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虚拳のアスクレイド

第1話 第1話

第1話

第1話

──また、火力が足りない。

レイドボスの体力ゲージが残り12%で止まったまま、パーティ全体のDPSが回復量を下回った瞬間、俺には分かった。ワイプだ。

ボスの巨腕が振り下ろされるたびに床が揺れ、視界の端に赤い警告エフェクトが点滅する。回復魔法の青い光がパーティメンバーを包むが、その頻度が目に見えて落ちている。ヒーラーのMPが底を突きかけているのだ。タンクのヴォルトが盾を構え直す動作にも、わずかな遅れが出始めていた。

「全滅(ワイプ)! 撤退! ポーション無駄にすんな!」

ギルドマスター・ガルドの怒号がボイスチャットに響く。六人パーティのメンバーが一斉に離脱コマンドを叩く中、俺──レンは最後まで拳を振り続けていた。属性もない素の打撃。レイドボスの装甲に弾かれて、ダメージ表記は二桁。他のメンバーが四桁を叩き出す横で、蚊が刺すような数字が虚しく浮かんでは消える。

拳がボスの鱗に当たるたび、じん、と手首まで痺れるようなフィードバックが返ってくる。VRの触覚再現は忠実だ。硬い、と体が訴えている。ダメージログには「23」「31」「18」──三発入れてようやく他のメンバーの一撃の十分の一。それでも拳を引かなかったのは、意地だった。意地以外の何でもなかった。

VRMMO『アスクレイド・オンライン』。サービス開始から二年目を迎えたこのゲームで、俺は武器を一切装備しない「素手縛り」を貫いている。体術スキルと回避で戦う。それが俺のスタイルだ。美学、と言えば笑われるだろう。実際、笑われている。

転送陣の青白い光に包まれ、ギルドホームに戻される。石造りの広間に六つのアバターが並んだ。壁に掛けられたギルドの旗──交差した剣と炎の紋章が、松明の光に照らされて揺れている。誰も口を開かない。沈黙が重い。VRの空間音響が、誰かが足を擦る微かな音まで拾って耳に届ける。ガルドがゆっくりとこちらを向いた。背中に炎の大剣を背負った、いかにもギルマスという風体。その視線が、俺を射抜く。

「レン」

名前を呼ばれただけで、空気が変わった。他のメンバーがわずかに身じろぎするのが、視界の隅に映った。誰もが、この瞬間が来ることを知っていた顔をしていた。

「今のレイド、お前のDPS合計いくつだった?」

答えなくても分かっているだろう。ログは全員に公開されている。パーティ六人中、最下位。二番目に低いヒーラーの半分以下。

「三万二千」

正直に答えた。声が思ったより平坦に出たことに、自分で驚いた。ガルドは鼻で笑いもしなかった。ただ、ギルドチャットの設定を「公開」に切り替えた。全サーバーに筒抜けになるチャンネル。設定変更の通知音が、カチン、と乾いた音を立てた。

「全員聞いてくれ。ブレイズファングは今日付けでレンを除名する」

公開チャットに、ギルド名と俺の名前が晒される。心臓が冷えた。

「理由は単純だ。火力が足りない。素手縛りとかいう遊びに付き合う余裕はウチにはない。レイドの席は六つしかないんだ。お前一人の美学のために、ギルド全体の進捗が止まる」

言葉が、淡々と、正確に刺さる。ガルドの声には怒りすらなかった。感情を挟む価値もないと言わんばかりの、事務的な口調。それが一番堪えた。怒鳴られたほうがまだ楽だった。

「お前みたいな遊びプレイヤーはソロでやってろ」

反論は浮かばなかった。数字が全てのゲームで、数字が出せない奴に発言権はない。それは分かっている。分かっているから、余計に喉が詰まる。

ギルドメンバーの顔を見回した。タンクのヴォルト。ヒーラーのミナセ。レンジDPSのシーカ。一度もパーティを組んだことがない新人まで含めて、全員が目を逸らしていた。庇う奴は、一人もいなかった。

ミナセとは先月、低レベルダンジョンで素材集めを手伝ったことがある。「レンさんの回避すごいですね」と笑っていたのに。シーカとは装備の見た目について語り合ったこともあった。そんな記憶が、今この瞬間、何の意味もなく脳裏を過ぎる。

「──了解」

それだけ言って、ギルド脱退のコマンドを自分で叩いた。ガルドに除名されるより、一秒でも先に。最後のプライドだった。

システムメッセージが視界の端を流れる。

《ギルド「ブレイズファング」を脱退しました》

直後、連鎖するように通知が降ってきた。

《ヴォルトがフレンドリストから削除しました》 《ミナセがフレンドリストから削除しました》 《シーカがフレンドリストから削除しました》

一件、二件、三件。四件、五件──止まらない。通知音が耳の奥で反響する。ぽん、ぽん、ぽん。軽い電子音のくせに、一つ一つが釘のように胸に刺さる。ギルドメンバー十四人中、十二人が数秒以内にフレンドを切った。示し合わせたように。いや、示し合わせていたのだろう。今日のレイドが最後通牒だったのだ。俺だけが気づいていなかった。

