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万象図鑑のテイマー

第2話 第2話

第2話

第2話

三階への階段は、いつもより空気が重かった。

 ユウは松明を掲げながら、石段を一段ずつ踏みしめた。浅層とはいえ油断はしない。五年間の周回で身についた習慣だ。壁に手を添え、足元の感触を確かめ、空気の流れに注意を払う。従魔を持たないテイマーが生き残るには、五感を研ぎ澄ませるしかなかった。  三階の入口に立った時、右の壁面に目が留まった。石壁を縦に走る、髪の毛ほどの細い亀裂。昨日まではなかったものだ。ユウは松明を近づけ、亀裂の深さを確かめようとした。指先で触れる。石が微かに湿っている——いや、湿っているのではない。振動していた。指の腹に伝わる細かな震えは、まるで石壁の奥で何かが脈を打っているかのようだった。  地下水脈の変動か、と頭の片隅で考えた。浅層では珍しくない現象だ。地盤が安定しないのはダンジョンの常であり、ギルドの構造監視班が定期的に点検している。この亀裂も、明日には報告書に載るだろう。  そう判断して、三階の通路へ足を踏み入れた。

 浅層三階は、上層二階までとは空気の質が変わる。天井が低く、通路が狭い。壁面の苔が厚くなり、松明の光を吸い込むように暗い。地下水が壁を伝う音が絶え間なく響き、どこか遠くで風が唸っている。それでもEランクのハンターが単独で立ち入れる最深階であり、ユウにとっては五年間の庭だった。  通路の分岐を右に折れる。今日の目的は苔石の採取だ。三階の東側通路には良質な苔石が自生するポイントがあり、週に二度は通っている。一個あたりの単価は低いが、確実に売れる。それがEランクの日常だった。  分岐から二十歩ほど進んだ時だった。  足の裏に伝わる振動が、一段強くなった。  ユウは足を止めた。息を殺し、壁に手を当てる。石壁全体が脈打つように震えていた。地下水脈の変動ではない。もっと深い場所から、もっと大きな力が突き上げてきている。  ——まずい。  判断は一瞬だった。踵を返し、来た道を戻ろうとした。だが、足が地面を蹴った瞬間、世界が傾いた。  轟音。  耳を劈く岩盤の裂ける音が通路を満たし、足元の石畳が蜘蛛の巣のように割れた。体が浮いた。松明が手から離れ、宙を舞い、視界を橙色の残像で塗りつぶした。壁が、天井が、床が——すべてが崩れ落ちていく。  ユウは咄嗟に両腕で頭を庇った。落下する体を石の破片が叩く。右肩に鈍い衝撃。背中に何かが当たり、息が詰まった。暗闇の中を落ちていく感覚がどれほど続いたのか、二秒か、五秒か、それとももっと長かったのか。  背中から地面に叩きつけられた。  肺の中の空気が一瞬で押し出された。口を開けても息が入ってこない。視界が白く明滅し、全身が軋んだ。数秒の後、ようやく細い呼吸が戻ってきた。喉の奥で砂埃が焼けるような味がした。  仰向けのまま、目を開ける。  頭上に、自分が落ちてきた穴がぽっかりと開いていた。三階の通路の天井——いや、もう天井ではない。崩落した床の断面が、はるか上方に見える。五メートル、いや七メートルか。松明の光は穴の上に残っていたが、ここまでは届かなかった。  暗い。  音もない。崩落の轟音が嘘のように、完全な静寂が広がっていた。耳鳴りだけが頭蓋の内側で鳴っている。 「……ぁ」  声を出そうとして、右肩に激痛が走った。脱臼はしていない。だが打撲はひどい。左腕で体を支えて上体を起こすと、背中の痛みが全身に広がった。肋骨も何本かやっているかもしれない。呼吸のたびに胸郭の左側が軋み、浅い息しか吸えなかった。  腰の短剣に手を伸ばす。鞘に収まったままだった。それだけで少し安堵した。この暗闘で武器を失えば、どんな弱い魔物にも殺される。  目が闇に慣れてきた。  ここは——通路ではなかった。浅層三階の構造図にこんな空間は載っていない。天然の洞窟のような不規則な壁面。天井は頭上の崩落孔を除けば、ドーム状に広がっている。幅はおよそ十メートル、奥行きはそれ以上ありそうだが、暗くて確認できなかった。  空気が違う。三階の湿った苔の匂いではなく、もっと古い——土と鉄錆と、かすかに甘い、何か植物の朽ちたような匂い。肺に入れると冷たく、重い。この空気は長い間、外と遮断されていたものだ。  予備の松明を腰袋から取り出した。火打ち石で着火する。左手だけでは手間取ったが、三度目の火花で麻紐に火が移り、松明が灯った。  橙色の光が空洞を照らした瞬間、ユウは息を呑んだ。

