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共振破壊のガラス細工

第1話 第1話

第1話

第1話

放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が変わった。

 正確には、変わったのは俺の周囲だけだ。

「おい、ガラス細工。今日も訓練場のすみっこで水遊びか?」

 席を立った俺の背中に、笑い混じりの声が刺さる。振り向かなくても誰かはわかる。声の主は隣の列の三好。Cランクの発火能力者で、指を鳴らすだけで小さな炎を灯せる。たかがCランクのくせに、Eランクの俺には随分と偉そうだ。

「水遊びじゃない。振動制御の訓練だ」

「振動? ああ、コップの水をちょっと揺らすやつな。赤ん坊がテーブル叩いても同じことできるぞ」

 周囲で笑いが起きる。三好の取り巻きが机を叩いて囃し立て、後ろの席の女子まで口元を手で隠して肩を揺らしていた。教室中の視線が俺に集まるあの感覚——背中がじりじりと焼けるような熱さ。俺は鞄を肩にかけ、何も言わずに教室を出た。言い返す言葉がないわけじゃない。ただ、Eランクが何を言っても笑いの燃料にしかならないことを、入学から半年で嫌というほど学んだ。

 廊下の窓から中庭が見える。Bランクの風圧使いが空中に落ち葉の渦を作り、取り巻きが歓声を上げている。風に巻き上げられた枯れ葉が陽光を受けて金色に輝き、まるで計算された演出のようだった。その向こうでは、Aランクの力場操作者が片手で校庭のベンチを浮かせて見せていた。ベンチは空中で静かに回転し、座面に置かれたペットボトルが一滴もこぼれていない。歓声と拍手。まるでサーカスの客席みたいだ。能力は生まれつきの才能で、ランクは十五歳の適性検査で決まる。S、A、B、C、D、E。アルファベットの序列がそのまま学校のカーストになる社会。

 俺、御堂瑛人のランクはE。最底辺。

 能力名は「微弱振動」。対象物にごくわずかな振動を与える、それだけ。測定値は全国の能力者データベースでワースト百に入る。「ガラス細工」というあだ名は入学初日についた。ガラスのコップすら割れない振動しか出せない、という意味だ。教師ですら適性検査の結果を読み上げるとき、一瞬言葉に詰まった。その沈黙が、Eランクという烙印よりもずっと重かった。

 正門を通り過ぎるとき、黒いバンが校舎裏に停まっているのが見えた。車体に紋章はないが、降りてきた作業着の男たちが手際よく中庭の陥没を埋めている。昼休みにAランク同士がふざけて力場をぶつけ合い、地面をえぐった跡だ。処理班。能力者が壊したものを、能力を持たない人間が黙って直す。ニュースには映らない、この世界の裏側。作業着の男の一人が額の汗を袖で拭い、陥没の深さを見て小さく舌打ちした。彼らの顔には怒りも諦めもなく、ただ慣れた疲労だけが張りついていた。

 俺はいつもそっち側を見てしまう。

 第七訓練場。校舎の端にある、ほとんど使われていない小さな部屋。正規の訓練場は予約制で、上位ランクが優先だから、Eランクの俺に回ってくる枠はない。ここは備品庫を改装しただけの非公認スペースで、壁は防音処理すらされていない。蛍光灯は二本のうち一本が切れていて、薄暗い室内には埃っぽい空気が淀んでいる。窓の隙間から入る風が、積み上げられた古いマットの匂いを運んでくる。体育倉庫の匂いだ。華やかな訓練場とは対極の、忘れ去られた空間。

 棚からプラスチックのコップを取り出し、水道で水を注ぐ。蛇口をひねると配管がごとごとと唸り、冷たい水が不規則に跳ねた。コップを机の上に置いて、正面に座った。

 右手をかざす。意識を指先に集中し、振動を送る。

 水面がわずかに揺れた。さざ波にもならない、かすかな震え。蛍光灯の明かりが水面に映り込み、その反射すらほとんど歪まない。それくらい微弱な振動だ。

 もう一度。今度はもう少し強く。

 水面の揺れが大きくなる——が、コップ自体がカタカタと音を立て始めた。振動が拡散している。対象を絞れない。いつものことだ。水を揺らしたいだけなのに、机も、コップも、自分の指先まで一緒に揺れてしまう。刃物で何かを切ろうとして、刃ごと手が震えているようなものだ。

「……くそ」

 手を下ろし、額の汗を拭う。一時間やって、成果はゼロに等しい。水面だけを揺らす。たったそれだけのことが、半年経っても満足にできない。指先にはまだ振動の残響が痺れのように残っていて、それが自分の無力さを静かに主張していた。

