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崩理の腕――32歳、壊す力で護る

第3話 第3話

第3話

第3話

眠れなかった。

当たり前だ。パイプ椅子と簡易ベッドしかない部屋で、天井の白い照明は消し方が分からず、空調の低い唸りだけが鼓膜を撫でている。薄い毛布は消毒液の匂いがした。横になっても右腕の疼きが断続的に走って、そのたびに路地裏の光景がフラッシュバックした。空洞の顔。四本の腕。触れただけで消えた上半身。瞼を閉じるたびに、あの瞬間の手応えのなさが蘇る。抵抗も、重みも、何もなかった。ただ——なくなった。

時計がないから時間の感覚もない。スマホは圏外のまま画面が暗い。滝沢課長はもう出社しているだろうか。無断欠勤。六年目にして初めてのことだ。始末書で済むのか、それとも——いや、そんな心配をしている場合じゃないことくらい分かっている。

ノックの音がして、ドアが開いた。凛だった。昨夜と同じ黒いコートだが、髪を後ろで結んでいる。少しだけ印象が違って見えた。

「七時です。食事を持ってきました」

トレーに載った白米と味噌汁、焼き鮭、小鉢の切り干し大根。社食というよりは病院食に近い彩りだったが、空っぽの胃が正直に反応して、腹が鳴った。

「……すまない」

「食べてください。このあと移動します」

凛はそれだけ言って、ドアの横に立った。俺が食べるのを待つでもなく、急かすでもなく、壁の一点を見ている。無駄な気遣いのない距離感。昨夜もそうだった。慰めない。けれど放り出しもしない。

味噌汁を一口すすった。出汁の味が沁みて、まだ自分が人間であることを思い出す。箸を持つ右手が微かに震えていたが、凛はそれに気づかないふりをしてくれた。

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連れて行かれたのは、地下四階の広い空間だった。

天井が高い。体育館二つ分はある。壁面には分厚いパネルが幾重にも張り巡らされ、床は灰色の特殊素材で覆われている。ところどころ焦げ跡や抉れた痕があり、ここで何が行われてきたかを物語っていた。空気が乾いていて、鉄錆に似た匂いがかすかに漂っている。

「対蝕禍戦術訓練場。能力の計測もここで行います」

凛の説明を聞きながら、俺はガラス越しに設けられた観測室に目をやった。白衣の研究員が七、八人。端末やモニターに向かっている。その中央に、一人だけ立っている男がいた。

五十代半ばか。銀縁の眼鏡の奥に、温度のない目がある。背は高くないが、存在感が周囲を圧していた。白衣ではなく、黒いスーツ。胸元に鎮守庁の紋章が小さく光っている。

「組織管理局局長、鶴見恭一郎。鎮守庁の実質的な運営責任者です」

凛が声を落とした。階級で呼べと言ったくせに、鶴見の名前を出すときだけ微かに声色が硬くなる。畏怖か、あるいは別の何かがそこに混じっていた。

観測室のスピーカーから、鶴見の声が降ってきた。低く、よく通る声だった。

「佐倉遼太郎さん。昨夜の報告は読みました。まずは状況を理解していただく必要がある」

壁面のモニターが点灯した。映し出されたのは、地図だった。関東全域。無数の赤い点が散らばっている。

「赤い点の一つ一つが、過去一ヶ月に検知された蝕禍の出現ポイントです。関東だけで、月間平均三百件。全国では千二百件を超える」

千二百。路地裏のあの一体で俺の人生がひっくり返ったのに、同じことが日本中で月に千回以上起きている。

「鎮守庁に登録された異能者は、現在四百七十二名。うち実戦配備が可能な隊員は二百名弱。彼らが交代制で二十四時間、蝕禍の検知と殲滅を行っています」

地図の赤い点が明滅する。消えたかと思えば、別の場所に新しい点が灯る。モグラ叩きのような、終わりのない戦い。

「蝕禍は増え続けています。五年前と比較して出現頻度は二・四倍。対して、異能者の数は横ばいだ。薄氷の上に立つ天秤の、どちらに傾くかは明白でしょう」

モニターが切り替わった。次に映ったのは、数字の羅列だった。異能者の能力ランク分布。Dが最多で百四十名。C、B、Aと上がるにつれて急激に減り、Aランクはわずか十一名。Sランクの欄は空白になっている。

