第3話
第3話
レンは丘を降りなかった。
斥候の数と動きを見極めなければ、逃げる方角を誤る。雑木林の中を移動する人影は四つ——いや、五つに増えた。街道を外れて南寄りに迂回している。村を正面から襲う気はない。回り込んでいる。裏山への道を塞ぐ動きだ。
背筋が冷えた。これは偶然の遭遇ではない。この村の位置を把握した上で、退路を断ちに来ている。斥候ではなく、先遣隊の尖兵だ。夜風が運ぶ草いきれの中に、かすかに油と鉄錆の匂いが混じっていた。武装した人間が運ぶ匂いだ。三年のあいだ鍬しか握らなかった手のひらが、じわりと汗ばんだ。
丘を駆け下り、バルドの家に飛び込んだ。ミラは既に伝言を届けており、バルドは古い短剣を腰に差して立っていた。囲炉裏の火が老村長の顔を赤く染め、四十年前の兵士の面差しがそこに浮かんでいた。
「何人だ」
「見えたのは五。だが本隊が後方にいる。街道の南を迂回している——裏山への道を塞ぐつもりだ」
バルドの顔が強張った。裏山の間道はこの村から西へ逃げる唯一の道だ。それを断たれれば、谷間の村は袋の鼠になる。
「どれだけ時間がある」
「半刻。南の尾根を越えるにはそれだけかかる。今すぐ動けば、先に裏山の道に人を入れられる」
レンの口は軍師の速度で動いていた。もう抑える余裕はなかった。頭の中で地形図が展開され、兵の配置と移動速度と村人の脚力が数字になって組み合わさっていく。三年間封じていた思考の回路が、錆びるどころか飢えたように回り始めていた。
「女子供と老人を先に出せ。荷物は捨てていい。避難民も含めて全員だ。壮年の男は——」
「殿を務める、と言いたいんだろう」バルドが低く笑った。「農夫にしちゃ、やけに手慣れてるな。まあいい、今は聞かん。動くぞ」
バルドが声を張り上げ、村に号令が響いた。戸口が次々に開き、寝間着のまま飛び出してくる者、泣き叫ぶ子供を抱えた母親、足を引きずる老人。混乱の中、レンは避難民の御者たちにも声をかけ、荷車を捨てて身一つで動くよう指示した。
「ミラ、お前は先に行け」
「先生は」
「後から行く。走れ」
ミラの目に涙が滲んだが、唇を噛んで頷き、避難の列に加わった。小さな背中が闇に溶えていくのを見て、胸の奥が軋んだ。あの子まで巻き込むわけにはいかない。レンはその背中を見届けてから、村の東端に走った。納屋の陰から東街道を覗く。闇はもう深い。松明の光はないが、蹄の音が近づいている。五騎ではない。もっと多い。地面を伝わる振動が重なり合い、低い地鳴りのように腹の底を揺らしていた。
——十騎以上。完全な戦闘部隊だ。
裏山への避難は間に合うか。レンは暗算した。村人と避難民を合わせて六十人以上、うち半数は自力で走れない。裏山の間道の入口まで四半里。急いでも四半刻はかかる。南を迂回している尖兵が間道に到達するまでの猶予も四半刻。ほぼ同時だ。
足の遅い者がいれば、追いつかれる。
レンはバルドのもとへ戻り、村の男たち——バルドを含めて六人が鍬や斧を手にしていた。避難民の御者のうち二人も加わっている。八人。武器は農具と古い短剣のみ。訓練された兵に対して、数で劣り装備で劣り練度で劣る。勝ち目はない。だが時間を稼ぐことはできる。
「東街道の入口に荷車を横倒しにして塞げ。突破に手間取らせるだけでいい。戦うな、遅らせろ」
レンの指示にバルドが頷き、男たちが動いた。荷車が二台、街道の狭い箇所に横向きに置かれ、即席の障壁が出来上がった。その間にレンは裏山の間道へ走った。避難の列は半分ほどが間道に入っている。だが後列は遅い。火傷を負った避難民を肩で支えて歩く者、泣きじゃくる幼児を二人抱えた母親。
間に合わない、とレンの頭脳が冷たく告げた。
その瞬間、南の尾根に影が現れた。松明が三つ、闇の中に浮かんだ。迂回した尖兵だ。予想より早い。間道の入口まであと二町もない。
避難の列に悲鳴が上がった。先頭が立ち止まり、後続が詰まる。最悪の展開だった。列が止まれば、後方から東街道の本隊にも追いつかれる。
