第3話
第3話「左腕が痺れた裂け目」
裂け目を抜けたとき、左腕の感覚はまだ戻っていなかった。
第7層の通常区画に這い出たカイトの耳に、棘尾鼠の甲高い鳴き声が遠くから届いた。壁面の苔が通常の薄緑色に戻り、あの青緑の星空はもう見えない。裂け目の向こう側が別世界だったかのように、冷たい湿った空気が日常の迷宮であることを告げている。
スライムが腕に張りつき、微かな温もりで傷口を包んでいる。治癒と呼べるほどの力はないが、止血くらいの役には立つ。カイトはそのまま壁に背を預け、荒い呼吸を整えた。
図鑑を開いた。
鏡蟲のスケッチは炭筆のまま残っている。あの金色の光は消え、ページの隅に刻まれた『記録率:68%——不完全』の文字だけが、先ほどの出来事が幻ではなかったことを証明していた。
だがそれだけではなかった。
図鑑の最初のページ——三年前に描いたスライムのスケッチが載る表紙裏に、以前は存在しなかった文字列が浮かんでいる。金属を彫り込んだように紙の表面が凹み、光を当てると読める程度の微かな刻印だ。
『モンスター図鑑・真——記録を極めし者に宿る技能。観察・分析・記述の三要素において完全な記録を達成した魔物を、等級を問わず従魔とする』
カイトの指が止まった。
読み返す。三度、四度。文字は変わらない。
等級を問わず。その四文字が、カイトの思考を凍りつかせた。E級テイマーの従魔契約は、自身の等級以下の魔物にしか及ばない。それがテイマーギルドの根幹であり、等級制度そのものを支える原理だった。E級はE級の魔物しか従えず、だからこそスライム一体が限界だった。
この技能はその制約を無視する。完全な記録さえ達成すれば、A級だろうがS級だろうが従魔にできる。
「……待て。待て待て待て」
声が震えた。脳内に刻まれた情報をもう一度整理する。技能の発動条件は三つ。観察——対象の外見・構造・行動を肉眼で確認すること。分析——生態・習性・弱点を推論し検証すること。記述——上記すべてを図鑑に正確に記録すること。三要素が揃い、記録率が百パーセントに達した時点で従魔契約が自動成立する。
あの鏡蟲は六十八パーセント。足りなかったのは腹部関節の内部構造、食性、休眠行動、繁殖形態。跳躍時に一瞬見えた腹部の情報は記録できたが、生態面の観察が圧倒的に不足している。
カイトは天井を見上げた。鍾乳石の隙間から滴が落ち、頬を冷たく濡らした。
完全な記録を取れば、あの鏡の蟲を従魔にできる。E級の自分が、A級以上の魔物を。そんなことが現実に起きたら——テイマーの等級制度そのものが揺らぐ。
同時に、厳然たる事実が突きつけられた。あの鏡蟲はもういない。去った後に再び出会えるかも不明だ。そして仮に再会できたとしても、今の戦力では観察の時間すら確保できない。スライム一体で、A級の蟲型魔物の傍にとどまり続けるなど自殺行為だ。
一度目は運が良かっただけだ。鏡蟲が立ち去ったから生き延びた。次も同じ幸運があるとは限らない。
迷宮から地上に戻ったのは、日が完全に落ちた後だった。ギルドの受付広場は夜間の静けさに包まれ、昼間の喧騒が嘘のように人影はまばらだった。カイトは外套の襟を立て、左腕を庇いながら書庫に向かった。
テイマーギルドの書庫は会員であれば誰でも利用できる。もっとも、利用者の大半は等級試験前の座学目的で、実戦派のテイマーが足を踏み入れることは稀だ。書架の間に埃が積もり、羊皮紙の古い匂いが鼻腔を満たす。
カイトは技能の分類台帳を棚から引き出した。テイマー系技能は大きく五つの系統に分類される。支配系、強化系、共感系、召喚系、そして特殊系。【モンスター図鑑・真】が属するとすれば特殊系だろう。台帳の特殊系の項を開く。
記録されている特殊系技能は十二種。【従魔感応】、【魔獣言語】、【血統鑑定】——どれも聞いたことがある技能ばかりで、図鑑に関連するものは一つもない。当然、【モンスター図鑑・真】の記載もなかった。
念のため、Sランク技能の総覧も確認した。Sランク認定された技能は歴史上四十三種。すべてに発見者と認定年が記されている。カイトは一行ずつ指でなぞりながら読み進めた。支配系の【絶対服従】、強化系の【限界突破】、召喚系の【次元召喚】——壮大な名前が並ぶが、記録や観察に関連する技能は皮無だ。四十三種のどこにも、図鑑を媒介とした従魔契約の技能は見当たらなかった。
記録がない。つまりギルドはこの技能の存在を把握していない。あるいは——把握した上で記録から抹消したか。
