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最終兵器の帰還

第3話 第3話「灰峠の前哨地」

第3話

第3話「灰峠の前哨地」

灰峠の前哨地は、三年前には存在しなかった拠点だった。

転送光が消えると、岩肌を削って作られた小さな集落が目に入る。NPCの数は少なく、プレイヤーの姿はさらに少ない。露店もギルド窓口もない。あるのは最低限の回復施設と、錆びた案内板だけだ。辺境の最前線——というより、誰にも見向きされなくなった行き止まり。

空を見上げる。ここからだと、灰色の境界線がはっきり見えた。

通常エリアとの境目が、まるでテクスチャのバグみたいにくっきり分かれている。青空が途切れて、その向こうは鈍い灰色。雲じゃない。空を構成するデータそのものが書き換えられたような、不自然な断絶。

前哨地にいた数少ないプレイヤー——レンジャー風の装備をした女性が、俺が北東を見ているのに気づいて声をかけてきた。

「そっち行くの? やめときなよ」 「何がいる?」 「わかんない。それが問題なの」

彼女は肩をすくめた。ネームプレートには「ハルカ」。レベルは現行基準でも中堅以上だ。

「あたしも調査で来たクチだけど、中に入った瞬間にモンスターの湧き方が変わる。普通のポップテーブルじゃないっていうか、エリアが勝手にルールを書き換えてる感じ。連合の調査隊は推奨レベル超えの群れに囲まれて壊滅した」 「君は?」 「境界線の手前で引き返した。ソロで入るほど馬鹿じゃない」

目が俺の装備を見て、露骨に曇る。装備スコア千二百の骨董品セット。正気を疑う目だ。

「……それで行く気?」 「情報収集だよ。死んだら戻ってくる」 「死にゲー精神ってやつ? まあ止めないけど、リスポーン地点がここから遠いから気をつけて」

手を振って別れた。ハルカが最後まで呆れた顔をしていたのが、少しだけ可笑しかった。

境界線を越える。

一歩踏み出した瞬間、空気が変わった。比喩じゃない。VRの触覚フィードバックが、明らかに別のパラメータに切り替わっている。温度が下がり、湿度が上がる。肌にまとわりつく重たい空気。視界の彩度も落ちて、草木の緑がくすんだ灰緑色に変わっている。

——侵蝕エリア。

システムメッセージは出なかった。通常、エリアを跨げば名前と推奨レベルが表示される。それがない。運営が管理していないエリア、あるいは管理できなくなったエリア。どちらにしても異常だ。

足元の地面に、紫がかった紋様が脈打っている。テクスチャの上に重ねて描画されたような、不自然なエフェクト。心臓の鼓動みたいに、一定間隔で明滅を繰り返す。

最初の敵が湧いた。

種別不明。水晶窟にいたクリスタルバットとは明らかに違う。黒い靄をまとった四足獣——モンスター名の表示が文字化けしている。レベル表記も「???」。

来た。

獣が跳ぶ。初速が速い。通常のフィールドモンスターの二倍はある。だが——軌道は直線だ。

身体が勝手に動いた。

半歩だけ右にずれる。獣の爪が頬の横を掠めて、着地の隙に片手剣を叩き込む。手応え。だが硬い。型落ち装備の火力では一撃では沈まない。

「——もう一回」

二撃目を背中に入れて、三撃目で仕留める。黒い靄が霧散して、ドロップアイテムが転がる。見たことのないアイコン。名前も文字化けしている。一応拾っておく。

呼吸を整える間もなく、二体目が横から飛び出してきた。今度は虫型。六本脚の節足動物が地面を這って突っ込んでくる。速度は先ほどの獣型より遅いが、攻撃範囲が広い。前脚が弧を描いて薙ぎ払ってくるのを、しゃがんで回避。立ち上がりざまに腹を斬る。

三体目。四体目。種類が全部違う。統一性がない。まるで別々のゲームからモンスターを引っ張ってきて無理やり配置したような、支離滅裂な構成。

それでも——動きのクセは読める。

攻撃前の予備動作。体重移動の方向。発動フレームの長さ。種族が違っても、このゲームのエンジンで動いている以上、物理法則の基本は同じだ。予備動作を見て、当たり判定の外に身体を置く。それだけのことを、三年前と同じ精度で繰り返す。

被弾ゼロ。

火力は足りない。一体倒すのに三年前の三倍は手数がかかる。だが当たらなければ関係ない。時間はかかっても、確実に処理できる。

奥に進むにつれて、地面の紋様が濃くなる。紫から赤紫へ。明滅の間隔も短くなっている。空気がさらに重くなり、視界の端にノイズが走り始めた。VRヘッドセットの不具合かと思ったが、違う。ゲーム内のエフェクトだ。意図的に視覚を阻害する演出。

敵の密度が上がる。五体が同時に襲ってきた。

二体を引きつけて反転、追従してきた一体を斬りながら残りの包囲を崩す。狭い通路に誘い込んで一対一の状況を作り、一体ずつ確実に落としていく。ソロプレイヤーの基本。PTを組まないなら、地形を味方にするしかない。

