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看破眼の掃除屋

第3話 第3話「左眼に透ける配管」

第3話

第3話「左眼に透ける配管」

眠れるわけがなかった。

椅子の背に体を預けたまま、天井を見上げている。コンクリートの向こうに配管が走っているのが左眼に透けて見えた。まだ慣れない。右眼が捉える暗灰色の天井と、左眼が映す青白い光の筋が重なって、視界がちぐはぐに軋む。瞬きをすれば収まるかと試したが、むしろ左眼の像が一瞬鮮明になって余計に気持ちが悪い。

時間の感覚が薄い。腕時計は車内で外された。窓のないこの部屋には外光も届かない。体内時計だけを頼りにすれば、三時間か四時間——明け方に近いはずだ。

手首の霊縛帯が微かに脈打つのを眺めていると、廊下から足音がした。複数。一つは御影のものだとわかった。歩幅と体重移動の癖を、短い接触で体が記憶している。職業病だ。もう一つの足音は軽く、歩幅が狭い。体重は六十キロ前後。戦闘職の歩き方ではなかった。

ドアが開いた。御影ともう一人。白衣の男だった。五十代半ば、銀縁の眼鏡。痩身で猫背気味。研究者の匂いがする。手には薄い端末と、何かの計測器具を持っていた。

「灰島蓮司。帳・研究統括部の梶原だ」

白衣の男が名乗った。御影とは違う種類の人間だ。戦闘職ではない。だが目の奥に、実験動物を観察するときの冷静さがあった。俺はその視線を知っている。棺にも似たような目をした人間がいた。

梶原は俺の向かいに座り、端末を机に置いた。御影は壁際に立ったまま動かない。

「まず現状を説明する。あなたの左眼に発現した看破眼は、魔の本質構造——核筋を視覚的に捉える素質だ。ここまでは昨夜、御影班長から聞いているな」

「ああ」

「では踏み込んだ話をしよう」

梶原が端末を操作すると、机の上にホログラムのような映像が浮かんだ。青白い光で描かれた人体の模式図。頭部、特に左眼の周囲に赤い点が集中している。

「看破眼は帳の記録上、過去百年で三人目の発現だ。極めて希少な素質であり——極めて厄介な素質でもある」

百年で三人。昨夜御影が言った「二百年で五人」と合致する。最近の百年ではさらに少ない。

「厄介とは」

「看破眼は覚醒すると不可逆的に霊脈と接続する。つまりあなたの左眼は常時、この世界に存在する魔の情報を拾い続ける。近くに魔がいればその核筋が見え、遠くにいてもぼんやりと気配を拾う。その情報量は、通常の人間の脳が処理できる範囲を超えている」

梶原が模式図を拡大した。左眼から脳へ伸びる赤い線が、徐々に周囲の神経組織を侵食していく動画だった。赤い線が広がるたびに周囲の組織が灰色に変色していく。見ているだけで左眼の奥がじくりと疼いた。

「訓練なしで放置した場合、霊脈からの情報過負荷で視神経と中枢神経が壊死する。半年——早ければ三ヶ月。最初に左眼の視力が失われ、次に右眼。最終的には脳幹に到達して——死ぬ」

淡々とした口調だった。研究者が論文を読み上げるような調子。死という単語に感情を込めない人種。

「過去の保持者も同じ経過を辿ったのか」

「五人中二人が訓練前に死亡している。残り三人は帳の管理下で適切な制御訓練を受けた。——それでも一人は七年で限界を迎えた」

三人が管理下に入って、一人は七年で死んだ。残りの二人がどうなったのかは言わなかった。聞かなかった。今は関係ない。

梶原が計測器具を取り出した。ペンライトに似た形状の棒で、先端が淡く光っている。

「簡易計測をさせてもらう。顎を上げて」

指示に従った。抵抗する理由がない。自分の体で何が起きているのか、知る必要がある。

ペンライトが左眼に向けられた瞬間、視界が弾けた。普段の視界の奥に、部屋全体の霊脈が一斉に浮かび上がる。壁の術式、御影の体内を巡る霊力の流れ、梶原の端末から漏れる微弱な光——すべてが赤と青の線として重なり合い、情報が洪水のように押し寄せた。