通知音が止んだ時、フレンドリストには二人だけ残っていた。半年以上ログインしていない休止プレイヤー。つまり実質、ゼロ。

フレンドリストのウィンドウを閉じた。指先が、微かに震えていた。

ギルドホームから自動的に転送され、俺は初期エリアの草原に立っていた。風が草を揺らす環境音だけが耳に届く。夕暮れのグラフィックが、やけにきれいだった。橙色の空に、草の匂いまでシミュレートされた風が吹く。地平線の向こうに沈みかけた太陽が、草原を琥珀色に染めている。遠くで初心者プレイヤーらしい二人組がスライムを叩いている光景が、ひどく平和に見えた。この世界は、プレイヤーが一人減ったことなど何も気にしていない。

公開チャットのログを閉じる。きっと今頃、見知らぬプレイヤーたちが「素手縛りで追放ざまぁw」とか打ち込んでいるのだろう。見る必要はない。見たら、たぶん、何かが折れる。

右手を開いて、閉じた。

悔しい、とは少し違う。ガルドの言葉は正しい。数字が出せないのは事実だ。素手縛りが非効率なのも事実だ。パーティに迷惑をかけていたのも事実だ。

正論で殴られると、人は黙るしかない。反論の余地がないから苦しいのではなく、反論の余地がないと自分でも分かっているから苦しいのだ。

じゃあ、折れるか?

武器を装備して、攻略サイト通りのビルドを組んで、四桁ダメージを叩き出す「普通のプレイヤー」になるか。そうすれば誰にも文句は言われない。効率的で、合理的で、正しい選択だ。

──冗談じゃない。

拳を握った。ぎり、と革手袋の音がする。いや、手袋すら装備していない。骨と皮のアバター素体の、素の握り拳。

ここまで馬鹿にされて折れる自分が許せない。

数字が足りないなら、足りるまで殴る。効率が悪いなら、効率を超えるまで回る。素手で届かない場所があるなら、素手で届く場所を自分で作る。

理屈じゃない。損得でもない。こんな非効率な縛りを二年も続けてきたのは、拳一つで世界に挑むこの感覚が好きだからだ。剣を握った瞬間、それは死ぬ。

「──上等だ」

誰に向けたでもない言葉が、草原の風に溶けた。

ステータス画面を開く。レベル47。中堅帯の下限。ギルドのレイド補正が消えた今、ソロで稼げる狩場は限られる。適正レベルのダンジョンは全てパーティ推奨。ソロで回せるのは、格下の低レベルエリアだけ。

ダンジョン一覧をスクロールする。推奨レベル15〜20。25〜30。どれも経験値効率は壊滅的だ。だがその中に、一つだけ妙なダンジョンがあった。

「忘却坑道」──推奨レベル10〜15。実装初期からあるのに攻略情報がほとんどない。報酬が渋すぎて誰も行かないからだ。レア泥の報告はゼロ。ボスなし。ただの周回用雑魚ダンジョン。

だが、素手縛りのソロにはちょうどいい。敵の攻撃力が低いから、被弾しても即死しない。パターンを覚えるには最適の環境だ。

ダンジョンにカーソルを合わせた。現在の挑戦者数──ゼロ。

「よし」

転送コマンドを入力する。行き先は、誰もいない坑道の入口。

草原の夕暮れが消え、視界が暗転する。一瞬の浮遊感のあと、空気が変わった。湿った土と錆びた鉄の匂い。気温が数度下がったような、ひんやりとした空気が肌を撫でる。次に目を開けた時、そこには苔むした岩壁と、奥へ続く暗い通路があった。松明の明かりが弱々しく揺れている。炎が壁に落とす影が、不規則に伸び縮みしていた。水滴が天井から落ちる音が、ぽたん、ぽたん、と一定の間隔で反響している。アクティブプレイヤーの気配は、どこにもない。

忘れられた場所。

なら──ここから始める。

俺は通路の闇に向かって、一歩を踏み出した。右の拳を軽く握り、構える。装備欄は空。武器なし。防具なし。アクセサリーなし。あるのは体術スキルLv8と、二年間で叩き込んだ回避の勘だけ。

坑道の奥から、低レベルモンスターの足音が近づいてくる。湿った地面を引きずるような、鈍い足音。暗がりの中に、二つの赤い目が光った。

──十分だ。

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