Novelis
← 目次

解析眼の情報屋

第3話 第3話

第3話

第3話

品川埠頭の廃工場群は、地図で見るより広かった。

始発電車を乗り継ぎ、天王洲アイルから徒歩で二十分。再開発エリアのタワーマンション群を抜けると、風景が唐突に切り替わった。真新しいコンクリートと硝子の街並みが途絶え、錆びたフェンスと雑草に覆われた灰色の一帯が現れる。朝の光が差しているのに、空気の温度が二度ほど下がった気がした。潮の匂いに混じって、油と腐食した金属の臭いが鼻をつく。

フェンスの破れ目から敷地に入った。足元は罅割れたコンクリートで、隙間から膝丈の雑草が伸びている。倉庫が六棟、工場が三棟。どれも窓硝子が割れ、壁面にスプレーの落書きが残っている。だが人の気配はない。浮浪者の巣窟と聞いていたが、テントの一つもなかった。

衛星写真で目をつけていた「屋根が綺麗な一棟」は、敷地の最奥にあった。他の建物から五十メートルほど離れた位置に、ぽつんと建っている。近づいてみると、確かに屋根のトタンが新しい。壁面のコンクリートも補修された跡がある。出入口の鉄扉には錠前がかかっていたが、裏手に回ると窓の一つが板で塞がれているだけだった。板の釘が緩んでいる。誰かが頻繁に出入りしている証拠だ。

日中の下見のつもりだった。内部の構造を確認し、夜に備えて退路を把握する。それだけのはずだった。

板を外して窓から中に入ると、工場内部は予想より広かった。天井が高く、かつてプレス機か何かが並んでいたらしいコンクリートの床に、等間隔でアンカーボルトの跡が残っている。壁際に錆びた鉄製の階段があり、二階の管理室へ続いていた。窓から差し込む朝日が、埃の粒子を白く照らしている。

異様だったのは、床だ。

コンクリートの床面に、黒い染みが幾つも広がっていた。最初はオイル染みかと思った。だが近づいてしゃがみ込むと、染みの縁が不規則に波打っている。油ならもっと均一に滲むはずだ。そして染みの中心部が、わずかに窪んでいた。まるで何かがコンクリートを——溶かしたように。指先で触れかけて、やめた。本能が警告を発していた。

染みは七つ。それぞれが人一人分ほどの面積で、工場の中央に集中している。

スマートフォンで写真を撮りながら奥へ進んだ。すると工場の最奥、壁際に積まれた木箱の陰に、もう一つの空間があった。木箱をずらすと、地下への階段が現れた。コンクリートの段が闇の中に消えている。階段の壁面には、指で引っ掻いたような傷がびっしりと刻まれていた。上に向かって。這い上がろうとした爪痕にしか見えなかった。

ここで引き返すべきだった。

だが階段の下から、微かに音が聞こえた。人の呻き声のような、低く湿った音。篠崎がまだ生きている可能性が、俺の足を止めた。

録画カメラを起動し、スマートフォンのライトを点けて階段を降りた。十二段。地下は天井が低く、配管が剥き出しで走っている。空気が重い。湿度が異常に高く、息を吸うと肺の中にぬるい膜が張るような感覚がした。ライトの光が届く範囲は三メートルほど。その先は、光を吸い込むような暗闇だった。

二歩進んで、俺は止まった。

暗闇の中に、何かが居た。

最初は目の錯覚だと思った。闇の濃淡が揺らいでいるだけだ、と。だがライトを向けると、そこには人の形をした輪郭があった。身長は二メートル近い。人間の体型に似ているが、関節の曲がり方がおかしい。肘が逆に折れ、膝が前に突き出し、首が九十度横に傾いている。表面は黒い——光を照らしているのに影のように黒い。質感がない。のっぺりとした黒が、人の形に凝っている。

そしてその足元に、篠崎がいた。

仰向けに倒れた篠崎の体から、黒い糸のようなものが何十本も伸びて、あの「何か」に繋がっていた。糸は篠崎の口、鼻、耳、目——顔の穴という穴から生えていた。篠崎の体は痙攣していた。まだ生きている。だが顔が——顔が半分なかった。右半分の輪郭がぼやけて、溶けかかったろうそくのように崩れている。目も鼻も、形を失って肌色の膜になっていた。

黒い何かは、篠崎を喰っていた。

物理的に咀嚼しているのではない。糸を通じて、篠崎という人間の「情報」を——存在そのものを吸い上げている。顔が崩れているのは、篠崎の顔を構成する情報が抜き取られているからだ。目撃者の記憶がぼやけるのも、監視カメラに映らなくなるのも、これが原因だ。この化け物は人間を「存在ごと」消す。

腹の底から込み上げてきたのは、恐怖よりも吐き気だった。視界が歪んで床が傾き、壁に手をついて体を支えた。指先が震えている。逃げろ、と体が叫んでいる。

俺は身を翻した。階段に向かって走った。だが三歩目で足が止まった。

階段の入口に、もう一体いた。

同じ黒。同じ人の形。だがこちらは小さい——子供ほどの体躯で、天井の配管にぶら下がっていた。首がゆっくりと回転し、顔のない顔がこちらを向いた。

退路を塞がれた。

背後で気配が動いた。振り返ると、篠崎を喰っていた大きい方が立ち上がっていた。篠崎の体はもう動いていない。顔だけでなく全身の輪郭がぼやけ、人の形を辛うじて留めている透明な殻のようになっていた。大きい方の黒い体が、一歩こちらに踏み出した。足音はない。コンクリートの床に影も落ちない。ただ闇が移動している。

