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最弱図鑑屋の従魔複利

第1話 第1話「膝をつく第3層」

第1話

第1話「膝をつく第3層」

薄暗い迷宮の第3層で、カイトは膝をついていた。

冷たい石床の感触が膝頭に食い込む。空気は重く、肺の奥まで湿気が染み込んでくる。壁を伝う地下水の匂い——鉄錆と苔が混じった、迷宮特有の臭気だ。

目の前にいるのは、体長二十センチほどの灰色スライム。粘質の体表がわずかに震え、核にあたる半透明の球体が鈍い光を放っている。カイトの唯一の従魔——E級テイマーに許された、たった一体の契約魔物だった。

「よし、動くな」

スライムに言ったのではない。自分に言い聞かせた言葉だ。左手で革表紙の図鑑を押さえ、右手の炭筆を走らせる。視線の先には、通路の奥で苔むした壁に張り付いている甲虫型の魔物がいた。全長は人の腕ほど。六本の脚の関節部に発光する体液が滲み、触角が規則的に空気を探っている。

カイトは呼吸を殺した。甲虫の触角が二度振れたら方向転換する。三度なら威嚇。四度連続で振れたときだけ、背中の翅鞘を開く。その瞬間に翅脈の形状を確認しなければ、種の同定ができない。

一度。二度。甲虫が壁を這い、向きを変える。

「……頼むから、もう一回」

七分待った。湿った空気が肌にまとわりつく。天井から落ちる雫の音が、等間隔に通路の奥へ響いていく。松明の炎が揺れるたびに壁の苔が色を変え、甲虫の甲殻に光の筋が走った。足元のスライムが不安げに体を縮め、核の光が明滅する。カイトはそれを片手でそっと押さえた。大丈夫だ、もう少しだけ。従魔契約を通じて伝わる微かな感情——空腹と退屈が入り混じったそれを受け流しながら、視線は甲虫から外さない。

四度目の触角の振動。翅鞘が薄く開いた。カイトの目が捉えた翅脈は三叉分岐型——図鑑に記載済みの洞窟甲虫の亜種だ。ただし、体液の発光色が通常の緑ではなく淡い青を帯びている。

「亜種の体液色変異、食性の違いか環境適応か……要追跡」

炭筆が図鑑の余白を埋めていく。精緻なスケッチ、体長の推定値、行動パターンの観察メモ。誰に頼まれたわけでもない。報酬が出るわけでもない。ただ、空白のページが一枚減る。その事実だけが、カイトの足を迷宮に向かわせ続けていた。

第3層から地上に戻ると、テイマーギルドの受付広場はいつも通りの喧騒に満ちていた。革鎧の冒険者たちが声を張り上げ、討伐報告の列が窓口まで伸びている。壁に並ぶ依頼書には「第10層探索パーティ募集・テイマーB級以上」「第12層素材採取・従魔二体以上必須」といった文字が踊っていた。カイトに応募資格のある依頼は、ひとつもない。

「おう、図鑑屋。今日も浅瀬で虫眺めか?」

声の主は振り返らなくてもわかる。C級テイマーのドルク。牙狼を二体従え、第8層までの護衛任務を主な収入源にしている男だ。特段の悪意があるわけではない。ギルド内でカイトに話しかけること自体が珍しいだけで、その口調には嘲りと、ほんの僅かな困惑が混じっている。なぜこいつはまだ冒険者をやっているのか、という種類の困惑だ。

「第3層の甲虫に発光色の変異個体が出てる。興味があれば情報を売るけど」

「甲虫の色? 誰が金払うんだよ、そんなもんに」

ドルクは笑いながら去っていった。その背後で牙狼の一頭がカイトの方を振り返り、金色の瞳で一瞬だけこちらを見据えた。従魔は主より正直だ。あの狼は笑っていなかった。カイトは肩をすくめ、情報売買の窓口に向かう。受付のリナが、いつもの淡い微笑みで書類を差し出した。

