第1話
第1話
五年間、一度も魔物に好かれたことがない。
それがどういう意味を持つか、テイマーでなければ分からないだろう。陣内ユウは浅層二階の薄暗い通路に膝をつき、目の前の魔物と対峙していた。コケネズミ——ダンジョン最弱と名高い、体長二十センチほどの小型魔獣。苔色の毛並みに覆われた丸い体は、初心者ハンターが最初に契約を試みる定番の相手だ。 ユウは右手をゆっくりと差し出した。指先に意識を集中し、体内の魔力を細く、穏やかに流す。テイマーの基本中の基本。威圧ではなく親愛を、支配ではなく共感を。五年前、ギルドの座学で百回は繰り返した動作だった。 コケネズミの鼻がひくひくと動いた。黒い瞳がユウの指先を見つめる。一瞬、空気が和らいだように感じた。 ——今度こそ。 契約スキル【従魔の手綱】を起動する。魔力が指先から糸のように伸び、コケネズミとの間に見えない線を紡ごうとした、その瞬間。 コケネズミが甲高い悲鳴を上げた。全身の毛が逆立ち、尻尾を膨らませ、ユウの手を避けるように壁際まで飛び退く。そのまま通路の隙間に潜り込み、姿を消した。 静寂が戻った。湿った石壁に反射する松明の光だけが、ユウの伸ばしたままの右手を照らしている。 「……だよな」 呟いて、手を下ろした。期待した自分が馬鹿だった。相手がスライムでも、ホーンラビットでも、果てはダンジョンミミズでさえ結果は同じだ。ユウの魔力に触れた瞬間、あらゆる魔物が拒絶反応を示す。理由は分からない。ギルドの鑑定士にも、魔力学の専門家にも、原因を特定できた者はいなかった。 テイマーのスキル適性は最高ランク。だが魔物と契約できない。剣の代わりに魔物を操る職業で、魔物に嫌われる。それが陣内ユウという人間だった。
浅層二階から一階へ戻る上り階段は、午後の空気が少しだけ温かかった。苔むした壁を伝う地下水の筋が、松明の光を受けて細く光る。 一階の広間に出ると、三人組のパーティが休憩を取っていた。前衛のタケダが分厚い手でパンを千切り、後衛のヒーラー・ミズキが水筒の蓋を開けている。その間に座る弓使いのソラが、ユウの姿を認めて片手を上げた。 「おー、陣内。荷物、先に上げといてくれ」 足元に積まれた素材袋を顎で示す。三袋。中身は浅層で採れる苔石と、コケネズミの毛皮。ユウが仕留めたものではない。 「分かった」 ユウは黙って袋を肩に担いだ。三袋で十五キロほど。テイマーとして機能しない以上、パーティにおけるユウの役割はこれだった。荷物持ち、見張り、雑用。戦闘には参加させてもらえない。させてもらえないというより、させる意味がない。従魔を持たないテイマーは、武器も持たない剣士と同じだ。 「悪いな、いっつも」 タケダが気まずそうに言った。この男は根が優しい。だからこそ、その優しさがユウの胸に刺さる。 「気にしないでくれ。分け前もらってるんだし」 「分け前っつっても、荷物持ち枠の取り分だろ。テイマーの報酬じゃねえよな」 「——十分だよ」 ユウは背を向けた。十分なわけがなかった。だが、それ以上この話を続ければ、タケダの同情がもっと深くなる。同情は毒だ。慣れれば楽になり、楽になれば足が止まる。 素材袋を担いで階段を上る。地上が近づくにつれ、空気が乾き、温度が上がる。出口の光が目に染みた。 ギルド本部は地上二階建ての石造りの建物で、ダンジョンの入口から徒歩五分の場所に建っている。一階は受付と掲示板、二階は会議室と査察官の執務室。ユウが素材袋を納品カウンターに置くと、受付嬢の水瀬カナデが丁寧に中身を検分した。 「コケネズミの毛皮七枚、苔石十二個。確認しました。——陣内さん、今日もお疲れさまです」 最後の一言に、微かな憐みが混じる。カナデに悪気はないと分かっている。だが五年もの間、毎日同じカウンターで同じEランクの報告書を受け取る側と出す側を続けていれば、どうしてもそうなる。 「ああ。ありがとう」 報酬を受け取り、カウンターを離れようとした時だった。 掲示板の前に人だかりができているのが目に入った。昇格通知だ。ギルドでは週に一度、ランク昇格者の名前が掲示される。ユウは普段それを見ないようにしている。見ても意味がないからだ。だが今日は、人だかりの隙間から一つの名前が勝手に目に飛び込んできた。
