第1話
第1話
三年間、カイの背中には常に他人の荷物があった。
革鎧の擦れる音、金属同士がぶつかる鈍い響き。肩に食い込む背負子の紐は、もう皮膚の一部のようになっている。紐の下の肌は常に赤黒く変色していて、風呂に入るたびに沁みた。それすらも、もう慣れた痛みだ。Cランクパーティ「鉄の牙」の五人が歩く隊列の中で、カイの定位置は決まって最後尾だった。前を行く四人の装備と予備の回復薬、携帯食、松明の替え——すべてがカイの背に積まれている。荷の総重量は体重の半分を優に超える。それでも足を止めれば置いていかれる。三年間、一度も止めなかった。
「おい、カイ。松明」
前衛のガルドが振り返りもせず手を突き出した。カイは背負子の横紐を解き、新しい松明を抜き取って手渡す。慣れた動作だった。三年もやれば、誰が何を、いつ求めるか、考えるまでもなく体が動く。
「遅ぇよ」
聞こえるか聞こえないかの声でガルドが吐き捨てた。カイは何も言わなかった。言ったところで変わるものは何もない。言い返せば不機嫌になるのはガルドだけではなく、パーティ全体の空気が重くなる。それを三年前の最初の月に学んだ。
低層第四区画。苔むした石壁が続く通路には、微かに水の流れる音が反響している。天井から垂れる鍾乳石の隙間を、発光する小さな蟲が這い回っていた。薄青い光が壁を不規則に照らし、影が生き物のようにゆらめく。湿った空気が肺の奥まで染みこんでくるような場所だ。足元の石畳はぬめりを帯びていて、革底の靴が一歩ごとに微かな水音を立てた。指先はかじかみ、吐く息だけがほんの少し白い。カイにとっては、もう見飽きた景色でもある。
「鑑定」
小さく呟く。視界の端に淡い文字列が浮かび上がった。
——岩蜥蜴(ロックリザード)。Dランク。弱点:腹部の軟甲。
ぼんやりとした輪郭の情報。文字の縁は滲んでいて、集中しなければすぐに霞んで消えてしまう。もっと上位の鑑定士なら、体力の残量も行動パターンも一瞬で読み取れるという。だがランクEの鑑定では、名前と弱点がかろうじて浮かぶ程度だ。しかもこの岩蜥蜴の情報など、冒険者なら誰でも知っている常識に過ぎない。
「右の壁際に二体。奥にもう一体います」
カイが声を上げると、リーダーのヴェルトが片手を挙げて隊列を止めた。
「数だけか。他には」
「……以上です」
「使えねぇな」
ヴェルトは舌打ちし、前衛二人に手信号を送った。ガルドと副前衛のマーレンが左右に散開し、岩蜥蜴を挟撃する態勢に入る。後衛の魔術師レナが短い詠唱を始め、支援術式を二人にかけた。
四人の連携は正確だった。ガルドの大剣が一体目の腹を裂き、マーレンの槍が二体目を壁に縫い止め、レナの火矢が奥の一体を焼き払う。十数秒で終わる戦闘だった。カイは最後尾で背負子を下ろし、素材回収用の袋を広げる。魔石を抉り出し、使える鱗を剥がし、袋に詰める。岩蜥蜴の血は独特の鉄臭さがあって、何度嗅いでも慣れなかった。指の爪の間に入り込んだ血は、安宿に帰っても半日は落ちない。それがカイの仕事だった。
戦闘要員ではない。斥候でもない。名前だけの「鑑定士」。実態は荷物持ちと、いざというときの囮。
初めてパーティに入れてもらったとき、ヴェルトはこう言った。「鑑定持ちなら最低限の使い道はある」。あの言葉が嘘ではなく本心だったと気づくのに、そう長くはかからなかった。カイは確かに「最低限」だけの存在として扱われている。報酬の取り分は全体の八分の一。それでも他に受け入れてくれるパーティはなかった。
ランクEの鑑定。戦闘スキルは皆無。身体強化の適性もない。ギルドの適性検査で「冒険者としての総合適性:最低」と判定された日のことを、カイは今でも覚えている。検査官が気まずそうに目を逸らした横顔まで。判定結果の羊皮紙を受け取る手が震えていたことも、ギルドの廊下で壁に額を押し当てて立ち尽くしたことも、全部覚えている。
それでも辞めなかった。
