第2話
第2話
篠崎が消えた地点は、職安通りから一本裏に入った路地だった。
午前三時の歌舞伎町は、まだ完全には眠らない。客引きの声、酔っ払いの怒号、どこかのビルから漏れるベースの重低音——だが俺が立っている路地には、それらの喧騒が不自然なほど届かなかった。幅二メートルほどの路地。左右は雑居ビルの壁に挟まれ、足元のアスファルトは罅割れて雑草が顔を出している。街灯は一本だけ。その光の輪の中に、監視カメラの映像で篠崎が最後に映っていた地点がある。
しゃがんで地面を見た。靴跡、煙草の吸殻、コンビニのレシート。どれも篠崎のものかどうかは判断できない。俺は情報屋であって鑑識じゃない。物理的な痕跡を読むのは専門外だ。指先でアスファルトの罅に触れると、夜気に冷やされた地面の冷たさが骨まで伝わった。四月の夜は、まだ冬の名残を引きずっている。
だが、情報の流れなら読める。
スマートフォンを取り出し、この路地をカバーしている監視カメラのリストを呼び出した。歌舞伎町は日本で最も監視カメラの密度が高い地域の一つだ。俺のダッシュボードには、公設カメラだけでなく店舗の防犯カメラ、マンションのエントランスカメラ、ATMの監視映像まで——合法・非合法を問わず三百台以上のフィードが流れ込んでいる。この情報網を構築するのに三年かかった。歌舞伎町で起きることは、すべて俺のモニターに映る。
そのはずだった。
路地の入口と出口には、それぞれカメラがある。入口側のカメラには、午後十一時七分に篠崎が路地に入る映像が残っていた。だが出口側のカメラには、篠崎が出てくる映像がない。路地の途中で消えている。そして入口側のカメラを巻き戻すと、篠崎の数秒後にあのフードの人影が同じ路地に入っていく。フードの人影もまた、出口側には映っていない。
二人とも、この路地の中で消えた。
俺は路地を端から端まで歩いた。壁に触れ、地面を踏み、排水溝を覗いた。隠し扉も地下への入口もない。ただの行き止まりのない、普通の路地だ。壁の表面は湿ったコンクリートで、指に黒ずんだ水滴がついた。どこかで水道管が漏れているのか、微かに錆びた水の匂いがする。それ以外には何もない。人が二人消えたという事実だけが、この場所に張り付いている。
事務所に戻り、コーヒーを淹れた。安いインスタントの粉を湯に溶かしながら、モニターの前に座る。マグカップから立ち上る湯気が、モニターの青白い光に照らされて揺れた。ここからが俺の本領だ。
消えた四人の最終地点を地図上にプロットした。一人目は大久保駅近くの高架下。二人目は新大久保のコリアンタウン裏。三人目は西新宿の雑居ビル街。四人目——篠崎が、職安通りの裏路地。
点を結ぶと、弧を描く。新宿区の北西部を囲むように、四つの消失地点が並んでいた。
次に、各地点の監視カメラ映像を時系列で重ねた。消失が起きた時間帯の前後三十分間、各地点のカメラに何が映っていたかを洗う。ここで異常が見えた。
四つの地点すべてで、消失の直前に三十秒から一分程度の「空白」があった。映像が途切れるのではない。カメラは回り続けている。だが、その時間帯だけ通行人が一人も映らない。深夜とはいえ新宿だ。三十秒間、完全に人通りがゼロになる瞬間など通常はあり得ない。
まるで、周囲の人間が無意識にその場所を避けたかのように。
さらに掘った。四つの消失地点を中心に、半径五百メートル以内の監視カメラ全てについて、過去一ヶ月の映像を解析プログラムに通した。人流の密度を時間帯ごとにヒートマップにすると、奇妙なパターンが浮かび上がった。
四つの地点を含む特定の経路上で、深夜帯の人流密度が周囲より有意に低い。まるで目に見えない壁があるかのように、人々は無意識にその経路を迂回している。だが日中は正常だ。太陽が沈んだ後にだけ、街の中に「通れない道」が現れる。
その経路を地図上で追った。四つの消失地点を繋ぐ弧は、新宿から南東へ伸び——湾岸エリアに至る線と合流していた。
経路の終点にあるのは、お台場の南、品川埠頭の外れに点在する廃工場群だった。