『Cランク昇格:藤堂アキラ』
息が止まった。 藤堂アキラ。ユウと同期のハンターだった。五年前、同じ日にギルドに登録し、同じ座学を受け、同じ浅層一階で初めてのダンジョンに潜った男。当時は互いにEランクで、「いつかBランクまで上がろう」と飯を食いながら笑い合った記憶がある。 その藤堂が、Cランクに上がった。 周囲から拍手と歓声が上がっている。藤堂の姿は見えなかったが、奥の談話室あたりで祝われているのだろう。Eランクからの叩き上げでCランクに到達するのは、才能と努力の両方がなければ不可能だ。同期として、素直に祝うべきだった。 ユウは右手を握りしめた。爪が掌に食い込む。 祝えない自分が嫌だった。だが、それ以上に、同じ場所から始まったはずの道がこれほど離れてしまった事実が、喉の奥に苦い塊となって詰まっていた。五年だ。五年間、ユウはEランクのまま一歩も動けていない。テイマーの適性だけは最高だと鑑定され、だからこそ転職もできず、契約もできず、浅層を這い回り続けている。 掲示板から目を逸らし、ギルドの出口に向かった。夕暮れの街は赤かった。ダンジョン都市特有の、魔力を帯びた霞がかった空。露店の喧騒、帰還するパーティの笑い声、鍛冶屋の槌音。どれも日常の音だ。その日常の中に、ユウの居場所だけがない。 安宿の一室に戻り、狭いベッドに腰を下ろした。装備を解くと、右の肩甲骨のあたりが鈍く痛んだ。素材袋を担ぐ側の肩は、もう慢性的に凝り固まっている。テイマーの肩ではなく荷物持ちの肩だな、と自嘲が浮かんだ。 壁に掛けた古い写真を見る。色褪せた一枚。両親と幼い自分が、ダンジョンの入口の前で並んでいる。父はAランクのテイマーだった。三体の上位従魔を従え、深層探索の最前線に立っていた。母は支援術師。二人とも、ダンジョンの深層利権を巡る争いに巻き込まれ、ユウが七歳の時に還らなかった。 公式には「深層探索中の事故死」とされている。だがユウは知っていた。父の従魔が全て契約を解除された状態で発見されたこと。母の支援術式が、何者かによって外部から妨害された痕跡があったこと。事故ではない。殺されたのだ。誰に、何のために——それを知るためには、最深部に辿り着くしかない。 だから足を止めるわけにはいかなかった。魔物に拒まれても、同期に置いていかれても、同情の目で見られ続けても。浅層を這い回ることしかできない自分でも、一日でも足を止めたら、そこで終わる。 「……明日も、行く」 誰に言うでもなく呟いた。窓の外はすっかり暗くなっていた。ダンジョンの入口がある丘の方角に、青白い魔力光がぼんやりと灯っている。あの光の遥か下——地下深くに、両親の死の真実が眠っている。
翌朝、ユウは日の出とともに宿を出た。 装備は最低限。革鎧、腰の短剣、松明三本、携帯食。テイマーが持つにはあまりに貧相な出で立ちだった。従魔がいない以上、自衛用の短剣だけが頼りだ。 ギルドの前を通りかかると、昨日の昇格掲示がまだ残っていた。『Cランク昇格:藤堂アキラ』。ユウは一瞬だけ視線を向け、すぐに前を向いた。 ダンジョンの入口は朝靄に煙っていた。地下から吹き上げる冷気が、地上の暖気とぶつかって白い霧を作る。この匂いを五年間嗅ぎ続けてきた。苔と湿った石と、微かに甘い魔力の残滓。嫌いではなかった。ここだけが、ユウが何者かでいられる場所だった。たとえそれが、万年Eランクの荷物持ちだとしても。 階段を降り始める。足音が石壁に反響した。今日もまた浅層を周回する。何も変わらない一日が始まる——はずだった。 三階へ続く階段の壁面に、昨日まではなかった細い亀裂が走っているのを、ユウはまだ知らない。