Novelis
← 目次

追放軍師の和平戦記

第1話 第1話

第1話

第1話

夢の中では、まだ戦場にいた。

灰色の平野に無数の旗が翻り、地鳴りのような鼓声が腹の底を震わせる。空気は鉄錆と煙の臭いに満ちていた。レンは丘の上に立ち、眼下に広がる布陣を睨んでいた。左翼の騎兵隊が予定より半刻早く動いている。砂塵を巻き上げて突進する馬群の轟きが、ここまで地面を伝わってくる。伝令を飛ばさなければ——だが指を上げた瞬間、足元の地面が崩れ、兵士たちの顔が泥の中に沈んでいく。助けを求める手が何百と伸び、そのひとつひとつに見覚えがあった。自分の策で死地に送った者たちだ。声が重なる。軍師殿、軍師殿、なぜ我らを——

目が覚めた。

天井の木目が暗がりに浮かんでいる。粗末な藁葺きの小屋。寝台と呼ぶのもおこがましい木板の上で、レンは荒い息を整えた。背中は寝汗でぐっしょりと濡れ、心臓がまだ戦場の速さで打っている。右手が無意識に握りしめられていた。爪が掌に食い込み、微かな痛みが現実への手がかりになる。いつもそうだ。三年経っても、夜が来るたびに戦場へ引き戻される。

汗を拭い、立ち上がる。窓の外はまだ薄暗いが、東の稜線がわずかに白んでいた。冷たい山の空気が肺を刺す。ここはカルディア国境から東へ三日の距離にある辺境の寒村ハルベン。石垣に苔が這い、風車小屋の羽根は半分が折れたまま放置されている。二十戸ほどの家々が谷間に身を寄せるように並ぶ、忘れられた集落だ。大陸の覇権を競う大国の争いなど、ここでは焚き火の向こうの昔話に過ぎない。

レンは井戸で顔を洗い、納屋から鍬を引き出した。日が昇る前に畝を三列は起こさなければ、春蒔きの麦が間に合わない。固い土に刃を突き立てるたび、肩と腰に鈍い痛みが走る。まだ霜が残る地面は石のように硬く、一振りごとに鍬の柄から衝撃が手首まで響いた。吐く息が白く、朝の冷気に溶けては消える。額から落ちた汗の雫が土に染みて、小さな黒い点を作った。軍師の手は本来、筆と地図を握るためにある。だがその手はもう三年、土と石しか掴んでいない。指の皮は厚くなり、かつて繊細に駒を動かした指先には無数のひび割れが走っている。

「百戦の頭脳」。かつて覇権国カルディアの軍務院でそう呼ばれた男が、今は名もなき農夫として鍬を振るっている。宮廷の権力闘争に敗れ、謀反の濡れ衣を着せられ、国外へ追放された。弁明の機会すら与えられなかった。レンが築いた戦績も、救った兵の数も、宰相ドルクの一筆で「反逆者の虚飾」に塗り替えられた。

畝の端まで掘り返したとき、背後で枯れ枝を踏む小さな足音がした。

「先生、また朝が早い」

振り返ると、薄茶の髪を乱雑に束ねた少女が立っていた。ミラ。十になったばかりの戦災孤児で、二年前に難民の群れからはぐれてこの村に流れ着いた。痩せた体に大人の古着を纏い、袖を何重にも折り返しているのに、それでも裾は膝まで垂れている。それでも目だけは澄んでいる。朝露に濡れた野花のような、怯えを知りながらなお前を向く瞳だった。

「日が出る前に畑をやらんと、昼は暑くなる」

「嘘。また眠れなかったんでしょう」

見透かされている。レンは苦笑して鍬を地面に突き立てた。ミラはその反応を見て小さく唇を結んだが、追及はしなかった。代わりに懐から折り畳んだ粗紙を取り出し、レンに差し出した。

「今日の字の練習はやったか」

「やった。『策』って字が難しい。先生、この字なんで竹冠なの」

「竹簡だ。昔は竹を削った板に文字を書いた。策とは本来、竹の札に記した計画のことだ」

ミラは感心したように頷き、それから不思議そうに首を傾げた。

「先生って、ただの農夫じゃないよね」

「ただの農夫だ」

「ただの農夫は『策』の語源なんか知らないよ」

レンは答えず、再び鍬を握った。ミラに文字と算術を教えること——それが今の自分に残された、唯一まともな営みだった。かつて数万の兵を動かした頭脳は、今はひとりの少女に字を教えるために使われている。それでいい、と思おうとした。思おうとして、三年が経った。

