第2話
第2話
坑道の空気は、記憶より冷たかった。
最初の敵は「コボルドマイナー」。レベル12の雑魚。錆びたツルハシを振り回すだけの単純なモブで、攻略サイトには「初心者向け。特筆事項なし」の一行しか書かれていない。普通のプレイヤーなら一撃で沈む相手だ。
俺の拳が顎を捉える。ダメージ表記──87。
HPゲージが微かに減る。微かに。コボルドマイナーの総HPは420。つまり最低でも五発。素手の攻撃速度を考えれば、一体倒すのに十秒以上かかる計算だ。レイドボスじゃない。レベル12の雑魚に、十秒。
ツルハシが横薙ぎに来る。バックステップで避けた。モーションが大きい。予備動作から着弾まで約一秒。回避は余裕だが、その一秒が攻撃の手を止める。避けて、殴って、避けて、殴って。たった一体に二十秒近くかけて、ようやくコボルドが光の粒子に散った。
ドロップ──「欠けた鉱石」。売却価格3G。
「……まあ、そうだよな」
分かっていた。分かっていて来た。効率を求めるなら、ここにいる理由はない。だが効率を求められる場所が、今の俺にはない。
坑道の第一層。敵の配置は五体。コボルドマイナーが三体、スライム亜種の「マッドゼリー」が二体。全部倒して第二層への階段が開く。所要時間──三分四十二秒。
遅い。絶望的に遅い。武器持ちのレベル47なら三十秒で更地にできるフロアに、四分近くかかっている。経験値は雀の涙。レベル差補正で実質ゼロに等しい。ここにいる意味を数字で問われたら、答えられない。ガルドの声が脳裏を掠める。
──お前みたいな遊びプレイヤーはソロでやってろ。
「やってるよ」
呟いて、第二層に降りた。
二層のコボルドは少しだけ賢い。二体同時に襲ってくるパターンがある。左から斜め振り下ろし、右からの突き。タイミングがわずかにズレている。左を横ステップで避け、右の突きを最小限の首振りで躱す。振り向きざまに左のコボルドの脇腹へ掌底。よろけたところに右ストレート。
87、91。クリティカルは出ない。体術スキルの会心率は武器スキルの半分以下だ。
三層。四層。五層。坑道は全部で八層構成。敵の種類はコボルドマイナー、マッドゼリー、そして五層から出現する「ストーンバット」の三種のみ。攻撃パターンも限られている。コボルドは縦振り・横振り・突きの三種。マッドゼリーは体当たりと酸液飛ばし。ストーンバットは急降下と超音波。
単調だ。ひたすら単調。同じ敵を、同じ拳で、同じように殴り続ける作業。BGMすらない。聞こえるのは自分の足音と、拳が敵に当たる鈍い音と、水滴が落ちる反響音だけ。
一周目、クリアタイム──二十八分。被弾十七回。
「遅い。被弾多すぎ」
二周目。同じ坑道、同じ敵、同じ配置。だが二回目になると、敵のポップ位置が頭に入っている分だけ先手が取れる。マッドゼリーの酸液は発射前に体が緑に光る。ストーンバットの急降下は翼を折りたたんでから〇・八秒後。
二周目クリアタイム──二十四分。被弾十一回。
三周目。コボルドの横振りは避けた直後に確定で突きが来る。二連コンボだ。一周目はそれに気づかず食らっていた。横を避けて安心した瞬間に突きが刺さる。初心者殺しのパターン。三周目にしてようやく体が対応した。横ステップの戻りを早めに切り上げ、そのまま前に踏み込んでカウンターを入れる。被弾を回避に変え、回避を攻撃に変える。
五周目。六周目。七周目。
疲労はない。VRの肉体に疲労の概念はないから。だが精神は別だ。同じ坑道を何度もなぞる単調さが、じわじわと集中力を削る。それでも足を止めなかったのは、周回を重ねるごとに数字が──ではなく、感覚が変わっていくのが分かったからだ。
八周目のストーンバット戦。急降下が来る。翼が折りたたまれた瞬間、体が勝手に横へ流れた。考えるより先に。超音波の発動モーションが見えた時には、もう射程の外にいた。避けたんじゃない。最初から「そこにいなかった」。