何体倒したかわからなくなった頃、エリアの空気がまた変わった。

敵が、湧かなくなった。

静寂。紫の紋様は最も濃い赤黒に変わり、明滅が止まって常時発光に変わっている。洞窟でもダンジョンでもないのに、光源が足元の紋様だけになった。空の灰色が黒に近づいて、星も月もない暗闘が広がっている。

最奥部。

開けた空間に出た。円形の、何もない広場。地面の紋様が複雑な幾何学模様を描いて、中心に向かって収束している。

その中心に——立っている。

人型のシルエット。

背丈は俺のアバターと同じくらい。輪郭は黒い靄に覆われていて、顔も体格も判別できない。だがモンスターじゃない。NPCでもない。頭上にネームプレートがない。ステータス表示もなし。何の情報も読み取れない、ただの黒い影。

なのに——存在感が、桁違いだった。

今まで倒してきた文字化けモンスターが雑魚に感じるほどの、圧倒的な「格」。ゲームデータとしての数値じゃなく、そこに立っているだけで空間を歪める質量。

VRの触覚フィードバックが、初めて「恐怖」に近い信号を送ってきた。寒気じゃない。身体が、逃げろと言っている。

俺は剣を構えた。

人型のシルエットが、ゆっくりと首を傾げた。その動作だけで、こいつがモンスターのAIで動いていないとわかった。ポップテーブルに従って湧く敵には、こんなモーションはない。

「——」

何か言ったのか。テキストログには何も表示されない。だが空気が震えた気がした。

一歩、踏み出す。

シルエットは動かない。ただ、こちらを見ている。見ている、と感じる。顔がないのに、視線がある。

戦闘が始まる気配はなかった。ターゲットロックもかからない。攻撃可能な対象として認識されていないのか、それとも——こいつの側が、俺を「敵」と認識していないのか。

間合いを詰めた。十メートル。五メートル。

三メートルまで近づいた時、シルエットの輪郭がわずかに揺らいだ。黒い靄の隙間から、一瞬だけ——何かが覗いた。

文字だ。

靄の中に、文字列が浮かんでいる。高速で明滅するシステムフォント。読み取れない。だが一つだけ、確かに見えた単語がある。

『災厄』。

こいつが「虚無の王」だ。

本体じゃない。実装から四ヶ月、百人規模の連合を三回壊滅させたボスが、こんな辺境の侵蝕エリアの奥に無防備に立っているはずがない。端末。分身。あるいは——投影。

シルエットの靄が膨張した。

反射的に後退する。直後、俺が立っていた場所を黒い波動が薙ぎ払った。地面が抉れる。ダメージ表示はない。攻撃判定がないのか——いや、かすりもしなかっただけだ。当たっていたらどうなっていたかわからない。

「端末体のくせに、えげつないな」

独り言が出る。身体は動く。恐怖は消えていないが、それ以上に——三年ぶりに、全力で回避しなければならない相手と対峙している高揚感が勝っていた。

シルエットが再び動く。今度は靄が腕の形を取り、上段から振り下ろしてくる。重い。見た目の速度以上に、判定が広い。

だが——見えた。

振り下ろしの直前、靄の密度が左肩に集中する。そこが起点だ。起点がわかれば、軌道は推測できる。三年前から変わらない身体の使い方で、最小限の動きで攻撃範囲の外に滑り込む。

三度目の攻撃。横薙ぎ。これも起点を読んで回避。

反撃は入れない。火力が足りない確信があった。こいつに俺の攻撃が通るとは思えない。だから今は情報だけ持ち帰る。攻撃パターン、起点の癖、判定の広さ。全部頭に刻み込む。

四度目——来ない。

シルエットが、動きを止めた。俺をじっと見ている。三回の攻撃を全部避けた俺を、品定めするように。

そして、靄が収縮した。シルエットが薄れていく。消えるのか。いや——。

最後の瞬間、足元のログウィンドウに一行だけテキストが表示された。

システムメッセージではない。チャットでもない。発信者名のない、裸のテキスト。

『──また来い』

背筋が総毛立った。

シルエットが消え、侵蝕エリアの圧迫感が嘘のように薄れていく。紋様の発光が弱まり、空に灰色の明るさが戻る。

剣を握る手が震えていた。恐怖じゃない。これは——。

スクリーンショットを撮ろうとした。だがログを遡っても、あのテキストはどこにも残っていなかった。表示された痕跡すらない。

「……意思がある」

あのボスには、意思がある。パターンで動くAIじゃない。俺の回避を見て、攻撃を止めて、言葉を残して消えた。レンが「パターンが毎回変わる」と言った理由が、少しだけわかった気がした。パターンが変わるんじゃない。こいつは——考えている。

帰還アイテムで前哨地に戻る。ハルカがまだいた。俺の顔を見て目を丸くする。

「生きてんの?」 「ああ」 「何があった?」 「——言っても信じないと思う」

ポケットの中の文字化けアイテムが、微かに脈動している気がした。

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