「止まるな、進め!」レンが叫んだ。だが声だけでは足の遅い者は速くならない。
南の尾根から降りてくる尖兵は三騎。軍装の輪郭が松明に照らされ、鎧の金具が鈍く光っている。槍を構え、馬を駆り、間道の入口へ一直線に向かっている。あと一分もすれば、退路は完全に塞がれる。
レンは間道の脇に落ちていた木の枝を拾い、尖兵に向かって走り出した。馬鹿げた行為だ。枝一本で騎兵に何ができる。だが他に手がない。一秒でも長く退路を保たなければ、六十人が袋の鼠になる。
三騎のうち先頭の一騎がレンに気づき、槍を低く構えた。馬が加速する。蹄が地面を叩く振動が足裏に伝わり、突き出された槍の穂先が月明かりに白く煌めいた。
——ここまでか。
覚悟した瞬間、背後から風が唸った。
風ではなかった。地を裂くような蹄の音が闇を貫き、レンの右脇を何かが疾駆した。白い残像。月光を纏ったような白銀の甲冑が、夜の中で燐光を放っていた。すれ違いざま、風圧が頬を叩き、馬体の熱が一瞬だけ肌をかすめた。
一騎。
たった一騎の騎馬が、レンを追い越し、南の三騎に正面から突っ込んだ。
先頭の尖兵が槍を突き出す。白銀の騎手はそれを体ごと捻って躱し、すれ違いざまに剣を振るった。金属が裂ける甲高い音が夜気を割り、尖兵が鞍から弾き飛ばされた。馬だけが悲鳴を上げて走り去る。一合。たった一合だった。
二騎目が馬首を返して斬りかかる。白銀の騎手は馬を止めず、むしろ加速して懐に飛び込んだ。剣が閃き、二騎目の槍が柄の半ばで断ち切られた。穂先が宙を舞い、柄だけを握った兵士が呆然とした次の瞬間、盾の縁が顎を打ち抜いていた。落馬。
三騎目は明らかに怯んでいた。馬を後退させ、距離を取ろうとする。だが白銀の騎手は追った。月の下を滑るように馬を駆り、一息で間合いを詰めた。三騎目が槍を構え直す暇もなく、剣の峰が手首を打った。槍が落ち、兵士は手綱を手放して馬から転がり落ちた。
十数秒。数えるほどの呼吸の間に、三騎の尖兵が地に伏していた。
レンは枝を握ったまま立ち尽くしていた。信じがたいものを見た目が、それでも冷静に分析しようとしている。あの剣捌きは尋常ではない。一対三を正面から制し、しかも一人も殺していない。急所を外し、戦闘力だけを奪っている。これは単なる膂力ではない。技と判断の極致だ。
白銀の騎手が馬を返し、レンの前に歩み寄った。月明かりが兜の下の顔を照らした。
若い女だった。
銀灰の髪が兜の縁からこぼれ、夜の風に靡いている。鍛え抜かれた体躯を覆う甲冑は、月光の下で蒼白い輝きを放っていた。顔立ちは端正だが、柔らかさはない。戦場だけが磨き上げる、刃のような美しさだった。その瞳がレンを真っ直ぐに見据えた。迷いのない、確信に満ちた眼差し。
「『百戦の頭脳』——レン・アルスフェルト」
本名を呼ばれ、レンの全身が硬直した。三年間、誰にも名乗らなかった名。追放令とともに抹消されたはずの名。喉が干上がり、握った枝の先が微かに震えた。
「何者だ」
「カルディア王家親衛隊、第一席。セラ・ヴァイスリング」
レンの記憶が反応した。王家親衛隊第一席——国王直属の最精鋭にして、王家の剣そのもの。「鉄壁」の二つ名で知られる、カルディア最強の守護騎士。その存在は知っていたが、会ったことはなかった。軍務院と親衛隊は管轄が異なる。だからこそ、なぜ彼女がここにいるのかが分からない。追放された元軍師を、王家の剣が探す理由が。
「東の本隊が来る。話は後だ」
セラが馬上からレンに手を差し伸べた。
「避難民は間道に入れた。私が殿を務める。だがその前に一つだけ」
セラの目が、月の光を受けて静かに燃えていた。
「あなたを探していた。カルディアには、あなたの頭脳が要る」
東の街道から、再び蹄の音が迫っていた。今度は荷車の障壁を破壊する轟音も混じっている。本隊が来る。レンは差し伸べられた手を見つめた。三年間、誰の手も取らなかった手。土と石しか掴まなかった手。
蹄の音が、大きくなる。