第3話
第3話
Sランクスキル。
その一文字が、松明の揺れる光の中で瞬いていた。ユウは書物を握ったまま、石の地面に膝をついたまま、しばらく動けなかった。頭蓋の奥に残る熱が徐々に引いていく。代わりに、思考が戻ってくる。冷たい空洞の空気が、汗ばんだ首筋を撫でた。指先がまだ痺れている。書物を握る力加減が分からず、革表紙に爪が白く食い込んでいた。 Sランクのスキルなど、現役のハンターでも保有者は片手で数えるほどしかいない。国家戦力として登録され、ギルド本部の直轄管理に置かれる。そういう次元の話だ。 ——なぜ、俺に。 五年間、コケネズミにすら逃げられ続けた男に、最高位のスキルが宿る。冗談にしても出来が悪い。だが頭蓋の奥に焼き付いた感覚は本物だった。あの奔流、あの声、白紙のページに浮かび上がった文字。夢でも幻覚でもない。 ユウはゆっくりと立ち上がった。右肩の打撲が鋭く主張したが、歯を食いしばってやり過ごす。松明を拾い上げ、書物を腰袋に押し込んだ。革袋の底で、書物がまだ微かに温かいのが掌越しに伝わった。 まずは、ここから出なければ話にならない。
空洞のさらに奥へ進んだ。下り傾斜は緩やかに続いていたが、三十メートルほどで平坦になり、左手に小さな横穴が口を開けていた。這って入れるほどの大きさ。松明を突き入れると、奥に空間があるのが分かった。そこから微かに——上方への空気の流れを感じた。湿り気を帯びた風が、松明の炎をほんの少しだけ横に揺らした。 入ろうと身を屈めた時だった。 足元に何かが触れた。 冷たく、湿った感触。とっさに短剣に手が伸びた。だが斬りかかる前に、松明を下ろして確認する。五年の浅層周回で身についた、確認してから動くという鉄則だった。 スライムだった。 体長十五センチほどの、薄い青色をした半透明の個体。浅層のどこにでもいる最下級の魔物だ。ただし、こんな空洞にいるのは奇妙だった。崩落で迷い込んだのか、元からここに棲んでいたのか。 スライムは逃げなかった。 ユウの足元で、ぷるぷると小さく震えている。怯えているようにも見えたし、寒がっているようにも見えた。いずれにせよ、魔物がユウの近くに留まっているというだけで異常だった。五年間、あらゆる魔物がユウの魔力に触れた瞬間に逃げてきたのだから。 その時、頭の中に声が響いた。
——未記録の魔物を検知しました。自動記録を開始します。
あの声だ。性別のない、事実だけを告げる声。同時に、腰袋の中の書物が淡く光った。袋越しに青白い光が漏れている。ユウは袋を開き、書物を取り出した。 二ページ目に文字が浮かんでいた。先ほどと同じように、紙の繊維そのものが文字を形成していく。
『スライム(コモン種) 分類:不定形 等級:最下級 特性:物理耐性(微)、分裂再生、接触同化 気質:臆病、群居性、感情感応型 備考:魔力に対する親和性が極めて高い。テイマーの魔力波長に共鳴しやすく、最も契約が容易な種の一つ——』
記録が完了した瞬間だった。 足元のスライムが、動いた。 逃げたのではない。ユウの革靴の甲にぴたりと張り付き、そのまま脹脛を這い上がり始めた。冷たく、滑らかな感触。痛みはない。粘液のぬめりもなかった。スライムは膝の裏まで来ると、そこで止まり、小さく震えた。 ——擦り寄っている。 ユウは松明を持つ手が震えているのに気づいた。打撲の痛みではない。五年間、一度も感じたことのない感覚が全身を駆け抜けていた。 魔物が、自分に触れている。逃げずに。拒絶せずに。 恐る恐る、左手をスライムに近づけた。契約スキル【従魔の手綱】ではない。ただの左手だ。指先がスライムの表面に触れた。ひんやりとして、弾力がある。押し込んだ指が薄い膜を通して体内の核に触れそうになり、慌てて力を抜いた。スライムはびくりとも動かなかった。それどころか、触れた指先に向かって体をわずかに膨らませ、押し返すように——。 慕いている。 その認識が脳に落ちた瞬間、ユウの目頭が不意に熱くなった。視界が滲む。駄目だ、こんなことで。自分に言い聞かせたが、五年分の拒絶と孤独が胸の奥から突き上げてきて、押し戻せなかった。 