第3話
第3話
暗闇には重さがある。
カイはそれを、落下してからの数分間で骨身に刻んだ。光のない空間では上下の感覚が曖昧になり、壁に触れていなければ自分が立っているのか横たわっているのかさえ怪しくなる。背負子の中から予備の松明を一本抜き、火打ち石を擦った。三度目の火花でようやく油布に火が移り、橙色の光が狭い空洞を照らし出した。
岩壁は黒みがかった灰色で、低層や中層の苔むした石壁とはまるで異なる質感だった。乾いている。湿気がない。その代わり、空気そのものが重い。胸を圧迫するような密度があり、呼吸のたびに肺が余計な力を使っている感覚がある。
カイは背負子を下ろし、中身を確認した。
松明の予備が二本。今点けているものを含めて三本。一本あたりの燃焼時間はおよそ二時間。つまり六時間分の光。回復薬は小瓶が三つ。骨折には効かないが、裂傷と打撲をある程度は癒せる。携帯食は硬い干し肉と穀物の圧縮棒が四本ずつ。水は革袋に半分ほど。節約すれば二日。節約しなければ一日半。
これが全財産だった。
肋骨の罅に回復薬を一つ使った。瓶の蓋を歯で抜き、苦い液体を口に含んで飲み下す。じわりと熱が胸の奥に広がり、骨の軋みがわずかに和らいだ。完治には遠いが、動ける程度にはなる。残り二つ。これ以上の消耗は致命的だった。
上を見上げた。崩落した岩が隙間なく詰まっている。掘り返す道具はないし、仮にあったとしても一人では何日かかるかわからない。その間に松明も食料も尽きる。
下を見た。空洞は緩やかな傾斜になっていて、闇の奥に向かって喉のように狭まりながら続いていた。鑑定を起動する。あの矢印のような光の残像は——出なかった。先ほどの反応が幻でなかったなら、もっと近づく必要があるのかもしれない。
選択肢はなかった。正確には、最初からなかった。
カイは背負子を背負い直し、松明を左手に持ち、右手を壁に沿わせながら歩き始めた。
傾斜路は思ったより長く、そして思ったより険しかった。
足元は不規則に隆起した岩盤で、一歩ごとに足首の角度が変わる。松明の光は三メートル先までしか届かず、その先は壁も天井も闇に溶けている。時折、足元に小さな亀裂が走っていて、そこから微かな風が吹き上がってきた。生温い空気。何層も下から上がってくる、この迷宮の深い深い呼吸だった。
鑑定を起動し続けた。壁、天井、足元、前方の暗闘——対象を変えながら、途切れなく。表示される情報は貧弱だったが、ないよりはましだった。
——玄武岩質。人工の加工痕なし。自然洞窟。
——気温:摂氏十二度。湿度:低。
断片的な環境情報。だが三年間の蓄積がある。低層のダンジョンで毎日のように鑑定を使い続けたカイには、この断片からでも読み取れるものがあった。湿度が低いということは、水場から離れている。気温が一定ということは、外気の影響を受けない深さにいる。人工の加工痕がないということは——ここはダンジョンの「設計された」領域ではなく、自然に形成された空洞だ。地図にも記録にもない場所。
通路が急に広がった。松明の光が壁に届かなくなり、足音の反響だけが空間の広さを伝えてきた。立ち止まり、松明を高く掲げる。天井は見えない。左右の壁も遠い。巨大な空洞に出たらしかった。
鑑定が反応した。
——生体反応。前方七十メートル。種別:不明。危険度:——
文字が滲んで消えた。だが「生体反応」の三文字は確かに見えた。何かがいる。カイは松明を低くし、身を屈めた。光を小さくすれば、相手からは見えにくくなる。低層で学んだ基本だ。
足音を殺して壁際に寄り、岩の突起に体を隠しながら進んだ。二十メートルほど進んだところで、鑑定が再び点滅した。
——影蜥蜴(シェイドリザード)。ランクC。弱点:光源への過敏反応。行動:睡眠中。
Cランク。低層の岩蜥蜴の上位種だ。「鉄の牙」の五人なら問題なく倒せる相手だが、カイ一人では戦闘など論外だった。唯一の光明は「睡眠中」の二文字。カイは松明の火を外套で覆い、最小限の光だけを足元に落としながら、影蜥蜴の反対側の壁際を這うように通過した。心臓が肋骨を内側から叩いていた。罅の入った骨がその振動で軋み、痛みが鋭く走る。それでも足を止めれば死ぬ。
