第3話
第3話「5つの祠の一筆書き」
クエストログの座標を確認する。5つの祠。マップ上にピンを立てると、ほぼEGOの世界地図を一筆書きでなぞるようなルートになった。
最寄りは《灰燼の渓谷》。レベル40帯のフィールドで、今の俺には経験値的な旨味は皆無だ。次が《翡翠湿原》、《凍牙山脈》、《黄昏の回廊》、最後が《星喰いの地底湖》。全て中〜高レベル帯のフィールドだが、エンドコンテンツには程遠い。普通のプレイヤーがレベリングの過程で通過して、二度と戻らない場所ばかりだ。
俺は全部知っている。地形も、モブの配置も、隠し通路も。14,000時間の記憶が、脳内にミニマップを描き出す。
——だが、祠なんてオブジェクトは一度も見たことがない。
深夜4時。移動を開始する。《灰燼の渓谷》への最短ルートは、中央街道を北東に抜けて峠を越えるコース。転移結晶を使えば一瞬だが、クエストログに注意書きがあった。
『※転移結晶・ワープポイントの使用不可。徒歩で巡ること』
徒歩。この広大なマップを、歩いて回れと。
「……正気か」
全5箇所を徒歩で回ると、単純な移動だけでリアルタイム3時間以上かかる。道中のモブを処理する時間を入れればさらに伸びる。これを「ソロ専用」で。報酬も不明のまま。
だが、断る選択肢は考えなかった。クエストログの金色の文字が、座標の横に小さく追記している。
『急ぐ必要はない。お前の足で歩け』
妙な指示だった。ゲームのクエストで「急ぐ必要はない」と明示されるのは珍しい。タイムリミットがないことの通知ならもっと無機質な表現になるはずだ。これはまるで——誰かが、俺に語りかけているような口調だった。
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中央街道を北東に歩く。深夜のフィールドには人影がない。月明かりに照らされた石畳が、どこまでも続いている。
足音だけが響く。自分の足音を聞くのは久しぶりだった。普段のソロ狩りでは戦闘音に消されて気にならない。だが今は、戦う相手もいない道をただ歩いている。革靴が石を踏む音。微かな風。遠くでフクロウ系モブの鳴き声。
街道が丘陵地帯に差し掛かったところで、見覚えのある分岐点に出た。右が《灰燼の渓谷》へのルート。左は——
《蒼天の丘》。
レベル30帯のフィールド。特に珍しいものはない、チュートリアルを抜けた初心者が最初に訪れる草原マップ。ここを通る必要はない。クエストの座標は右だ。
だが足が止まったのは、左の道の先に広がる丘の輪郭が、8ヶ月前の記憶と重なったからだ。
《蒼穹の翼》のギルドレイド。初めて参加した週末。集合場所がこの丘だった。40人のプレイヤーが草原に散らばって、雑談しながら準備運動をしていた。俺はその輪の端に立って、黙ってステータス画面を確認していた。
「グレイくん、こっちこっち!」
誰かが手を振っていた。名前はもう思い出せない。弓使いの女性プレイヤーだったと思う。PTメンバーの配置を決めるとき、俺が黙って隅にいるのを見つけて呼んでくれた。
「緊張してる? 大丈夫、まったりギルドだから」
あのとき何と返したか、覚えていない。たぶん「大丈夫です」とだけ言った。会話を広げる方法を知らなかった。知ろうともしなかった。効率的な立ち回りを共有すれば貢献できる。それで十分だと思っていた。
——「お前といても楽しくない」
ソラの声が脳内で再生される。何百回も反芻した言葉。悔しいのは、反論できないことだ。楽しかったか? と聞かれたら、俺自身も答えに詰まる。レイドをクリアする達成感はあった。でもそれは、パズルを解く快感に近い。誰かと一緒にいることの楽しさとは、たぶん違う。
「……」
丘の向こうに目を凝らす。もちろん誰もいない。深夜4時の過疎フィールドに、8ヶ月前の記憶が見せる幻影があるはずもない。
右の道に足を向ける。《灰燼の渓谷》。クエストの座標。今やるべきことはそっちだ。
感傷なんて、ソロプレイヤーの荷物には入っていない。