「四百七十二人の異能者が命を削って、一般市民七千万人の日常を守っている。それが今のこの国の現実です」

鶴見が眼鏡を直した。ガラス越しに、その目が俺を捉える。

「あなたの異能——仮称『崩理』。昨夜のデータを解析した結果、これまで記録されたどの異能とも出力の桁が違う。正式な計測を行いたい」

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訓練場の中央に立たされた。十メートル先に、人の背丈ほどのコンクリートの塊が据えてある。

「あの標的に、右腕の力をぶつけてください。出力の加減は不要です。全力で」

スピーカーから研究員の声が指示を飛ばす。全力で、と言われても、あの力の出し方すら分かっていない。昨夜はただ——死にたくないという恐怖と、腕の奥から噴き上がった熱に身を任せただけだ。

右腕を見下ろす。何も起きない。いつも通りの、ベンチプレスでタコができた手だ。指を握って、開いて。何度繰り返しても、ただの手だった。

「……やり方が分からない」

正直に言った。格好をつけている余裕がない。

凛が訓練場の隅からこちらに歩み寄った。二メートル手前で止まる。近づきすぎない距離。

「昨夜のことを思い出してください。鉤爪が振り下ろされた瞬間、あなたの腕に何が起きたか」

鉤爪。振り下ろされる腕。死の予感。

——ドクン。

来た。肘の奥で何かが脈打つ。昨夜と同じ熱が、骨の髄を伝って指先に走る。皮膚の下で細胞が沸騰するような圧力。視界の端で凛が半歩下がるのが見えた。

「そのまま、前に」

右腕を標的に向けて突き出した。

黒い光が指先から噴出する。音はなかった。光、というのも正確じゃない。空間そのものが裂けたような、視覚が処理を拒む「何か」が一直線に走った。

コンクリートの塊が消えた。

飛散でも、粉砕でもない。あったものが、なくなった。標的のあった場所に直径二メートルほどの半球状の空間が穿たれ、床が滑らかにえぐれている。消滅した体積の境界面には、焦げ跡すらなかった。

背後の壁に亀裂が走った。標的を貫通した余波が、二十メートル先の訓練場の壁まで到達している。防護パネルの一枚が半ばから折れ、金属がきしむ音が反響した。

観測室が静まり返った。モニターの前で凍りついた研究員たちが、数値を凝視している。誰かがペンを落とした音が、静寂の中でやけに大きく響いた。

沈黙を破ったのは、鶴見だった。

「崩壊半径二・一メートル。有効射程十八メートル以上。構造解析不能——物質の分子結合そのものを消去しているのか」

眼鏡の奥の目が細くなった。温度のなかったその目に、初めて何かの色が灯る。それが興味なのか警戒なのか、ガラス越しでは判別できなかった。

「判定を出してください」

鶴見が研究員に指示する。端末にデータが流し込まれ、数秒後、訓練場のモニターに結果が表示された。

異能評価——危険度S。

Sランクの空白だった欄に、俺の名前が入るということか。膝から力が抜けそうになるのを、歯を食いしばって堪えた。

「佐倉遼太郎。あなたの処遇については、改めて上層部で協議します」

鶴見の声には感情がなかった。人間に対する言葉ではなく、兵器の運用計画を語る口調だった。

凛が俺の横に立った。視線は正面を向いたままだが、その横顔にあった翳りが一段、深くなった気がした。

「凛さん。危険度Sって——」

「鎮守庁の歴史上、該当者はいない」

短く、そう答えた。

モニターの赤い文字が、白い照明の下でじっとこちらを見ていた。訓練場に穿たれた半球状の虚空から、冷たい空気が這い上がってくる。俺が消し飛ばした空間。あの中にあったものは、もうどこにも存在しない。

理を崩す力。それが俺の右腕の正体だと、昨夜凛は言った。

——この力が向く先を間違えたら、消えるのはコンクリートだけじゃ済まない。

鶴見の眼鏡が、観測室の照明を反射して光った。あの目の奥で、すでに何かの計算が動き始めている。俺という人間ではなく、「崩理」という駒の使い道を弾いている目だ。

薄氷の番人たち。四百七十二人で七千万人を守る、綱渡りの組織。

その天秤の上に、制御もできない爆弾が一つ、乗せられた。

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