 ポケットから古びた写真を取り出す。母さんが笑っている。俺が五歳のとき、能力の兆候が出始めた頃の写真。振動で食器棚のグラスを全部鳴らしてしまって泣いた俺を、母さんは叱らなかった。写真の端は折れて色褪せているけれど、母さんの目元の笑い皺だけは妙にはっきり残っている。

『弱い能力なんてない。使い方を知らないだけだよ』

 七年前に病気で逝った母の言葉。遺品はこの写真と、その一言だけだ。

 父は能力を持たない一般人で、俺の訓練には関心がない。「普通に生きろ」が口癖だ。普通に生きる。Eランクにとって、それは能力者社会の最底辺で嘲笑に耐えて生きるという意味だ。朝起きて、教室で笑われて、放課後に誰もいない訓練場でコップの水を揺らして、何も変わらないまま眠る。その繰り返しを「普通」と呼ぶなら、俺はその普通をもう半年続けている。

 ……でも、母さんは「使い方」と言った。

 もう一度コップに向き合う。今度は力を抑えて、振動の周波数だけを意識する。水の分子に届くような、細い細い波。目を閉じて、呼吸を止めた。指先の感覚だけに世界を絞り込む。コップの輪郭が消え、机の感触が消え、蛍光灯の微かな唸りさえ遠のいていく。残ったのは、水という存在のかたち——冷たく、柔らかく、ほんのわずかに揺れたがっている何か。

 水面がほんの一瞬、同心円状の紋様を描いた。今までにない、整った波形。波紋は水面の中心から外縁へ均等に広がり、コップの内壁にぶつかって静かに消えた。机は揺れていない。コップも鳴っていない。水だけが、水だけが応えた。

「……今の、なんだ?」

 再現しようと手をかざすが、指先はもう震えている。集中力の限界。こめかみの奥がずきりと痛み、視界の端が白く飛んだ。一瞬の手応えは、掴みかけた糸のように消えた。

 訓練場を出ると、空はもう赤く染まっていた。西日が校舎の窓ガラスに反射して、廊下を琥珀色に塗り替えている。校舎に戻る渡り廊下で、掲示板の前に人だかりができているのが目に入る。

 校内ランク戦。学期ごとに行われる公式対戦で、結果はランクの昇降に直結する。上位を目指す者には出世の場。下位にとっては公開処刑。Eランクの俺がエントリーしていること自体、毎回笑いの種になる。

 人混みの隙間から対戦表を覗き込んだ。紙面にはびっしりと名前が並び、ランクごとに色分けされている。Aランクの金、Bの銀、Cの青——そしてEランクの灰色。たった二人しかいない灰色の文字を、俺は自嘲気味に探した。

 一回戦の組み合わせ。俺の名前を探す。あった。御堂瑛人——対戦相手の欄に目を移して、息が止まった。

 鷹城蓮司。Aランク上位。力場操作の天才で、去年のランク戦は全試合を三十秒以内に終わらせた男。学年最強の一角。

「うわ、御堂じゃん。鷹城と当たってんの?」

「終わったな。つーか始まる前から終わってる」

「救護班、先に呼んどいた方がよくない?」

 周囲の声が遠くなる。掲示板の文字だけが視界に焼きついている。金色に輝く「鷹城蓮司」の名前と、その隣で息を潜めるように小さく印字された灰色の「御堂瑛人」。格差が、色の違いとしてそのまま突きつけられている。

 鷹城蓮司。

 昼休みに片手でベンチを浮かせていた、あの男だ。

 足が震えている。恐怖じゃない——いや、恐怖だ。正直に認めろ。Eランクの微弱振動が、Aランクの力場操作に勝てる道理なんかない。誰もがそう思っている。俺自身もわかっている。力場操作は対象を空間ごと掴む能力だ。俺の振動なんか、握りつぶされるまでもなく無視される。数値の差は五十倍以上。それは努力でどうにかなる差じゃない——少なくとも、常識の範囲では。

 それでも。

 写真の中の母さんの笑顔がよぎる。使い方を知らないだけ。

 さっき訓練場で一瞬だけ見えた、あの整った同心円の波紋。あれが何だったのか、まだわからない。わからないけれど、あの一瞬に、今まで感じたことのない手応えがあった。振動が水だけに届いた、あの感触。対象を選んで、そこにだけ力を届かせる——もしあれを自在にできたら。

 俺は掲示板から目を離さなかった。

「——受けて立つよ」

 誰に言うでもなく、呟いた言葉は夕暮れの喧騒に消えた。だが胸の奥で、名前のない何かが小さく、確かに震えていた。

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