第1話
第1話「深夜3時のEGO」
深夜3時のフィールドに、俺以外の生き物はモブしかいない。
《Eternal Grail Online》——通称EGO。サービス開始から3年、同時接続数が最も落ち込む時間帯。画面右上のプレイヤーカウンターは4桁を割り込み、チャットログは30分以上沈黙している。
レベル87の影狼が横から飛びかかってくる。左手で剣を引き、踏み込みの角度だけで回避。毛皮が腕を掠める感触——フルダイブの触覚フィードバックが、獣の体温まで伝えてくる。湿った獣臭が鼻腔をくすぐり、唸り声の振動が鼓膜を叩く。振り向きざまに首筋を一閃。刃が肉を断つ手応えが、柄を握る五指に染み渡る。0.4秒。ドロップアイテムの確認すらせず、次の獲物を探す。
累計プレイ時間、14,211時間。
フレンドリスト、0人。
ステータス画面の右下に並ぶ数字を、誰かに見せたことはない。全12クラスのスキルツリーを80%以上解放。ボスモンスター討伐数は公式ランキング圏外——ソロでは討伐カウントに入らない仕様だからだ。この世界のあらゆる仕組みを理解して、あらゆる動きを身体に叩き込んで、それでも俺のプレイヤーネーム「グレイ」を覚えている人間は、たぶんもういない。
影狼の群れが3体同時にポップする。右、左、背後。パターンは記憶済みだ。右の突進を半歩で躱し、左の爪撃を剣の腹で滑らせ、背後のやつには振り返らずに逆手突きを叩き込む。3体同時撃破、1.7秒。
「……」
誰も見ていない完璧なプレイに、虚しさすら感じなくなった。感じなくなったこと自体が、たぶん一番まずい。
暗い森の奥で剣を振るう。風の音と、モブの断末魔と、ドロップアイテムが地面に落ちる小さな効果音。それだけが、この世界に自分がいる証拠だった。
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ギルド《蒼穹の翼》を除名されたのは、8ヶ月前のことだ。
中堅ギルド。メンバー40人。週末のレイドを主軸に、まったりプレイを標榜していた。俺が加入したのは人数合わせ。火力が足りないから来てくれ、と誘われた。
最初はうまくいっていたと思う。俺が敵のパターンを解析して最適な立ち回りを共有すれば、攻略効率は目に見えて上がった。タンクの被弾率を23%下げるポジション取りを図解し、ヒーラーのMP管理表を作り、DPSの攻撃タイミングをフレーム単位で指定した。クリアタイムは毎週縮まった。数字だけ見れば、俺の加入は成功だったはずだ。
「グレイさ、ちょっといい?」
ギルマスのソラに呼び出されたのは、加入から3ヶ月後だった。ギルドホールの隅、他のメンバーには聞こえない距離。暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが、妙に鮮明に聞こえていた。
「最近、何人かから相談が来てて」
「攻略方針の修正案なら、もう次のレイドに——」
「違うんだ」
ソラの声は穏やかだった。穏やかすぎた。
「お前といても楽しくないって、みんな言ってる」
「……楽しくない?」
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。効率は上がった。勝てなかったボスに勝てるようになった。それは良いことのはずだ。楽しくないはずがない——そう思った瞬間、ソラの目が少しだけ逸れた。
「効率は上がった。クリア率も上がった。でもさ、ゲームって効率だけじゃないんだよ。お前と組むと、正解以外が許されない空気になる。失敗すると『なぜ指示通りに動かなかった』って顔をされるのがキツいって」
反論しようとした。俺はそんな顔をしていない、と。だがボイスチャットの沈黙が、俺の言葉を全部飲み込んだ。ソラの背後に見えるギルドホールのテーブル——そこに掛けてあった椅子の数が、最近のレイド参加人数と同じだけ減っていたことに、今さら気づいた。
「除名って形になる。ごめんな」
ごめんな、という言葉が一番痛かった。怒りならまだよかった。お前は間違っていると正面から言われたほうが、ずっとましだった。申し訳なさそうに追い出されるということは、つまり、俺がいないほうが全員幸せだということの証明だ。お前がいると空気が悪くなるんだと——そう面と向かって言い切れないほどの薄い関係だった、ということでもある。
