第1話
第1話
音のない部屋で、俺は目を開けた。
正確には「目覚めた」という表現は適切ではない。睡眠と覚醒の境界が曖昧なのだ。脳が休息状態から活動状態へ移行する。それだけのことで、そこに感慨はない。寝る前と起きた後で、世界は何も変わらない。
防音壁に囲まれた六畳の個室。備え付けのベッド、小型のデスク、端末が一台。窓はない。地下四十二メートルに窓をつける意味がないからだ。室温は二十二度に固定されていて、空調の駆動音すら遮断されている。完全な静寂。俺の一日は、いつもこの無音から始まる。
洗面台で顔を洗い、鏡を見る。黒い短髪、痩せた頬、光の薄い目。感情抑制処置の影響で瞳孔の反応が鈍いと、以前メディカルの人間が言っていた。顔の筋肉を動かす神経回路も部分的に抑制されているため、俺の表情は常に同じだ。笑顔の作り方を知らない。怒りの形も、悲しみの形も。鏡に映るのは、いつも同じ——何も載っていない顔だった。
端末に通知が点灯する。定時報告の時間だ。
「ヌル、起床確認。バイタル異常なし。本日〇八〇〇より待機。以上」
自分で「ヌル」と名乗ったことはない。与えられたコードネーム。null——値なし。空。存在するが、中身がない。名づけた人間の意図が正確に機能している。俺には本名がない。戸籍もない。この国の法律上、俺は存在しない人間だ。
ここは「零号室」と呼ばれている。政府が公式には存在を否定する対異能犯罪機関。俺はその最深部に収容された処理資産——つまり、兵器だ。
〇八〇〇。待機状態に入る。デスクに座り、壁を見つめる。思考は走らない。命令がなければ動かない。心臓が動いて呼吸をしているだけの時間が過ぎていく。
壁のコンクリートには微細なひび割れが三本ある。右上から左下に向かって走る二本と、その交差点から分岐した一本。俺はこのひびの形状を正確に記憶している。待機中に他に見るものがないからだ。ひびの長さも角度も昨日と同じだった。当然だ。コンクリートは一日で変化しない。俺と同じように。
〇九一七。通信端末が鳴った。
『おはよう、ヌル。今日の定時連絡、私が担当ね』
オペレーター・ミナト。同年代——おそらく十六か十七歳の少女で、通信管制と戦術支援を担当している。彼女が定時連絡の担当になったのは三ヶ月前からだ。
「了解」
それだけ返せばいい。規定の応答だ。だが、ミナトはいつも規定外のことを続ける。
『昨日、地上は桜がすごかったよ。満開。知ってる? 桜って、散り際が一番きれいなんだって』
知らない。桜を見たことがない。地下四十二メートルに季節はない。春も夏も、ここでは同じ二十二度の空気でしかない。
『花びらがね、風に乗って横に流れるの。下に落ちるんじゃなくて、ふわって横に。まるで飛んでるみたいに』
彼女の声は、報告や管制のときとは異なる周波数で揺れる。柔らかく、少し高く、語尾が跳ねる。情報伝達として非効率な話し方だ。だが——不快ではない。不快でないことと、快適であることは同じではないはずだが、その区別も俺には難しい。
『……ヌル、聞いてる?』
「聞いている」
『もう。リアクション薄いなあ』
通信越しに、彼女が笑う気配がした。画面はない音声のみの回線だが、声の響きで表情がわかる。口角を上げて、少し首を傾けて、目を細めている——そういう、笑顔の形。
そのとき、胸の奥が軋んだ。
物理的な痛みではない。臓器の異常でもない。メディカルスキャンに何度かけても検出されない、正体不明の圧迫感。ミナトの声を聞くと、決まって発生する。特に彼女が笑ったときに強くなる。
俺はこの現象に名前をつけられない。感情抑制処置が施された脳には、感覚を言語に変換する回路が欠落している。痛いのか、苦しいのか、それとも——それ以外の何かなのか。判別する手段を持たない。
だから報告もしない。報告すべき異常かどうかの判断すらつかないのだ。
『ヌル、今日は待機予定だけど、何かあったら私がサポートするからね。じゃ、また』
