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素材屋の声、最凶の狼を聴く

第3話 第3話

第3話

第3話

夜明け前に目が覚めた。眠れなかったわけではない。体が勝手に準備を始めていた。

 採掘籠の中身は昨夜のうちに入れ替えてある。松明を通常の倍——八本。水筒二つと干し肉、硬焼きパンを三日分。小槌に加えて、細身の鶴嘴を一本。刃こぼれしているが、硬い鉱脈にはこちらの方が効く。刃に指を沿わせると、欠けた部分が爪に引っかかった。この不揃いな歯が、かえって鉱脈の割れ目に食い込む。長年の経験が教えてくれた理屈だ。革手袋の内側に予備の火打ち石を縫い込み、最後にあの地図を折り畳んで胸ポケットに収めた。

 安宿の階段を降りるとき、一段ごとに木が軋んだ。その音すら、今朝は素材の声に聞こえる。乾いた木材が、長年の荷重に疲れている声。感覚が研ぎ澄まされているのか、あるいは昂っているだけなのか。

 街はまだ眠っていた。石畳を踏む自分の足音だけが、朝霧の中に響く。白い息が松明の残り香——昨夜、油を染み込ませたときの獣脂の匂いと混じって鼻を掠めた。ダンジョン入口は街の東端、崩れかけた城壁の根元にある。正規の入口にはギルドの検問があるが、素材屋が使う搬入口は別だ。最浅層専用の狭い横穴で、ランク確認もない。荷車が通れる程度の幅しかないその穴から、カイトは十年間、毎朝ダンジョンに潜ってきた。

 今日も同じ穴から入る。だが、行き先が違う。

 最浅層の空気は馴染み深かった。湿った石の匂い、苔の甘い香り、遠くで水が滴る音。壁の向こうから届く鉱石たちの穏やかな低音。帰ってきた、と体が緩みかける。だがカイトは足を止めなかった。

 第三層までは既知の領域だ。自分の地図が隅々まで埋まっている道を、迷いなく下る。通常なら採取のために立ち止まる鉱脈を素通りし、薬草の群生地にも目を向けず、ひたすら下降ルートを辿った。

 第三層と第四層の境界で、空気が変わった。

 温度が二度ほど下がった——と、体感ではそう思った。肌の表面が一斉に粟立ち、吐く息がわずかに白く見えた気がした。だがそれ以上に異質だったのは、音だ。壁の声の響きが一段低くなり、反響の仕方が変わる。最浅層の穏やかな合奏が、ここではくぐもった独奏に変わっていた。地層が厚くなり、声が届きにくくなっている。まるで厚い布を何枚も重ねた向こうから、誰かが叫んでいるのに音だけが削り取られていくような——そんな圧迫感が胸の底に溜まった。

 カイトは松明を掲げ、足元を確認しながら進んだ。第四層以降は未踏だ。地図もない。だが素材感知は利く。壁の声を聴けば、この先に空洞があるか、地盤が緩んでいるか、水脈が横切っているかがわかる。目ではなく耳で——いや、もっと深い場所で地形を読む。

 第五層に入ったあたりから、魔物の気配が濃くなった。

 素材感知は魔物そのものを捉えるわけではない。だが魔物が通った後の壁面には、微かな歪みが残る。鉱石の結晶構造が魔力の残滓で僅かに変質し、声が濁る。その濁りを辿れば、魔物の行動範囲がおおよそ掴めた。

 ——この通路は、さっき何かが通った。

 壁に触れた指先が、湿った石の表面から情報を読み取る。結晶構造の乱れは新しい。おそらくここ半刻以内。大型ではないが、中型の魔物が複数。群れで行動する種だ。

 カイトは音を殺して迂回路を探った。左手の壁の奥に、もう一本通路がある。鉱脈の切れ目に沿って自然にできた裂け目で、人ひとりが横向きに通れる幅。体を捻じ込み、籠を引きずるようにして抜けた。革手袋の甲が岩肌に擦れ、鋭い痛みが走ったが、構わず進む。

 こうして第六層までは切り抜けた。魔物の気配を察知するたびに迂回し、壁の裂け目や古い排水溝を這い、ときには天井近くの窪みに体を押し込んで、足元を通過する何かの影をやり過ごした。息を殺し、心臓の音すら敵に悟られまいと歯を食いしばる。松明を消し、完全な闇の中で壁の声だけを頼りに息を潜めたこともあった。指先が岩肌に触れているその一点だけが、世界との唯一の接点だった。戦闘力のない人間にとって、ダンジョンの深層は戦場ではなく迷路だ。正面突破という選択肢がないからこそ、地形の全てが味方にも敵にもなる。