毎晩、安宿の薄い寝台の上で、カイは鑑定を繰り返し使った。壁の染み、天井の木目、自分の手のひら——対象は何でもいい。鑑定は使えば使うほど、ほんの僅かずつだが精度が上がる。三年かけてEランクの中で下位から上位に這い上がった程度の進歩。誰にも気づかれない成長。だがカイだけは知っていた。昨日より今日、今日より明日、見える情報が一行でも増えている。
冒険者である自分を、まだ諦めたくなかった。ただ、それだけだ。
低層を一巡して地上に戻ると、ギルドのロビーは普段と違う空気に包まれていた。掲示板の前に人だかりができている。冒険者たちの声がいくつも重なり合い、興奮と緊張が入り混じった熱気がロビー全体を満たしていた。カイは素材を受付に納品しながら、壁に貼り出された大判の羊皮紙に目をやった。
——中層ボス討伐遠征。参加パーティ募集。報酬:通常の五倍。
中層ボス。低層の魔物とは文字通り桁が違う存在だ。Cランクパーティ単独では推奨されず、通常は複数パーティの合同作戦が組まれる。
「ヴェルト、見たか。中層ボスだとよ」
ガルドの声が背後から聞こえた。
「ああ。報酬五倍、か」
ヴェルトの声には、隠しきれない欲が滲んでいた。「鉄の牙」はCランクに上がって半年。実績を積めばBランクへの道が開ける。中層ボス戦への参加は、その実績として最も手っ取り早い。
「俺たちだけじゃきついが、合同なら頭数の一つにはなれるだろう」
マーレンが腕を組んで言った。レナも小さく頷いている。
ヴェルトの視線がカイに向いた。値踏みするような、冷たい目だった。まるで荷物の重さを量るときと同じ目。カイはその視線に慣れていた。慣れてはいたが、胃の底が僅かに冷たくなるのは毎回同じだった。
「カイ。お前も出ろ」
意外だった。中層ボス戦に荷物持ちを連れて行く理由はない。荷物は低層用の装備だし、中層では素材回収どころではないはずだ。
「……俺が行って何を」
「囮だ」
ヴェルトは事もなげに言った。
「合同作戦ってのは要するに参加者の数がものを言う。ボスのヘイトを分散させる頭数が一つでも多い方が、前衛は動きやすくなる。お前は俺の指示で動いてボスの注意を引け。鑑定で動きを読めるなら、死にはしねぇだろ」
死にはしない。ヴェルトは確かにそう言った。だが声の調子は、確信ではなく推測だった。死ぬかもしれないが構わない——その含みを、カイは聞き取っていた。周りの冒険者たちの喧騒が急に遠くなり、自分の心臓の鼓動だけが耳の奥で鳴っていた。
「取り分は」
「いつも通りだ。八分の一。嫌なら別に——」
「行きます」
カイは自分の声が思ったより平坦であることに気づいた。怒りでも諦めでもない。ただ、ここで退いたら三年間の意味が消える、という確信だけがあった。囮であれ何であれ、中層に足を踏み入れる機会は、カイの立場では二度と巡ってこないかもしれない。
ヴェルトが小さく鼻を鳴らし、参加届に「鉄の牙」の判を押すために受付へ向かった。
ガルドがカイの脇を通り過ぎざまに、低い声で言った。
「囮ってのは、一番最初に死ぬ役だぞ」
カイは答えなかった。代わりに、掲示板に貼られた中層ボスの略図を見つめた。鑑定を起動する。
——中層ボス・岩甲蟲(リトスビートル)。ランクB上位。弱点:——
文字が霞んで消えた。ランクEでは、中層ボスの情報は名前すら完全に表示されない。視界に浮かんだ文字列はほんの一瞬で崩れ、砂のように散った。まるで、お前にはまだ早いと突き返されたかのようだった。
だが、カイの目は略図から離れなかった。粗い筆致で描かれた甲殻の輪郭、六本の脚の関節位置、推定される体長。鑑定が読み取れないなら、目で見て、頭で覚えればいい。今のカイにできることは、それしかない。
カイは静かに目を閉じた。暗闇の中で、三年分の記憶が過ぎった。背負子の重さ、嘲笑の声、ぼやけた鑑定文字。そのすべてを、明日の自分は背負ったままダンジョンの奥へ降りていく。
拳を握りしめると、掌に残った岩蜥蜴の血の感触がぬるりと指の間を滑った。松明の煤の匂いが、まだ指先にこびりついていた。