小型の方が配管から落下してきた。俺は横に飛んで避けたが、背中が壁にぶつかった。催涙スプレーを引き抜いて噴射した。白い霧が黒い体を包んだが、何の反応もない。霧がそのまま黒に吸い込まれて消えた。

大きい方が腕を伸ばした。その腕は通常の長さの倍以上に引き伸びて、俺の首に向かって——

視界が灼けた。

両目の奥で、焼けた鉄を押しつけられたような激痛が炸裂した。声にならない叫びが喉を裂いて、俺は床に膝をついた。目を押さえた両手の隙間から涙が溢れ、視界が真っ白に飛んだ。

痛みは三秒ほどで引いた。だが、目を開けたとき——世界が変わっていた。

暗闇が消えていた。正確には、暗闇の上に半透明の光の層が重なっていた。薄い青緑色の光で構成された格子状の線が空間を覆い、壁や床や配管の輪郭をなぞっている。まるでモニター上の三次元モデルを、現実に重ね合わせたかのような光景。

そして黒い化け物の体に、文字が浮かんでいた。

白い光の文字列。読める。

《構造体密度:不均一 左胸部0.3 / 右肩部0.7 / 頭部0.1》

《動作パターン:直進捕食型 旋回速度=遅延》

《核位置候補:胸腔内 確信度62%》

《接触判定半径:1.2m 現在距離:2.8m——2.5m——》

数値が減っている。近づいてきている。

理解が追いつかない。何が見えている。なぜ読める。だが俺の脳は、理解より先に情報を処理し始めていた。十年間、膨大なデータを捌いてきた情報屋の本能が、この異常な視界を「使えるデータ」として受け入れた。

旋回速度が遅い。直進型。なら横に回り込めば追いつかれない。

左胸部の密度が0.3——構造が薄い。そこが隙間だ。

俺は床を蹴って右に跳んだ。大きい方の腕が空を切る。小型の方が飛びかかってきたが、青緑の格子線が動きの軌道を先に描いていた。軌道の外側に体をずらす。黒い体が目の前を通過し、壁に激突した。

配管の隙間を潜り、鉄製の階段を駆け上がった。地上階に出る。だが出入口の鉄扉は閉まっている——内側から。誰かが、あるいは何かが施錠した。

背後で階段を登ってくる気配。振り返ると、視界の光の層が壁面の情報を映し出した。

《構造材:コンクリートブロック 厚さ120mm》

《窓枠:鋼製 腐食率74%——衝撃耐性低下》

窓。入ってきた裏手の窓。板で塞がれていた、あの窓。

俺は近くに落ちていた鉄パイプを掴み、窓枠に叩きつけた。一撃目で板が割れ、二撃目で腐食した窓枠が砕けた。青緑の文字列が正確だった。腐食率74%——人間の力で破壊できるぎりぎりの数値。

窓から外に飛び出した。地面までの高さは二メートル弱。着地の衝撃が足首から膝に突き抜け、そのまま前のめりに転がった。雑草とコンクリートの破片が頬を切った。

振り返った。窓の中に、黒い輪郭が見えた。だが外には出てこなかった。朝日が差し込む窓枠の光を避けるように、黒い体が後退していく。

光。日光が弱点なのか、あるいは単に活動時間帯ではないのか。どちらにしても、今は助かった。

フェンスの破れ目まで走った。敷地を出て、再開発エリアのコンクリート道路に足をつけた瞬間、膝が砕けた。道路に両手をついて、胃の中身を吐いた。酸っぱい液体がアスファルトに広がり、朝の光に照らされて白く光った。目の奥がまだ熱い。涙が止まらない。視界の青緑の光はすでに消えていたが、瞼の裏に残像が焼きついていた。

あの文字列。構造体密度。動作パターン。核位置候補。

俺の目に、何が起きた。

しばらく動けなかった。通りかかったジョギング中の男が「大丈夫ですか」と声をかけてきたが、手を振って追い払った。大丈夫なわけがない。人間が人間でないものに喰われる光景を見た。そして俺自身の体にも、人間離れした何かが芽生えた。

篠崎は、もう助からない。あの時点で顔が半分消えていた。人間としての情報を吸い尽くされた体が元に戻るとは思えない。

ジャケットの内ポケットに手を入れた。録画カメラ。再生ボタンを押す。地下に降りてからの映像が流れた——だが化け物は映っていなかった。暗闇の中で俺が一人で怯え、転び、壁にぶつかっているだけの映像。篠崎の体すら映っていない。

カメラにも映らない。あいつらは最初から、記録される側の存在ではないのだ。

スマートフォンを取り出した。画面に映る自分の顔は土と血で汚れ、目の下に涙の筋が何本も走っていた。だがそれ以外に変わった点はない。瞳の色も、形も、見た目は昨日と同じだ。

あの視界が何だったのかはわからない。再び発動するのかもわからない。だが一つだけ確かなことがある。

あの文字列がなければ、俺は死んでいた。

立ち上がり、ジャケットの土を払った。足が震えていたが、歩ける。駅に向かいながら、頭の中で情報を整理した。

黒い化け物。人間の存在を喰う。複数体。日光を避ける。カメラに映らない。そして俺の目に突然芽生えた、化け物の構造を読み取る能力。

説明のつかない現象。だが構造はある。構造があるなら——

ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面を見ると、非通知着信。昨日と同じだ。出ると、昨日と同じ女の声が言った。

「忠告を無視したな。次はない」

「一つ聞かせろ。あんた、あの化け物の側の人間か」

沈黙が二秒。それから女は、僅かに声のトーンを変えて言った。

「——お前の目、覚醒したのか」

通話が切れた。覚醒。女はこの現象を知っている。そして俺の目に起きたことにも、名前がある。

情報屋は、ここで引き返せない。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!