 そして——第七層の入口に立ったとき、カイトは息を呑んだ。

 空気が、叫んでいた。

 壁も、天井も、足元の岩盤も。あらゆる素材が一斉に声を上げている。最浅層の穏やかな低音とも、中層のくぐもった独奏とも違う。無数の声が重なり合い、互いに干渉し、時に打ち消し合い、時に共鳴して鋭い高音を発する。素材感知を全開にした瞬間、頭蓋の内側に針を刺されたような痛みが走った。

 カイトは額を押さえ、壁に手をついた。感知の範囲を絞る。全方位ではなく、足元三歩分だけに意識を集中する。雑音が遠のき、足元の岩盤の声だけが残った。——安定している。この一歩は踏める。

 そうやって、一歩ずつ、聴きながら進んだ。

 第七層の地形は、上層とまるで違っていた。通路は広く、天井は高い。松明の光が届かない暗闘が頭上に広がり、まるで地下に空が開けたようだった。炎に照らされた壁面が濡れたように光り、その奥の闇は松明を嘲笑うかのように深い。壁面には露出した鉱脈が幾筋も走り、その一つひとつが固有の声で鳴っている。蒼黒鉄鉱の太い脈動。深淵苔が岩の割れ目から垂れ下がり、湿った呼吸を繰り返している。

 闇市で見た素材の、比ではなかった。

 カイトは採掘籠を下ろし、最初の採取に取りかかった。蒼黒鉄鉱の脈を指先でなぞり、結晶構造が最も整った箇所を探す。声を聴く。——ここだ。刃先を当て、三度叩く。掌に落ちた鉱石は、闇市の品よりも遥かに純度が高かった。内部に亀裂ひとつない、完璧な結晶。声が澄んでいる。これ一つで、あの露台の蒼黒鉄鉱三個分の価値はあるだろう。

 感覚を頼りに採取ルートを刻んでいく。足元の岩盤に、小槌の柄で小さな十字の傷をつけながら。帰り道の目印であると同時に、次回以降の地図を体で覚えるための記録だ。蒼黒鉄鉱を四つ、深淵苔を二束。ここまでで闇市の相場に換算すれば、二万ルトを超える。ひと月分の生活費だ。

 欲を出すな、と自分に言い聞かせた。初回は偵察が主目的だ。帰還ルートの確保を優先しろ。

 そう思いながらも、足は奥へ向かっていた。素材の声に導かれるように。

 第七層の中ほどまで進んだとき、足元の岩盤の声が変わった。右側の壁面に、不自然な空洞がある。地図を取り出して確認した。——載っていない。概略図にも、破線の注記にも、ここに横穴があるとは記されていなかった。

 幅は人ひとり分。高さは、腰を屈めれば通れる程度。壁面の断層を見る限り、人工的に掘られたものではない。地質の変動で自然にできた裂け目だ。ただし、入り口付近の岩肌に残る擦過痕は——何かが、ここを通っている。それも繰り返し。

 風が吹いていた。横穴の奥から、かすかに空気が流れてくる。冷たく、乾いている。そしてその風に乗って——声が届いた。

 素材の声ではなかった。

 今まで聴いてきたどの鉱石とも、どの薬草とも違う。結晶構造の振動でもなければ、有機物の呼吸でもない。もっと深く、もっと大きく、もっと——切実な何かだった。低く、長く、うねるように響く音。震えている。だが恐怖ではない。孤独だ。途方もなく長い時間、誰にも聴かれることなく鳴り続けてきた声。

 カイトは横穴の入り口に片手をついたまま、動けなくなっていた。

 引き返すべきだ。初回偵察で未知の横穴に入るのは無謀を通り越して愚行だ。素材は十分に採れた。帰れば生活は立て直せる。理性はそう告げている。だが胸の奥では、あの声の余韻がまだ震えていた。骨を伝い、指先にまで染み渡るような振動。十年聴き続けてきた素材たちの声とは根本から異なる、何か巨大なものの——存在そのものの響き。

 だが指先が——横穴の壁に触れた指先が、離れなかった。

 この声を、知っている。正確には、知っているはずがない。聴いたことのない種類の声だ。それなのに指先が応えている。十年間、素材の声を聴き続けてきた指が、この声を無視できないと訴えている。

 松明を横穴に差し入れた。炎が奥に向かって引かれるように揺れた。空気の流れがある。この先に、広い空間がある。

 奥から、もう一度——あの声が響いた。低い、震える、孤独の音色。

 カイトは採掘籠を背負い直し、横穴に体を滑り込ませた。

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