攻撃もそうだ。コボルドの硬直フレームが手に取るように分かる。横振りの後、〇・四秒。突きの後、〇・六秒。その隙間に拳を差し込む感覚が、計算ではなく反射になっていく。ダメージ表記は変わらない。87、91、84。だが拳を当てるまでの無駄が、一挙動ずつ削ぎ落とされていく。
十二周目あたりから、被弾がゼロになった。
最初は偶然かと思った。だが十三周目もゼロ。十四周目もゼロ。敵の攻撃が見えている、ではない。敵が攻撃する前に体が反応している。二年間の素手縛りで培った回避の下地に、この坑道の反復が噛み合って、何かが一段階上に切り替わった感覚があった。
十五周目。最深部──第八層。
ここにはフロアボスがいない。代わりに、やや強化されたコボルドが六体同時にポップする。一周目は囲まれて被弾を重ね、ポーションを三つ使った。
今は違う。
六体が一斉に動く。右のコボルドの縦振りをサイドステップ、同時に左から突きが来る。最小限の身体の捻りで軸をずらし、突きの軌道をすり抜けながら正面のコボルドに掌底を叩き込む。よろけた一体を壁にして、背後からの横振りの射線を切る。振り返りざまの裏拳がストーンバットの翼を捉え、叩き落とす。
六対一。囲まれている。だが、被弾はしない。
六体の攻撃タイミングを頭の中で同時に処理している。Aが振り下ろすならBの突きは〇・三秒後。Cの横振りはその直後。六体分のタイムラインが重なって、安全な立ち位置が一点だけ浮かび上がる。その一点に体を滑り込ませ、拳を返す。
最後の一体が光に散った時、HP残量は──満タン。
「……被弾ゼロ」
八層、六体同時を素手で、ノーダメージ。
リザルト画面が表示される。クリア報酬──「欠けた鉱石」×4、「古びた鎖」×1、経験値82。
笑えるほど渋い。レベル47の俺が得る経験値としてはゴミ同然だ。金銭報酬に至っては、街の露店で水を一杯買えるかどうか。十五周回して得たものを合算しても、適正レベルダンジョン一回分に遠く及ばない。
数字だけ見れば、完全に無意味な時間だった。
だが──。
右手を開いて、閉じる。拳の感触が違う。昨日までの拳と、今の拳は別物だ。数値には表れない。ステータス画面にも反映されない。だが体が知っている。敵の動きを読む精度、回避から攻撃に転じる速度、複数の脅威を同時に処理する頭の回転。全部が、十五周前とは違う場所にある。
「体が覚えてる」
ゲームの数字には刻まれない。でも、確かに何かが蓄積されている。反復が、経験値ではなく地力として腕に刻まれた。こればかりは、攻略サイトにもステータス画面にも載らない。
装備で火力を盛る連中には、永遠に分からない感覚だろう。レベルを上げて殴る。武器を強化して殴る。バフを積んで殴る。それが正しい攻略だ。効率的で、合理的で、正しい。
俺のやり方はその全部を捨てている。だからガルドの言葉は正しかった。
──でも。
この拳が、さっき六体を無傷で潰した。数字は変わらない。ダメージは相変わらず二桁だ。でも、当て続けられる。避け続けられる。被弾ゼロで殴り続ければ、時間はかかっても敵は必ず落ちる。
それは弱さか?
答えは出ない。まだ出なくていい。
ステータス画面を閉じて、ダンジョンの入口に再転送する。坑道の冷たい空気が、もう馴染みのものになっていた。苔の匂い、水滴の音、薄暗い松明の光。忘れられた場所が、俺の鍛錬場になりつつあった。
「──もう一周」
十六周目の転送コマンドを叩く。明日も来る。明後日も来る。この坑道を百周したら、何かが変わる気がする。根拠はない。理屈もない。ただ、拳がそう言っている。
暗い通路の奥で、コボルドの赤い目が光った。もう何体目かも覚えていない同じ敵。同じ攻撃パターン。同じ二桁ダメージ。
それでも──拳を握る感覚だけが、毎周、確かに研ぎ澄まされていく。
まだ足りない。まだ先がある。
坑道の最深部、第八層の行き止まりの壁面に、かすかな亀裂が走っているのに気づいたのは、その時だった。前の周回では──なかったはずだ。
薄い光が、亀裂の向こうから漏れている。