影蜥蜴の横を通り過ぎるのに要した時間は、体感では一時間にも感じられた。実際には五分程度だったかもしれない。壁際を抜け、再び狭い通路に入ったところでカイは背中を壁に預け、荒い呼吸を整えた。全身が汗で濡れていた。冷たい空気が汗を冷やし、体温を容赦なく奪っていく。
その後も二度、鑑定が生体反応を捉えた。一度目は天井に張り付いた蝙蝠型の魔物の群れ。鑑定はランクDと表示し、「音に反応する」と付け加えた。カイは靴を脱ぎ、裸足で岩盤の上を歩いた。足裏の皮膚が冷たい石に張り付くような感覚。一歩。また一歩。呼吸すら浅くして、影のように通り抜けた。
二度目は通路の分岐点に陣取った甲殻の節足動物だった。ランクCの表示と共に「縄張り意識が強い。近づかなければ攻撃しない」という情報が浮かんだ。カイは分岐のもう一方——鑑定の矢印が微かに示す方角の道を選び、大きく迂回した。
ランクEの鑑定は、戦うための道具としてはほとんど役に立たない。だが、「避ける」ための道具としてなら——三年間で積み上げた精度は、カイの命を細い糸のように繋いでいた。
一本目の松明が燃え尽きた。
二本目に火を移しながら、カイは通路の壁に目をやった。そして、足を止めた。
壁面に、何かが刻まれていた。
自然の岩肌とは明らかに異なる、滑らかな曲線。渦を巻くような紋様が壁の一面に広がり、その溝の中で淡い光が明滅していた。青白い、冷たい燐光。松明がなくても視認できるほどの輝きが、壁面を脈打つように流れている。
鑑定を起動した。
文字が殺到した。
——紋章種別:不明。系統:不明。年代:推定不明。素材組成:不明。機能:不明。関連情報:不明、不明、不明——
カイは思わず目を閉じた。視界を埋め尽くす文字列が、脳の奥を直接引っ掻くような痛みを伴っていた。これまでの鑑定とは根本的に違う。情報が「ない」のではなく、情報が「多すぎる」。ランクEの処理能力では受け止めきれない量のデータが、壁の紋章から一気に流れ込んでこようとしている。
目を開け、対象を壁全体から紋章の一部——渦巻きの末端の一本線だけに絞り込んだ。
——発光紋章。起源:古い。用途:道標の可能性あり。
「道標」
声に出した。反響が通路を走り、すぐに消えた。道標ということは、これを刻んだ誰かがいたということだ。この深さに。人間か、それ以外の知性体かはわからない。だが意図を持ってこの紋章を刻み、光らせている存在が、かつてここにいた。
歩を進めるごとに紋章は増えた。壁の片側だけだったものが両側に広がり、天井にまで及び始めた。青白い光が通路全体を照らし、松明の橙色と混ざり合って奇妙な色彩の空間を作り出していた。空気の質もまた変わった。冷たさは同じだが、重さが消えた。代わりに、微かな振動が岩盤を伝って足裏に届いていた。規則的な拍動。この場所自体が、生きているかのような。
鑑定が悲鳴を上げていた。
起動するたびに、処理しきれない情報の奔流が視界を白く灼いた。紋章の一つ一つが膨大なデータを内包していて、ランクEの鑑定では表層の断片すら掬いきれない。頭の奥が脈打ち、鼻の奥に鉄の味が滲んだ。それでもカイは鑑定を止めなかった。止めれば闇の中で目を閉じるのと同じだ。見えないものを見ようとすることだけが、三年間の自分を支えてきた唯一のものだった。
通路が緩やかに下り、曲がり、再び広がった。
そして、風が変わった。
前方から流れてくる空気に、温もりがあった。この深さで、この冷たい岩の底で、何かが熱を発している。紋章の光が強くなり、通路の先を青白く染め上げていた。その光の中に、別の色が混じっていることにカイは気づいた。
銀色だ。
紋章の青でも松明の橙でもない、月光のような冷たい銀。それが通路の奥から、微かに、揺れていた。
鑑定が最後の力を振り絞るように、たった一行だけを表示した。
——生体反応。距離:近い。感情:——
文字が震え、滲み、崩れかけた。だがカイの目は、消える直前の一語を確かに捉えた。
——飢えている。
松明の火が風に煽られ、大きく揺れた。その先に続く通路は円形の広がりを見せ始めていた。床面の紋章が渦を描いて一点に収束している。その中心に向かって、カイは一歩を踏み出した。