こめかみに鈍い痛みが走った。歯を食いしばって堪える。指先が痺れ、椅子の肘掛けを握る手に力が入った。

「——霊脈接続深度、4.2。覚醒後十時間未満でこの数値は異常だ」

梶原がペンライトを引き、端末にメモを打ち込んだ。独り言のように付け加える。

「興味深い。通常の覚醒者は初期値1以下から始まる。あなたは初めから深い位置で繋がっている。先天的な素因があるのか——あるいは、過去に何らかの外的介入があったのか」

外的介入。その言葉に、記憶の底で何かが揺れた。暗い部屋。冷たい金属のベッド。左眼に落ちてくる針の影——。喉の奥が乾いて、無意識に唾を飲み込んだ。

「覚えていない」

嘘ではなかった。覚えていない。正確には、覚えていたくない記憶の断片が、輪郭を持たないまま沈んでいる。

梶原は追及しなかった。端末を閉じ、椅子から立ち上がる。

「帳の提示する条件は御影班長から聞いたと思う。俺からは医療面の補足だけ伝える。制御訓練を受ければ看破眼の進行は大幅に遅延できる。受けなければ半年だが、受ければ十年以上の運用が可能だ。——もっとも、帳に所属する以上は魔との戦闘に投入されるから、寿命の前に死ぬ確率のほうが高いがな」

皮肉なのか事実の提示なのか判断がつかなかった。梶原は部屋を出て行き、俺と御影が残された。

沈黙が落ちた。御影は壁に背を預けたまま腕を組んでいる。昨夜と同じ姿勢だ。

「条件を整理する」

俺は口を開いた。

「帳に入れば訓練と医療を受けられる。入らなければ半年で死ぬか、記憶を消されるか。事実上、選択肢は一つしかない」

「そう受け取ってもらって構わない」

「なら最初から選択肢など出すな」

「形式だ。帳は強制徴用を原則禁じている。本人の同意がなければ契約は成立しない。——実態はどうであれ」

形式か。裏社会にもそういう建前は多い。依頼主が「判断はお任せします」と言いながら、答えが一つしかない問いを出す。断れば仕事を干され、従えば手を汚す。構造は同じだ。

だが——正直に言えば、条件はどうでもよかった。

半年の寿命。記憶の消去。帳の管理下。どれも重要な情報のはずだ。冷静に天秤にかけるべき要素のはずだ。なのに、頭の中を占めているのは別のことだった。

あの部屋で感じた、弾丸がすり抜けた瞬間の手応えのなさ。

八年間、俺は殺せないものに出会ったことがなかった。人間が相手なら、やり方はいくらでもある。銃、刃物、毒、素手。道具と手順さえ正しければ、殺せない人間はいない。その確信が俺の仕事の土台だった。

だが昨夜、その土台が崩れた。

弾丸が効かない標的。刃が通らない敵。俺の道具と技術と経験のすべてが無力化される瞬間を、この身で味わった。あの二分間——左眼が覚醒するまでの二分間、俺は生まれて初めて「殺し方がわからない」状態に置かれた。

引き金を引いた指の感触がまだ残っている。確かに命中した。なのに弾が肉を裂かなかった。あの手応えの空白を、体が覚えている。

あれが東京に十七体いる。俺が知らなかっただけで、この街の裏側にはずっと存在していた。

殺せない標的がいる世界で、殺し屋を名乗る意味は何だ。

その問いが、条件や契約の話よりもずっと深い場所で、静かに俺を削っていた。

「二十四時間の期限だったな」

「あと十六時間ある」

「いらない。だが今すぐ返事もしない」

御影の眉がわずかに動いた。

「もう少し見せてもらう。この組織が何と戦っていて、何を殺しているのか。それを見てから決める」

御影はしばらく俺を見つめていた。査定する目だった。殺し屋が仕事を選ぶとき、依頼主の信用を値踏みするのと同じ目。

「いいだろう。——ただし、見学中も拘束は解かない」

御影がドアを開けた。廊下の青白い光が差し込み、左眼が反射的に情報を拾い始める。壁の術式の脈動、遠くを歩く人間の霊力の残光。情報が静かに、しかし確実に流れ込んでくる。

半年で死ぬと言われた。だがその半年を脅威に感じている自分がいない。八年前にこの仕事を始めた日から、明日の保証などなかった。

それよりも——殺し屋が殺せないものに出会ったという事実のほうが、よほど始末が悪い。

俺は立ち上がり、御影の後に続いて廊下に出た。手首の霊縛帯が脈打ち、左眼の奥で赤黒い光が明滅している。

この眼が何を見せるのか。この組織が何を狩っているのか。

まず、それを知る。判断はその後だ。

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