二十年前に閉鎖された倉庫や工場がそのまま放置されている一帯。再開発計画が何度も持ち上がっては頓挫し、今は不法投棄と浮浪者の巣窟になっている——というのが表向きの情報だ。俺の裏社会の情報網でも、あのエリアについては妙に情報が薄い。ヤクザも半グレも、あの一帯には近づきたがらない。理由を聞いても誰も明確に答えない。「なんとなく嫌な感じがする」「用がない」。
また同じだ。判で押したような曖昧さ。
俺は裏社会の協力者に片端から連絡を取った。廃工場群に出入りしている人間がいないか。最近、あのエリアで異変がなかったか。だが返ってくる答えは、どれも同じだった。
「あそこ? いや、特に何も聞かないけど」
「行ったことないな。なんでか知らないけど」
「悪いことは言わない、やめとけ灰島」
最後の一人だけが、少し違う反応を見せた。十年来の付き合いがある闇金の元締め・蛯名だ。電話越しの声が一瞬だけ固くなった。
「湾岸の廃工場か。二ヶ月前に、うちの取り立て屋が一人、あの辺で飛んだ。夜中に借金取りに行って、そのまま帰ってこなかった。携帯も繋がらない。警察にも届けてないがな」
「——消え方は?」
沈黙が三秒ほど落ちた。蛯名は煙草を吸ったのか、吐息のような音が受話器越しに聞こえた。
「知らん。ただ、同行してた若いのが一つだけ言ってた。工場の敷地に入った途端、先輩の姿が見えなくなった。目を離したわけじゃない、視界から消えたんだと。そいつ怖がって、すぐ逃げたらしい」
通話を切った後、俺はしばらくモニターを睨んでいた。
五人目。蛯名の取り立て屋を含めれば、この「消失」に巻き込まれた人間は少なくとも五人。うち四人が俺の依頼人。一人は偶然あのエリアに踏み込んだだけの人間。
つまり、俺の依頼人が狙われているわけじゃない。あのエリア——湾岸の廃工場群そのものが、消失の「装置」だ。俺の依頼人たちは、何らかの方法であの場所に誘導されていた。そして、あのフードの人影が「案内人」。
仮説は立った。だが仮説を検証するには、現地に行くしかない。
デスクの引き出しを開け、中身を確認した。催涙スプレー、折り畳みナイフ、小型の録画カメラ、予備のスマートフォン——情報屋の護身道具一式。影のない何かを相手にして、どれだけ役に立つかはわからない。
時刻は午前五時。東の空が白み始めている。異常が起きるのは夜だ。日中の下見なら、まだ安全だろう——そう自分に言い聞かせた。だが頭の裏側では、あの路地に立ったときの異様な静けさがまだ肌に貼りついていた。音が遠のくあの感覚。世界から一枚隔てられたような、薄い膜の内側にいる感覚。あれが「消失」の入口だとしたら、俺はすでに片足を踏み入れていたのかもしれない。
電車の始発まであと三十分。品川埠頭の廃工場群まで、乗り継ぎで四十分。俺は録画カメラをジャケットの内ポケットに入れ、事務所の鉄扉を押し開けた。
階段を上がり、地上に出ると、夜明けの風がビルの隙間を吹き抜けていった。歌舞伎町のネオンが、朝の光に負けて色褪せている。始発を待つ酔客がちらほらと駅へ向かう中、俺も新宿駅に足を向けた。
スマートフォンの画面には、廃工場群の衛星写真が映っていた。錆びたトタン屋根が並ぶ灰色の一帯。その中で一棟だけ、屋根が妙に綺麗な建物があった。他の工場が二十年分の風雨で朽ちているのに、その一棟だけ雨漏りの痕跡がない。誰かが手入れしている。
改札を通り、ホームに立った。始発のアナウンスが構内に響く。線路の向こうに、朝焼けの空が広がっていた。オレンジ色の光が目に染みて、俺はサングラスをかけた。
四人の依頼人が消えた。影のない何かが街を歩いている。そして深夜の新宿には、人が無意識に避ける「見えない道」がある。
全ての線は、湾岸の廃工場に繋がっている。
電車が滑り込んできた。ドアが開く。俺は一歩踏み出し——ポケットの中のスマートフォンが震えた。非通知着信。出ると、聞き覚えのない女の声が、低く、平坦に言った。
「それ以上近づくな、情報屋」
通話は一方的に切れた。俺は電車に乗り込み、ドアが閉まるのを待ってから、口の端を持ち上げた。
警告が来たということは、正しい方向に進んでいるということだ。