第1話
第1話
地下は、死者の声が届かない。だからレンはここに棲みついた。
北辺の砦ヴォルザークには、五つの地上階と、誰も近寄らない地下書庫がある。かつて辺境伯の蔵書を収めていたその空間は、今や一人の青年の巣窟と化していた。壁際には古今の戦術書が雪崩のように積み上がり、その隙間を埋めるように獣の骨格標本や魔素結晶の試料瓶が並ぶ。試料瓶の中身は採取時期によって色が違い、春の魔素は淡い琥珀、冬のそれは鉛色をしている。天井から垂れる苔がわずかな燐光を放ち、窓のない部屋を青白く照らしていた。空気は湿っていて、古い紙と薬液と、どこか甘い腐葉土のような匂いが混じり合っている。地上の喧騒——兵士たちの訓練の号令も、鍛冶場の槌音も——ここまでは届かない。聞こえるのは自分の呼吸と、培養槽がときおり立てる微かな泡の音だけだ。
レンは机に突っ伏していた。寝ているのか起きているのか判然としない。墨で汚れた指が、広げたままの実験記録の上に投げ出されている。紙面には獣の筋繊維と魔素の親和率を示す数表がびっしりと書き込まれ、余白には「融合比を〇・三ずらせば表皮硬度が跳ぶ」と走り書きがあった。
王国歴三一二年、初秋。レンがこの地下に潜って五年になる。
階段を降りてくる足音が、規則正しく石段を叩いた。軽い足取り。迷いのない歩幅。レンはその音だけで誰が来たか分かったが、顔を上げなかった。
「レンさん、朝ごはん。もう昼だけど」
木盆が机の端に置かれる音。麦粥と干し肉、それに小さな林檎が一つ。湯気がかすかに立ち、麦の素朴な香りが薬品臭を一瞬だけ押しのけた。伝令兵マーリカは十七の少女で、砦の誰もが避けるこの地下に、毎日欠かさず食事を運んでくる唯一の人間だった。
「……ああ」
レンは顔を伏せたまま片手を伸ばし、林檎を掴んだ。齧る音が薄暗い書庫に響く。酸味の強い小粒の林檎で、果汁が顎を伝って実験記録の端に染みを作った。レンはそれを気にする様子もなかった。
マーリカは慣れた様子で部屋を見回し、眉をひそめた。机の奥、布で覆われた一角に新しい培養槽が増えている。硝子の内側を淡い燐光の液体が満たし、なにかの輪郭がぼんやりと沈んでいた。
「また増やしたんですか、これ。前に一個破裂して天井まで焦げたの、忘れてないですよね」
「あれは配合を間違えた。今度のは安定してる」
「そう言って三回目です」
マーリカは腕を組み、培養槽の前に立った。硝子に映る自分の顔越しに、液体の中で微かに揺れる輪郭を見つめる。彼女は伝令兵だから戦理も魔素工学も分からない。だがこの槽が尋常でないことくらいは、五年も通っていれば肌で分かる。初めてこの部屋に入った日、燐光の異様さに足が竦んだことを今でも覚えている。それでも翌日、また食事を持って降りてきた。理由を訊かれたことがある。「だって誰かが持っていかなきゃ、あの人は餓死しますから」と答えた。それだけの理由で十七歳の少女は二年間、毎日この階段を降りてきている。
レンはようやく顔を上げた。二十四にしては老けた目をしている。眠りが浅いのか隈が濃く、頬はこけていたが、瞳の奥に灯る光だけは鋭い。かつて王立士官学校の教官が「百年に一人の戦理の目」と評した、その眼光の残滓だった。
「マーリカ。俺はただ、仕組みが知りたいだけだ。獣の骨格がなぜ魔素と共鳴するのか。鋼蟲の表皮がどこまで硬化するのか。兵器を作りたいわけじゃない」
「知ってます。でも上の人たちはそう思ってないですよ。『穴蔵の軍師がまた妙なものを飼ってる』って」
穴蔵の軍師。レンを嘲る渾名だった。五年前、士官学校を首席で卒業し、辺境防衛戦に初陣で配属された天才。その天才が立てた策が、三千の味方を死なせた。机上では完璧だった包囲殲滅策。地形の利、兵力比、魔素濃度の推移——あらゆる変数を組み込んだ布陣図。だが戦場は紙の上とは違った。右翼を預けた部隊が想定より六分遅れた。たった六分。その間に敵の魔装騎兵が中央を食い破り、味方は退路を断たれた。三千の兵が死んだ夜、レンは戦場に立ち尽くしていた。燃え落ちる陣幕と、折り重なる死体と、自分が描いた布陣図の上に飛び散った血を、夜通し見ていた。以来、戦場に出ることを拒み、地下に閉じこもった男。上官たちは最初こそ引き戻そうとしたが、やがて匙を投げた。辺境伯だけがレンの存在を黙認し、地下書庫を与えた。