「カイトさん、今日の報告書ですね。……あ、第3層の甲虫亜種のデータ、先週の分と合わせて整理しておきました。第5層のパーティから問い合わせがあったので」

「売れたのか」

「ええ。ただ……」リナが少し言いにくそうに目を伏せた。「買取価格、先方の言い値になっちゃいました。すみません、うちの規定だと観察情報単体の査定基準がなくて」

銅貨三枚。迷宮での半日分の成果としては、路上の物乞いにも劣る額だった。カイトは黙って硬貨を受け取り、ギルドの掲示板の前を通り過ぎる。

木板の端に、見慣れた落書きがあった。誰が書いたかもわからない。いつからあるのかも覚えていない。ただ、消されることもなくそこにあり続けている。

『パーティ募集の際の注意——E級テイマー「カイト」を加入させないこと。経験値配分が減ります』

落書きの横を、A級テイマーのパーティが通り過ぎた。従魔の炎狼が毛並みを揺らし、熱気がカイトの頬をかすめる。彼らの図鑑は真っ白だろう。強い魔物を従え、強い敵を倒し、さらに強い魔物を従える。テイマーとはそういう職業だ。観察して、記録して、それを銅貨に換える仕事ではない。

カイトは宿に戻り、狭い部屋の机に図鑑を広げた。革の表紙は擦り切れ、背表紙の糸は何度も縫い直した跡がある。最初のページに描いたスライムのスケッチは、もう三年前のものだ。

ページをめくる。洞窟鼠、苔蝙蝠、胞子蟲、石喰蜥蜴の幼体。第1層から第5層までの魔物が、生態メモとともに並んでいる。どれも低級の、誰も見向きもしない魔物ばかりだ。しかしカイトの図鑑には、ギルドの公式資料にはない情報が詰まっている。苔蝙蝠の超音波が雨天時に周波数を変えること。胞子蟲の繁殖が月齢と同期していること。石喰蜥蜴の幼体が特定の鉱脈でしか孵化しないこと。

誰も必要としない知識だった。だが、空白のページはまだ大量に残っている。

第6層以降の記録は、極端に少ない。単独のE級テイマーが安全に行動できるのは、せいぜい第5層まで。第6層からは魔物の行動が群体化し、スライム一体を囮にしたところで観察の時間を稼げない。だからカイトの図鑑は、第5層で止まっていた。止まったまま、もう八ヶ月が過ぎている。

指先が、第7層と記されたセクションの最初のページに触れた。完全な白紙。何も描かれていない。何も記録されていない。

羊皮紙の手触りが指の腹に伝わる。新しいページ特有の、まだ炭筆の油を吸っていない乾いた感触。このページに何かを記す日が来るのか。それとも白いまま、自分より長く残るのか。

カイトは知っていた。第7層の東側に、ギルドの公式地図に載っていない区画があることを。第5層の魔物の移動パターンを長期追跡する中で気づいた、気流の不自然な流れ。第7層東壁の向こう側に、未記録の空間が広がっている可能性。その情報をギルドに売ろうとしたことがある。窓口は「E級テイマーの推測に調査予算は出せない」と一蹴した。

机の上に銅貨三枚を並べた。今日の全収入。宿代を引けば、明日の食事すら危うい。

このまま第5層を巡り続けても、図鑑は埋まらない。収入も増えない。冒険者としての未来もない。わかっていた。ずっとわかっていた。わかっていて、それでも迷宮に潜り続けたのは——

カイトは図鑑の白紙のページを見つめた。松明に照らされた羊皮紙が、淡い黄色の光を返す。

空白がある。まだ、埋まっていないページがある。

それだけが理由だった。論理でも打算でもない。空白のページが存在する限り、自分はそこに何かを記さなければならない。その衝動だけが、カイトという人間をこの世界に繋ぎ止めていた。

図鑑を閉じ、立ち上がる。壁に掛けた探索用の外套を手に取り、背嚢の中身を確認した。携帯食料、水筒、予備の炭筆、松明三本。最低限の装備。E級テイマーが第7層に単独で踏み込むための装備としては、致命的に足りない。

それでも、カイトは背嚢を肩に掛けた。

足元でスライムが小さく震えた。従魔契約の繋がりを通じて、主の決意が伝わったのだろう。逃げ出しはしなかった。核の光が一度だけ強く瞬き、それからカイトの足首に寄り添うように体を丸めた。三年間、ずっとそうしてきたように。

「空白がある限り、俺はここにいていい」

誰にも聞こえない声でそう呟き、宿の扉を開けた。明日の朝、第7層の未記録エリアに向かう。帰ってこられる保証はない。だが図鑑の空白は、安全な場所からでは決して埋まらない。

夜風が頬を撫でた。遠く、迷宮の入口がある丘の方角から、微かに地鳴りのような音が聞こえた気がした。地下深くで、まだ誰にも記録されていないものたちが蠢いている。

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