ギルドホールを出るとき、背後でログイン通知が鳴った。誰かが入ってきた気配。振り返らなかった。振り返ったところで、その誰かが俺に声をかけることはない——そう確信できてしまう程度には、自分の立ち位置を理解していた。
あの日からギルドには入っていない。PTも組まない。深夜の過疎フィールドで、誰にも迷惑をかけずに、意味のないレベリングを続けている。現実に帰る理由がないのと同じように、この世界に居続ける理由もない。ただ、ログアウトするとやることが本当に何もなくなるから——その事実から目を逸らすために、剣を振っている。
影狼がまた湧く。右、左、背後。同じパターン。同じ1.7秒。同じ沈黙。
指先に伝わる剣の重み。足裏で感じる地面のテクスチャ。VRフルダイブの感覚フィードバックは、3年で何度もアップデートされて、今では現実との区別がほとんどつかない。風が冷たい。草が揺れる。月明かりの色温度まで再現された美しい夜の森に、俺は一人で立っている。
14,211時間。この数字に意味があるとしたら、それは「この世界以外に居場所がない」ことの証明でしかなかった。
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視界の中央に、システムウィンドウが割り込んだ。
強制表示——全サーバー同時配信のアナウンスだ。こんな深夜に珍しい。
『《Eternal Grail Online》実装3周年記念・大型アップデート「虚神降臨」本日実施完了。最高難度レイドボス《虚神イグノア》を含む新規コンテンツを多数追加。詳細は公式サイトを——』
アナウンスの文面を流し読みする。レイドボス。最高難度。48人レイド推奨。
関係ない。
48人レイドに参加するには、ギルドかアライアンスに所属している必要がある。野良募集が機能するのはせいぜい24人レイドまでで、それすらコミュニケーションコストが高い。ソロプレイヤーには縁のないコンテンツだ。
チャットログが急に動き出す。深夜組の少数精鋭が反応している。
『虚神イグノアきたああああ!』 『48人レイドとかギルド入ってないと無理じゃん』 『銀嶺が初日突入するらしいぞ』 『紅蓮旅団もだって。攻略レース熱いな』
銀嶺。紅蓮旅団。EGOの二大トップギルド。廃プレイヤー集団。俺とは違う——あいつらは廃プレイヤーであると同時に、仲間がいる。
「……関係ないだろ」
誰に言うでもなく呟いて、システムウィンドウを閉じた。
レイドボスが追加されようが、新マップが開放されようが、俺のやることは変わらない。誰もいないフィールドで、誰にも必要とされないまま、剣を振り続ける。それだけだ。
影狼が湧く。右。1体だけ。
斬る。0.3秒。
ドロップアイテムを拾い上げた瞬間、視界の端に妙なものが映った。
森の奥——普段なら木々の影しかない場所に、淡く光る何かがある。3年間、毎晩のようにこのフィールドを周回してきた。14,000時間以上の記憶が、はっきりと告げている。
あれは、昨日まで存在しなかった。
足が動いていた。好奇心なんて枯れたと思っていたのに、身体が勝手に光源へ向かう。枯れ葉を踏む音が、いつもより大きく聞こえた。心臓が少しだけ速く打っている。フルダイブは心拍の変動すら拾うから、自分の動揺が数値として見えてしまう。それが少し腹立たしかった。近づくにつれて輪郭がはっきりする。地面から突き出た石柱。高さは俺の胸ほど。表面に刻まれた文様が脈動するように明滅している。青白い光が周囲の木々の幹を照らし、影を不規則に揺らしていた。
石柱から発せられる光は冷たいのに、近づくほど肌がじわりと熱を感じた。フルダイブの環境フィードバックが、このオブジェクトの周囲だけ異質な温度設定を返している。3年間このゲームを触り続けた経験が、これは通常の実装ではないと警告していた。
14,211時間のうち、こんなオブジェクトは一度も見たことがない。
石柱に刻まれた文様は、既存のどのダンジョンの意匠とも違った。EGOの世界観は北欧神話をベースにしている。だがこの文様は——どこの文化圏のものとも合致しない。新アップデートの一部か。それにしては、こんな低レベル帯のフィールドに配置する意味がわからない。
指先を伸ばす。
触れた瞬間——視界が白く弾けた。