カイトは台帳を閉じ、書架の奥に進んだ。歴史文献の棚。迷宮の成立と発展に関する記録が年代順に並んでいる。百年前の迷宮調査報告、二百年前の冒険者ギルド設立趣意書。どれも何度か目を通したことがある資料だったが、今は違う目で読む必要があった。等級制度を超越する技能。それがかつて存在したなら、痕跡がどこかに残っているはずだ。
三時間かけて文献を漁った。何も見つからなかった。
書庫を出ると、受付にはリナがいた。夜番だったらしい。カイトの姿を認めた彼女が、小さく目を見開いた。
「カイトさん、その腕——」
「壁の破片でやった。大したことない」
「大したことなくないです。ちょっと待ってください」
リナが救急箱を持ってきて、カイトの左腕に手際よく包帯を巻いた。消毒液の染みる痛みに顔をしかめながら、カイトは書庫で得た結論を反芻していた。
この技能に関する記録は、少なくともこのギルドには存在しない。公式に認知されていない技能。それが意味するところは二つ。
一つ。純粋に前例がなく、自分が最初の覚醒者である可能性。
二つ。前例はあったが、何らかの理由で記録が消された可能性。
どちらにせよ、結論は同じだった。
「リナ」
「はい?」
「E級テイマーが、仮にA級の魔物を従えたら——ギルドはどう動く?」
リナの手が止まった。包帯を巻く手つきが一瞬だけ硬くなり、すぐに元に戻った。彼女はカイトの目を見ず、包帯の端を留め金で止めながら答えた。
「仮の話としても、穏やかじゃないですね」
「仮の話だ」
「……等級不正が疑われて査問にかけられます。最悪、ギルド追放と従魔の強制解約。それと」
リナは声を落とした。
「上の等級のパーティから、引き抜きか——潰しにかかられます。テイマーの等級って、結局は従魔の戦力で決まるので。均衡を崩す存在は、排除されるんです」
均衡を崩す存在は、排除される。ギルドの受付嬢が口にするには物騒な言葉だったが、そこに嘘はなかった。テイマーの世界は実力主義であると同時に、実力の序列を維持するための政治で動いている。E級が突然A級の従魔を連れて歩けば、C級もB級も黙ってはいない。
「……ありがとう。腕、助かった」
「気をつけてくださいね。最近、第7層に通い詰めてるみたいですけど」
リナの声に滲む心配を背中で受けながら、カイトはギルドを出た。
宿の部屋で、図鑑を机に広げた。
鏡蟲のページ。記録率六十八パーセント。残り三十二パーセントの空白が、金色の刻印で示されている。
秘匿するしかない。この技能のことは誰にも言えない。ギルドに申告すれば査問、最悪は追放。他のテイマーに知られれば利用か排除。どちらに転んでも、図鑑の空白を埋める旅は終わる。
カイトは炭筆を取り、新しいページに書き始めた。鏡蟲の完全記録に必要な観察項目の一覧。食性、休眠サイクル、甲殻の反射特性の詳細測定、腹部関節の内部構造。最低でも三日間の継続観察が要る。その間、あの蟲の傍に留まり続ける方法を考えなければならない。
スライムでは盾にならない。かといって他のテイマーに協力を求めれば、技能の存在が露見する危険がある。単独で、今の装備で、A級魔物の近くに身を置き続ける。常識で考えれば不可能だ。
だが、カイトには観察がある。
五年分の知識がある。魔物の行動パターンを読み、安全な距離と位置を見極める技術がある。鏡蟲の触角の振動パターンはすでに一部記録した。あの蟲が何に反応し、何を無視するのか。そのデータを積み重ねれば、殺されない距離で観察を続ける方法が見つかるかもしれない。
カイトは図鑑を閉じ、窓の外を見た。夜空に星はなく、低い雲が街の灯りを反射して鈍く光っている。明日から、鏡蟲の完全記録を始める。誰にも知られず、誰の力も借りず。
E級テイマーの唯一の武器は、その目だ。
机の上に並んだ銅貨三枚を見つめ、カイトは小さく笑った。明日の食事代にすらならない全財産。だが図鑑の中に、銅貨では測れないものが眠り始めている。
足元でスライムが核を明滅させた。従魔契約の繋がりを通じて、主の静かな決意が伝わったのだろう。不安と、それでも付いていくという微かな覚悟。三年間変わらない、この小さな粘体の忠誠が胸を打つ。
「行くぞ。明日から、あいつの巣に通う」
カイトは松明の残りを数えた。三本。足りない。携帯食料も水も、三日分には遠く及ばない。装備を揃える金もない。ないものだらけだ。いつも通りの、何も持たない図鑑屋の出発。
ただ一つだけ、昨日までと違うものがある。図鑑の表紙裏に刻まれた、誰も知らない技能の名前。それが呪いなのか祝福なのか、今はまだわからない。わかっているのは、空白を埋めた先に道が続いているということだけだ。
カイトは灯りを消し、硬い寝台に横たわった。目を閉じても、鏡面の甲殻が暗闇の中で光を弾く残像が消えなかった。