 壁が光っていた。  いや、光っているのではない。壁面に無数の鉱脈が走っていた。松明の炎を受けて、青白い燐光を微かに返す鉱物。魔石の原鉱だ。浅層で見かける粗悪な魔石ではない。結晶の密度が明らかに違う。こんなものが浅層三階の直下に眠っていたのか。  だが、驚きに浸っている余裕はなかった。  脱出路を探さなければならない。頭上の崩落孔は高すぎて、この状態では登れない。ロープもない。左右の壁面を松明で照らしながら、空洞の奥へと進んだ。足を引きずりながら、壁に手を這わせる。どこかに上層へ繋がる隙間か、あるいは既知の通路への抜け道があるはずだ。  魔石の原鉱が壁面を彩る空洞は、奥に向かうにつれて緩やかに下り傾斜になっていた。嫌な方向だ。下るということは、さらに深い階層に近づくということでもある。だが、他に道がなかった。  二十メートルほど進んだ時、右手が壁面の凹凸に引っかかった。  指先に触れたのは石ではなかった。もっと柔らかい。もっと古い。松明を近づけると、壁面に半ば埋もれるようにして、一冊の書物が嵌まっていた。  革の表紙。だが革は乾ききって罅割れ、元の色が分からないほど劣化している。金属の留め金が錆びつき、石壁の鉱物と一体化しかけていた。周囲の岩盤が長い時間をかけてこの書物を飲み込もうとしていたかのように、縁が石に埋もれている。  ユウは慎重に指をかけた。引っ張ると、意外なほど簡単に抜けた。石の破片がぱらぱらと落ちる。書物は想像より軽かった。中身は——白紙だった。開いたどのページにも文字はなく、黄ばんだ紙面が松明の光を鈍く照り返すだけ。  何だ、これは。  ダンジョンで人工物が見つかること自体は珍しくない。古代の遺物がたまに発見され、ギルドの鑑定部門に持ち込まれる。だが、こんな場所に——既知の地図にも載っていない空洞の壁に、書物が埋まっているなど聞いたことがない。  表紙に触れた。  正確には、表紙の中央にある、唯一劣化していない部分——金属でも石でもない、滑らかな円形の紋様に、指先が触れた。

 世界が、白く弾けた。

 視界が塗り潰される。痛みはなかった。代わりに、頭蓋の内側に何かが流れ込んでくる感覚。水ではない。音でもない。それは情報だった。言語になる前の、純粋な意味の奔流。ユウは松明を取り落とし、膝をついた。書物を握る右手だけが動かなかった——動かせなかった。指が表紙に張り付いたように離れない。  白い視界の中心に、文字が浮かんだ。  文字ではない。意味がそのまま脳に刻まれていく。目で読むのではなく、理解が先に来る。

 ——固有スキル覚醒条件を満たしました。

 声が聞こえた。耳で聞いたのではない。頭の中で、はっきりと。性別のない、感情のない、ただ事実だけを告げる声。

 ——適性評価:テイマー系統、最高位適合。  ——スキル登録を開始します。

 頭蓋の奥が焼けるように熱かった。情報の奔流は止まず、意識の輪郭が溶けていくような感覚がユウの体を貫いていた。歯を食いしばる。膝が石の地面に食い込み、冷たさだけが辛うじて現実との繋ぎ目になっていた。  書物のページが一枚、独りでに捲れた。白紙だったはずの一ページ目に、文字が浮かび上がっていく。滲むように、染みるように、古い紙の繊維そのものが文字を形成していく。

 ——登録完了。

 白い視界が薄れ、暗闇が戻ってきた。松明は地面で燃え続けている。ユウは肩で息をしながら、手の中の書物を見下ろした。指先の感覚が戻っていた。表紙から手が離せる。だが体の芯にはまだ、あの奔流の余韻が熱として残っていた。一ページ目に浮かんだ文字を、震える松明の光で読む。

『固有スキル【万象図鑑(モンスター・カタログ)】 ランク:——』

 ランクの欄に、一文字だけ刻まれていた。

 S。

 空洞の奥から、冷たい風が吹いた。書物のページが音もなく揺れる。ユウの指は、まだ表紙から離れなかった。

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