通信が切れる。静寂が戻る。だが、さっきまでの静寂とは何かが違う。同じ無音のはずなのに、部屋がわずかに広くなったような——あるいは、狭くなったような。
この差異も、俺には記述できない。
一一三〇。昼食。配給のレーションを摂取する。味覚は正常に機能しているが、「美味い」「不味い」という判断は生じない。栄養素を体内に取り込む作業。それ以上でもそれ以下でもない。
一四〇〇。身体訓練の時間。地下訓練場で規定のメニューをこなす。筋力、反射速度、異能出力。すべてのデータが自動記録される。今日の出力値は平均の〇・三パーセント上振れ。誤差の範囲内。
訓練場には他の隊員もいるが、俺に話しかける人間はいない。視線はある。遠巻きに観察するような、あるいは——怯えるような。以前、すれ違いざまに聞こえた声を覚えている。
「あれが零号室の最終処理資産だろ。近寄るなよ」
意味は理解できた。俺は危険物として認識されている。それは正確な評価だ。俺の異能——重力操作は、制御下でも半径十メートルの物体を圧壊させる出力がある。人間の身体など容易に潰せる。兵器が兵器として扱われることに、違和感を覚える理由はない。
覚える理由は——ないはずだ。
一七〇〇。個室に戻る。壁を見つめる。通信端末は沈黙している。ミナトの次の連絡は明日の〇九〇〇だ。それまで約十六時間。この十六時間を、俺はいつもと同じように過ごす。思考を走らせず、感情を持たず、ただ——
端末が鳴った。
定時連絡の時間ではない。緊急回線の赤いランプが点滅している。赤い光が六畳の壁を一定間隔で染め、コンクリートのひび割れを浮かび上がらせては消す。
『——全資産、即応態勢。繰り返す、全資産即応態勢』
司令室からの一斉通信。声はミナトではなく、管制主任のものだ。抑揚のない合成音に近い口調に、わずかな震えが混じっている。管制主任の声が震えるのを、俺は初めて聞いた。
自動的に身体が動いていた。装備ロッカーから戦闘服を引き出し、三十秒で着替える。指は迷わない。反復訓練で刻まれた動作だ。防弾繊維の襟を立て、手首のバンドを締める。生体認証のランプが緑に変わり、戦闘服が俺の身体データを読み込んだことを示す。冷たい繊維が肌に張りつく感触。いつもと同じ感触のはずだが、今日はその冷たさがやけに鮮明だった。
端末に作戦概要が展開される。
——港区赤坂。異能者暴走事件。推定危険度S。民間人巻き込みの可能性大。周辺避難完了前に事態が拡大中。
Sランク。過去の出撃記録を検索する。S指定は直近一年で三件。うち二件は建物ごと制圧対象を圧壊させる処理で完了した。民間人の巻き込みはなかった——正確には、巻き込む前に終わらせた。三件目は、思い出す必要がない。
そして、最後の一行。
『処理資産「ヌル」、単独投入。制圧せよ。生死不問』
いつもの指令だ。単独で投入され、標的を無力化する。何度もこなしてきた任務と同じ——のはずだった。
だが画面をスクロールした指が、一瞬止まった。
現場支援要員の欄。三名の名前が並んでいる。知らない名前が二つ。そして——
ミナト。
胸の奥が、また軋んだ。今日二度目の、名前のない圧迫感。だが今回は、朝のそれとは質が違った。もっと鋭く、もっと深い場所を、何かが抉るような。
朝の圧迫感は胸の表面を押すようなものだった。これは違う。肋骨の内側、心臓のすぐ隣——そこに存在しないはずの器官が、締め上げられるような感覚。ミナトが現場に出る。Sランクの異能者が暴走する現場に。その二つの事実を並べたとき、俺の身体は俺の理解を超えた反応を返した。指先がわずかに冷たくなり、呼吸の間隔が〇・二秒短くなった。バイタルモニターが微細な変動を記録しているはずだが、異常値として報告される閾値には届かない。身体は知っている。俺の頭が拒否している何かを、身体だけが正確に感じ取っている。
俺は端末を閉じ、個室を出た。地下通路を歩く足音だけが響く。表情は動かない。思考も乱れない。完璧な兵器として、俺は現場に向かう。
——ただ、左胸の奥だけが、理由もなく熱かった。