以上の討伐班が自動出動する案件だ。
スマホにプッシュ通知が飛んでくる。『第三区画に異形反応検知。住民は屋内待機してください』
俺は窓を閉めた。ロックをかけ、遮光カーテンを引く。手順通りだ。小学校の頃から叩き込まれた異形警報時の行動マニュアル。窓を閉め、施錠し、部屋の中央で待機する。
関係ない。E級には関係のない世界の話だ。討伐班が処理して、明日には何事もなかったように日常が戻る。いつもそうだ。
異形が暴れ、上位ランクが倒し、俺たちE級は蚊帳の外で朝を迎える。
それでいい。それが正しい。
——本当に?
振り払うように布団を被る。耳の奥で、あの微かな振動が脈打っている。いつもより、ほんの少しだけ強く。まるで警報のサイレンに共鳴するように、腹の底から胸の奥へ、波紋が広がっていく。
気のせいだ。
そう言い聞かせて、目を閉じた。窓の向こうで警報がまだ鳴っている。赤い光が、カーテン越しに天井を断続的に染めていた。