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守護者の図鑑

第2話 第2話

第2話

第2話

中層への降下路は、低層とはまるで別の顔をしていた。

足元の石段は一段ごとに幅が狭まり、壁面を覆う苔は黒ずんだ紫に変わっていた。空気の質が違う。低層の湿った冷気ではなく、重く、粘りつくような圧が肌を覆う。松明の炎が妙に揺れた。風ではない。空気そのものが脈動している。

合同討伐隊は三パーティ、総勢十四名。「鉄の牙」のほかにBランクの「蒼穹の槍」とCランク上位の「黒鉄旅団」が参加していた。「蒼穹の槍」のリーダーであるドレクが全体の指揮を執り、隊列の先頭を歩いている。重厚な板金鎧が松明の光を鈍く弾くたび、周囲の冒険者たちの表情がわずかに緩んだ。Bランクの存在感は、それだけで隊の士気を支えていた。

カイは隊列の最後尾を歩いていた。いつもと同じ場所。ただし今日の背負子はいつもより軽い。中層では素材回収の余裕はなく、最低限の回復薬と予備の松明だけが積まれていた。その代わり、体には革鎧すら纏っていない。布の外套一枚。囮に重い装備は要らないというヴェルトの判断だった。

「カイ、聞こえてるか」

耳元の通信石がヴェルトの声を拾った。小型の魔石を耳朶の裏に貼りつけるだけの簡易通信具。有効距離は短いが、ダンジョン内での連携には欠かせない。

「聞こえています」

「ボス部屋に入ったら右翼に回れ。蒼穹が正面を押さえてる間に、お前は右から動き回ってヘイトを散らせ。死角に入るな。見えてなきゃ意味がない」

見えていなければ意味がない。つまり、ボスの視界に常に身を晒せということだ。

「了解」

「鑑定で何か見えたらすぐ報告しろ。使えるもんは使う」

それだけ言って通信が切れた。カイは隊列の前方を見た。ガルドの広い背中が薄闇に揺れている。マーレンは槍を肩に担ぎ、レナは杖を胸の前に抱えていた。三人とも一度も振り返らなかった。

中層第三区画を抜けた先に、ボス部屋の入り口があった。

高さ五メートルはある石扉。表面には幾何学的な紋様が彫り込まれ、その溝に沿って赤黒い光が脈打っていた。扉の隙間から漏れる空気は熱く、硫黄に似た刺激臭が鼻腔を焼いた。

ドレクが片手を挙げ、全隊を停止させた。

「各パーティ、最終確認。蒼穹が正面、黒鉄が左翼の脚を狙う。鉄の牙は右翼でヘイト分散と側面攪乱。無理はするな。死人が出たら報酬の意味がない」

その声に頷く冒険者たちの中で、カイは静かに鑑定を起動した。

扉の向こうに意識を向ける。文字列がぼんやりと浮かび——すぐに散った。名前の断片すら残らない。ただ、質量のようなものだけが鑑定の端に引っかかった。巨大な何かがいる。呼吸している。空気の振動がそれを伝えている。

石扉が開いた。

内部は天然の鍾乳洞を削り広げたような巨大空間だった。天井は闇に溶けて見えず、床面は不規則に隆起した岩盤が広がっている。そして中央——そこに、いた。

岩甲蟲。体長は八メートルを超えていた。六本の脚は太い石柱のように地面を掴み、全身を覆う灰色の甲殻は乾いた岩肌そのものに見えた。頭部の複眼が松明の光を反射し、無数の赤い点となってこちらを見つめている。低く、地鳴りのような唸りが空洞全体を震わせた。

「散開!」

ドレクの号令と同時に、冒険者たちが左右に走った。カイも右翼へ駆ける。足場の悪い岩盤を跳ぶように渡りながら、ボスの動きを視界に収め続けた。革底の靴が湿った岩を踏むたびに、薄い水膜が弾けて足首を濡らした。

蒼穹の前衛三人がボスの正面に展開し、盾を構えた。魔術師が詠唱を開始する。黒鉄旅団が左翼から脚部を狙い、槍と斧が甲殻の隙間を突き始めた。

ボスが動いた。右前脚が地面を叩く。衝撃波が床を走り、岩盤の破片が弾丸のように飛び散った。蒼穹の盾役が衝撃を受け止め、足が石畳を削りながら後退する。

「右翼、動け!」

ヴェルトの指示がカイの耳元で弾けた。カイは岩陰から飛び出し、松明を掲げて走った。光と動きでボスの注意を引く。それが囮の仕事だ。

複眼の赤い光がカイを捉えた。

巨大な頭部がゆっくりと旋回する。その一瞬、正面への圧力が緩み、蒼穹の前衛が甲殻の継ぎ目に剣を突き立てた。黄色い体液が噴き出し、ボスが悲鳴のような軋み音を上げた。

機能している。自分が動くことで、他の攻撃が通る。その実感がカイの足をさらに速くした。

だが岩甲蟲の反応は想定より早かった。

頭部の旋回と同時に、尾節が右翼に向かって薙ぎ払われた。灰色の塊が空気を裂く音が聞こえた瞬間には、もう避けられる距離ではなかった。カイは咄嗟に身を伏せた。尾節が頭上を通過し、背後の岩柱を粉砕した。破片がカイの背中を叩き、息が詰まった。