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《灰燼の渓谷》の最奥部。溶岩流が冷え固まった黒い岩盤の上に、それはあった。
高さ2メートルほどの石造りの祠。表面に刻まれた文様が、石柱と同じ金色の光を放っている。見たことのないデザイン。EGOの既存アセットとは明らかに異なる質感で、岩盤の上に「置かれた」のではなく、最初からそこにあったかのように地面と一体化している。
近づくと、祠の前に人影があった。
NPC。それも見たことのないモデルデータだ。白髪の老人。革のエプロン。腰に下げた鍛冶ハンマー。焼け跡だらけの太い腕が、祠の縁に手を置いている。頭上のネームプレートには——
『老鍛冶師フェルグ <万色の試練・案内役>』
案内役。このクエスト専用のNPCか。
フェルグの前に立つ。NPCの視線がこちらを向いた——瞬間、違和感が走った。EGOのNPCは、プレイヤーが話しかけるまで基本的にアイドルモーションを繰り返す。だがフェルグは、俺が近づいた段階で自発的に顔を上げ、視線を合わせた。目の焦点が合っている。標準NPCの「プレイヤー方向をトラッキングする」処理とは明らかに異なる挙動だ。
「来たか」
声が出た。ボイスデータ——いや、これも通常のNPCボイスとは質が違う。合成音声特有の均一感がない。抑揚が自然すぎる。息遣いまで聞こえる。
フェルグの視線が、俺の腰に下がった剣に移った。《影断ちの太刀》。ソロで周回して素材を集め、自力で強化を重ねたレア武器。攻撃力だけなら全サーバーでもトップクラスの一振り。
「お前、随分と手入れの行き届いた武器を持っているな」
フェルグの声は低く、重い。鍛冶師という設定に説得力のある、炉の熱を知っている声だ。太い指が俺の剣をちらりと示す。
「研ぎは完璧。属性強化の配分にも無駄がない。全クラスの武器適性を理解していなければできない調整だ。……大した腕だ」
褒められている。NPCに。だが不思議と、テンプレ感のあるお世辞には聞こえなかった。フェルグの目が剣の刀身を見つめる視線には、鍛冶師としての観察が宿っている——ように感じてしまう。NPCの芝居にここまでの解像度を持たせるのは、通常の実装コストでは見合わない。
「だが」
フェルグが目を細めた。
「使い込まれた痕がない」
「……何?」
反射的に聞き返していた。使い込まれていないわけがない。14,000時間、この剣で何万体のモブを斬ってきたと思っている。耐久値の修繕履歴だけで画面を埋め尽くせる。
「刃こぼれの話をしているんじゃない」
フェルグが首を振る。
「誰かを守るために振るった傷。仲間の窮地に間に合わせようとして、型を崩した痕。限界を超えて、折れかけてなお振り下ろした——そういう傷のことを言っている」
言葉が出なかった。
フェルグは俺の沈黙を待たずに、祠に向き直った。金色の光がフェルグの横顔を照らしている。老いた鍛冶師の表情は穏やかで、責めるような色はなかった。
「この祠は、お前が歩いた道を覚えている。歩いた距離も、費やした時間も。——だが、誰と歩いたかは、まだ何も刻まれていない」
祠の文様が一段明るく脈動した。クエストログが更新される。
『第一段階:古き祠の巡礼(1/5完了)——残り4箇所の祠を巡れ』
進行は順調だ。だが今、数字の上の進捗よりも、フェルグの言葉のほうが重かった。
「次の祠でまた会おう」
フェルグの姿がゆっくりと透明になり、金色の粒子に分解されて消える。残されたのは祠と、俺と、灰燼の渓谷を渡るぬるい風だけだ。
《影断ちの太刀》を鞘から抜いた。刀身に月明かりが反射する。傷一つない、完璧に手入れされた刃。14,000時間で一度も——誰かのために振るったことのない剣。
鞘に収めて、次の座標に足を向ける。《翡翠湿原》。あと4つ。一人旅はまだ長い。
——だがフェルグの目は、NPCのそれではなかった。あの老人は、俺の何を見ていたのか。次の祠で、何を言うのか。わからないことが増えていく。14,000時間で初めて、このゲームの底が見えなくなっていた。