コケネズミに逃げられた日。ダンジョンミミズに威嚇された日。ホーンラビットが金切り声を上げて走り去った日。そのたびに、「テイマーのくせに」という視線を浴びてきた。同情も、嘲笑も、無関心も、全て飲み込んできた。ギルドの酒場で隣に座る者はなく、パーティ募集の掲示板にユウの名前を書く者もいなかった。それでも毎朝ダンジョンに潜り続けた。諦めきれなかったのだ、父と同じテイマーであることを。 なのに、こいつは。こんな薄暗い穴の底で、一匹のスライムが、ユウの膝の裏にくっついて離れない。 「……なんで、お前」 声が掠れた。スライムは答えない。ただ、ぷるりと震えただけだった。
図鑑のページが、もう一行だけ文字を追加していた。
『契約状態:自動成立(図鑑記録による即時契約)』
テイマースキル【従魔の手綱】を使っていない。魔力を送ってもいない。図鑑に記録しただけで、契約が成立した。五年間どれほど足掻いても成し得なかったことが、たった数秒で。 ——これがSランクスキルか。 ユウは膝のスライムを剥がさないまま立ち上がった。横穴の奥から流れる空気は、確かに上へ向かっている。壁面に手を当てながら這うように進むと、横穴は徐々に上方へ傾斜し、途中から天然の縦穴になった。壁の凹凸が階段のように連なっている。スライムはユウの肩に移動し、ぴたりと張り付いていた。その重さは林檎ひとつ分にも満たなかったが、右肩の打撲を避けるように左肩に陣取っているのが妙に律儀だった。 縦穴を登る。右肩が悲鳴を上げたが、左手と両足で体を支えた。途中、スライムが何度か体を伸ばして壁の突起にくっつき、ユウの腕を引き上げるような動きをした。助けている——のかもしれなかった。 十分ほど登ったところで、見覚えのある石壁に出た。浅層二階の、東側通路の行き止まり。普段は入ることのない枝道の最奥に、小さな穴が開いていた。ここが出口だったのか。ユウは体を引きずり出し、通路の床に倒れ込んだ。 天井の苔が、松明がなくても微かに発光していた。浅層二階の見慣れた天井だ。帰ってきた。肺に馴染んだ苔の匂いが入ってくる。全身の力が抜けて、冷たい石の床が背中に心地よかった。 肩の上で、スライムがぷるぷると震えていた。
ユウは仰向けのまま、しばらく天井を見つめていた。呼吸が落ち着いてくると、思考が冷えていった。喜びの余韻の下に、別の感覚が這い上がってくる。 Sランクスキル。 それが何を意味するか、ユウは知っていた。知りすぎていた。 Sランクスキルの保有者は、国家登録が義務づけられる。ギルド本部の直轄管理下に置かれ、所属や行動に制限がかかる場合もある。戦略資産として扱われる。そして何より——狙われる。 父がAランクのテイマーだった。上位従魔を三体従え、深層探索の最前線にいた。その父が、深層利権を巡る争いに巻き込まれて死んだ。母も巻き添えだった。実家の焼け跡の匂いを、ユウは今でも覚えている。Aランクでさえそうなるのだ。Sランクのテイマースキルを持つ人間がどうなるか——想像するまでもなかった。 利用しようとする者が現れる。支配しようとする者が現れる。そして、排除しようとする者が現れる。父と母の死は、まさにその構図の中で起きた。 ユウは右手を見つめた。さっきスライムに触れた手だ。 「……これが知れたら、俺も親父たちと同じだ」 声は、空洞の中で呟いた時よりもずっと低かった。肩の上のスライムが、その振動を感じ取ったのか、きゅうと小さく縮んだ。 立ち上がる。全身が軋んだが、歩ける。ユウは二階の通路を出口に向かって歩き始めた。肩の上のスライムは、相変わらず離れなかった。 図鑑の最後に表示された一行が、脳裏にこびりついていた。
『記録種数:1/????』
疑問符の数が、四つ。この図鑑はあと何体の魔物を記録できるのか。そして——全てを記録した時、何が起きるのか。 地上への階段を登りながら、ユウは表情を作った。いつもの、何も持っていない男の顔。万年Eランクの、魔物に好かれないテイマーの、諦めたような薄い笑み。 肩の上のスライムだけが、その仮面の下の鼓動を知っていた。