立ち上がろうとした足が、滑った。

岩盤の表面を覆う薄い水膜。それが砕けた岩の粉塵と混ざり、ぬかるみのようになっていた。カイの体が横に崩れ、そのまま岩盤の傾斜を滑り落ちた。

「——っ」

必死に手を伸ばし、岩の突起を掴もうとした。指先が岩肌を引っ掻いたが、濡れた石は何の摩擦も返してくれなかった。体が回転しながら落ち、背中から岩壁にぶつかった。衝撃で視界が白く弾けた。

どこだ。

薄れゆく意識の中でカイが見たのは、頭上で繰り広げられる戦闘の光だった。魔術の閃光、金属の火花、そしてボスの咆哮。それらが急速に遠ざかっていく。自分は——落ちている。ボス部屋の床面は平坦ではなかった。右翼の端に、隠れた亀裂があった。

体が斜面を滑り続け、最後に硬い地面に叩きつけられた。

痛みが全身を貫いた。しばらく動けなかった。仰向けに倒れたまま、荒い呼吸を繰り返す。天井は遠い闇しか見えない。ボス部屋の光はもう届かなかった。空気が冷たい。低層よりさらに冷たい。骨が軋む痛みの奥に、肋骨が何本か罅が入っている感触があった。

通信石に手を当てた。

「……ヴェルト。落ちました。ボス部屋の右翼に亀裂があって——」

雑音。途切れ途切れの音声。そして、ヴェルトの声が返ってきた。

「聞こえてる。だが今それどころじゃない。ボスが暴れてる。黒鉄から負傷者が二人出た」

「場所を伝えます。回収に——」

「無理だ」

短い沈黙があった。戦闘の音が通信石越しに響いている。金属が砕ける音。誰かの悲鳴。ドレクの怒号。

「撤退命令が出た。蒼穹が殿を務める。俺たちも退く」

「待ってください。俺はまだ——」

「カイ」

ヴェルトの声は静かだった。戦闘の喧騒の中で、不自然なほど落ち着いていた。

「正直に言う。お前を回収しに行く余裕はない。亀裂の場所も正確にはわからない。ボスが暴れてる中で捜索なんかやったら、こっちにも死人が出る」

通信石の向こうで、ガルドの声がした。「置いていけ。あいつ一人のために全滅するつもりか」。マーレンの返答は聞こえなかった。レナの声も。

「……すまないとは言わない。お前を連れて帰る価値と、四人の命を天秤にかけた。それだけだ」

通信が切れた。

カイは天井の闇を見つめたまま、しばらく動かなかった。驚きはなかった。怒りも、不思議と薄かった。ヴェルトの判断は合理的だ。戦闘中にボス部屋の亀裂を探り、落下した先の空洞から人間一人を引き上げる——それを囮の荷物持ち一人のためにやる指揮官はいない。三年間の扱いの延長線上に、この結末は最初から置かれていた。見えていなかった自分が悪いのか。見ないようにしていた自分が愚かだったのか。

頭上で轟音が鳴った。

岩盤が震え、天井から礫が降り注いだ。カイは腕で頭を覆い、体を丸めた。落石は数秒で止まったが、その後に聞こえたのは、大量の岩が噛み合うような重い音だった。

亀裂が、塞がっていた。

見上げると、かすかに覗いていたボス部屋の光はもう完全に消えていた。退路が物理的に断たれた。ボスの暴れた衝撃か、あるいは元々脆かった地盤が戦闘の振動で崩壊したのか。どちらにしても、もう上には戻れない。

暗闇の中で、カイはゆっくりと体を起こした。肋骨が軋み、左腕に鈍い痛みが走った。だが動ける。立てる。背負子は——まだ背中にあった。紐が食い込んでいた肩の感覚が、妙に懐かしかった。

右手を壁に当てた。冷たく、ざらついた岩肌。ここはもう中層ですらないかもしれない。

鑑定を起動した。

壁の岩質、空気の温度、暗闇の中の何か——情報を求めて意識を広げる。いつも通りの、ぼやけた文字列が浮かぶはずだった。

違った。

視界の隅で、見たことのない反応が走った。鑑定文字ではない。方角を示す矢印のような光の残像が、一瞬だけ下方を指して消えた。再び起動する。また光った。同じ方向。下。もっと深い場所。

ランクEの鑑定では、距離のある対象を感知したことなど一度もなかった。にもかかわらず、鑑定が何かを捉えている。名前も種族も属性も表示されない。ただ、「そこに在る」という微かな引力だけが、砕けた岩と冷たい空気の向こうから伝わっていた。

カイは闇の底を見下ろした。松明はとうに消えていた。残っているのは予備が二本。背負子の中の回復薬が三つと、携帯食が二日分。

それだけを持って、下へ降りるしかなかった。

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