「——誰の命も、計算に載せたくないんだ」
レンは呟くように言った。口癖のようでいて、そのたびに声がわずかに震える。マーリカはそれを知っていた。だから何も言わず、冷めかけた麦粥を少しだけレンのほうに押しやった。
林檎の芯を紙屑入れに放り込み、レンは椅子ごと培養槽に向き直った。硝子の中の輪郭は、竜の肋骨に似た骨格に鋼蟲の甲殻片を接合したものだ。理論上は融合するはずの組み合わせだが、核となる魔素炉の出力が足りず、五年間一度も完全に起動したことはない。
「これが動いたところで、俺は何にも使わない。ただ理論が正しいか確かめたいだけだ」
「使わないなら、なんで設計図なんか描くんですか」
マーリカの問いに、レンは答えなかった。答えられなかった。自分でも分かっている。設計図を描く手が止まらないのは、それが自分に残された唯一の才能だからだ。戦場を設計する力。人と獣と地形と魔素を組み合わせ、最適解を導き出す能力。その能力が三千の命を奪った。だが能力そのものは消えない。消せない。だから別の場所に向けている。そう言い聞かせて、五年が過ぎた。
マーリカが階段を上がっていく足音を聞きながら、レンは実験記録の新しい頁を開いた。今日の課題は、魔素炉の臨界条件の再計算だ。理論上、外部から強制的に大量の熱と魔素を同時に注入すれば、炉は起動する。だが地下書庫にそんな条件を再現する手段はない。だから安全なのだ、とレンは思っていた。
計算に没頭すること数刻。ペンが止まった。
数値が合わない。いや、合ってしまった。レンは眉根を寄せ、三度、四度と検算を繰り返した。指先が微かに震えていた。数表の行を辿り直すたび、同じ結論が返ってくる。結果は変わらなかった。培養槽の中の骨格と甲殻、その融合比が——おそらくは先日の配合修正で——臨界点に極めて近い位置まで来ている。あと必要なのは、外部からの衝撃と高熱、そして大気中の遊離魔素が一定濃度を超える瞬間だけだ。
レンはペンを置き、両手で顔を覆った。指の隙間から、培養槽の燐光が青白く漏れている。五年かけて積み上げた理論。何百回と失敗を重ねた実験。それがようやく一つの解に収束しようとしている。喜びではなかった。恐怖に近い何かが、胃の底から這い上がってくる。
「……まさか、な」
レンは自嘲気味に笑った。五年間失敗し続けた融合実験が、意図せず完成の間際にある。皮肉だった。誰の命も計算に載せたくないと言いながら、最も多くの命を奪い得る設計図だけが完成に近づいている。
椅子から立ち上がり、培養槽に歩み寄った。硝子に額をつけると、ひんやりとした感触が肌に伝わる。液体の向こうで、竜骨の肋が微かに——本当に微かに——脈動していた。
レンの背筋を、冷たいものが走り抜けた。
これまで一度も動いたことのない骨格が、呼吸をしている。まだ覚醒ではない。だが眠りが、浅くなっている。
「……止めるべきか」
呟いた声は、地下書庫の闇に吸い込まれて消えた。止める。簡単なことだ。培養液を抜き、骨格を砕き、設計図を焼けばいい。五年間の研究が無に帰すだけだ。
レンの手が、培養槽の排出弁に伸びた。
だが、指は弁に触れたまま動かなかった。
理論の完成を、この目で見たい。それだけだ。兵器にする気はない。起動を確認したら、すぐに停止させる。そう己に言い訳を重ねながら、レンは排出弁から手を離した。手のひらが汗で濡れていた。それを実験着の裾で拭い、机に戻った。計算用紙の束を引き寄せ、臨界条件の閾値を改めて書き出す。自然条件下で起動に至る確率を算定するためだ。ペンを走らせながら、レンは気づいていた。これは「止めない理由」を探すための計算だと。
その夜、地上では秋の嵐が砦の石壁を叩いていた。雷鳴が地下まで低く響き、足元の石床がかすかに振動した。レンの知らないところで、王都からの早馬が街道を南から駆け上がっていた。粛清命令書を携えて。
地下では、培養槽の燐光がひときわ強く明滅した。脈動は、もう止まらなかった。