昼前、村の共同井戸の前で、行商人のダルスが人を集めていた。月に一度この村を訪れる男で、日焼けした顔に刻まれた皺は街道の埃と同じ色をしている。普段は塩や干し肉を売りながら世間話を置いていくだけだが、今日は様子が違った。声が低く、眉間に深い縦皺が刻まれている。荷車に積まれた商品もいつもの半分以下で、油布が乱雑にかけられたままだった。急いで来たのだ。

「ゼッペス街道が閉まった。東の商隊が一つも来ない」

村人たちがざわめいた。ゼッペス街道はこの辺境と東方諸国を結ぶ唯一の幹線路だ。閉鎖されれば塩も鉄も入らなくなる。

「なぜだ」と村長のバルドが問うた。白髪交じりの髭を片手で握り、もう片方の手は無意識に腰の古い短剣に触れていた。四十年前は国境警備の兵だったと聞く。

「わからん。だが峠の手前で見たんだ。武装した騎兵の一団が東へ走っていった。旗は——見たことのない紋章だった。黒地に赤い鷲」

レンの手が止まった。井戸の陰で水汲みをしていた手が、一瞬だけ凍りついた。

黒地に赤い鷲。グラオスの軍旗だ。

東方の軍事大国グラオス。カルディアと大陸の覇権を二分する強国であり、国境で睨み合いを続けてきた宿敵。その軍旗がなぜ、カルディア領の遥か東のこの辺境に現れる。答えは一つしかない——国境が破られたのだ。

「他に何か聞いたか」

レンが口を開いた。声を意識して抑えたが、それでも周囲の空気が変わった。普段ほとんど喋らない流れ者が、妙に鋭い目をして行商人に問うている。

ダルスは警戒するように目を細めたが、やがて低い声で続けた。

「峠の関守が言ってた。東で大きな戦が始まったと。詳しいことはわからん。だが——逃げてくる人間が増えている」

村人たちの顔に不安が広がった。戦など遠い世界の出来事だと、誰もが思っていた。だが街道の閉鎖は現実であり、東から流れてくる噂は日を追うごとに不穏さを増していた。

レンは井戸の水を桶に汲み、何も聞かなかったような顔で畑に戻った。だが頭の中では、三年ぶりに軍師の思考が回り始めていた。

グラオスの騎兵がこの辺境に出没しているなら、国境の要塞線は機能していない。カルディア軍の防衛線が崩壊したか、あるいは——迂回されたか。レンの脳裏に、かつて自分が描いた国境地図が浮かんだ。地形、河川、峠の位置。要塞間の死角。三年前に指摘した防衛線の弱点を、もし敵が突いたのだとすれば——あの報告書は宰相によって握り潰されたはずだ。いずれにせよ、ここは安全ではなくなる。先遣隊が来るなら、早くて十日、遅くとも二十日。村人を逃がす準備が要る。

——いや。俺には関係ない。

レンは首を振った。自分はもう軍師ではない。追放された罪人だ。この村の農夫であり、ミラの先生であり、それ以上の何者でもない。

だが夕暮れ、ミラに算術を教えながら、レンの視線は何度も東の空に向かった。茜色に染まった稜線の向こう、遠い戦場で今も誰かが死んでいる。かつての部下たち——レンを庇って左遷されたヨルク、情報戦の天才カイラ。あいつらは今、どこにいる。生きているのか。

ミラが板に書いた数字を差し出した。

「先生、これ合ってる?」

「……ああ、合っている。よくできた」

「先生、怖い顔してる」

レンは表情を繕った。だが目の奥に灯った光は、三年間封じていたものだった。戦場を読む目。盤面を俯瞰する軍師の眼差し。

その夜、レンはまた夢を見た。だが今度は違った。泥に沈む兵士たちではなく、燃える要塞が見えた。三つの要塞が同時に炎に包まれ、その向こうに黒地に赤い鷲の軍旗が林立している。炎の熱気が頬を焼き、崩れ落ちる城壁の轟音が鼓膜を叩いた。夢の中で誰かが叫んだ。

——軍師殿、あなたがいれば。

目を覚ましたとき、東の空はまだ暗かった。遠くで狼の遠吠えが聞こえる。いや、違う。あれは狼ではない。レンは耳を澄ませた。微かだが確かに、風に乗って聞こえてくる。低く規則的な、地を叩くリズム。

軍馬の蹄の音だ。一頭ではない。

レンは寝台から跳ね起き、窓を開けた。東の暗がりに、小さな火の列が見えた。松明だ。街道を真っ直ぐこちらに向かっている。

戦火が、ここまで来た。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