第1話
第1話
金の匂いがする人間は、必ず目が泳ぐ。
歌舞伎町の雑居ビル地下二階。看板もない、ただの鉄扉の向こう側が俺の事務所だ。六畳ほどの空間にデスクとモニター三台、壁一面に貼られた付箋とプリントアウト。換気扇の音だけが低く唸る、光の届かない箱。コンクリートの壁は年中じっとりと湿気を帯びていて、夏場は黴の匂いが鼻につく。だが俺にとってはこの暗さと閉塞感こそが、集中を研ぎ澄ます装置だった。灰島蓮——それが俺の名前で、情報屋というのが俺の商売だ。
目の前に座っている男は、山城組の若頭補佐・黒田。革張りの椅子に深く腰を沈め、煙草の煙を天井に吐いている。だが左手の人差し指が、三十秒に一度テーブルを叩く。緊張している。黒田ほどの男がこの癖を見せるのは、組の行方を左右する場面だけだ。コツ、コツ、と爪がテーブルの表面を叩く音が、換気扇の唸りに重なる。
「で、どうなんだ灰島。幹部会の票読みは」
「結論から言います。内海が裏切ります」
黒田の指が止まった。煙草を持つ右手がわずかに震えたのを、俺は見逃さなかった。
「内海が——あの内海がか」
「先週、内海さんの愛人名義の口座に、竜胆会系のフロント企業から四百万入ってます。タイミングは幹部会の三日前。票を売ったんでしょう」
俺はモニターを回して、口座の動きをまとめた資料を見せた。銀行のシステムに侵入したわけじゃない。内海の愛人が通っているエステの店長が、俺の情報網の末端にいるだけだ。人間関係の鎖を辿れば、金の流れは必ず見える。
黒田は資料を睨み、やがて封筒をデスクに置いた。
「相変わらずだな、お前は。人間じゃねえよ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
黒田が去った後、俺は封筒の中身を確認した。百五十万。情報の対価としては悪くない。だが金を数える指先に、いつもの充足感がなかった。一万円札の手触りが妙に薄っぺらく感じる。ここ最近ずっとこうだ。金を稼ぐこと自体に飽きたわけじゃない。ただ、指の先で情報を捌いて報酬を受け取るだけの日々が、どこか輪郭を失い始めていた。
デスクに戻り、三台のモニターを順に見る。左のモニターには歌舞伎町の監視カメラ映像を集約したダッシュボード。中央には裏社会の人間関係を可視化した相関図。右には、ここ二週間で俺が追っている案件のファイルが開いていた。
「消える依頼人」。この三週間で三件。
最初は半グレの資金洗浄ルートを知りたがった男。金を払い、情報を受け取り、翌日に連絡が途絶えた。携帯は解約済み、住所は空き部屋。まるで最初から存在しなかったみたいに。
二人目は風俗店の経営者。競合店の裏オーナーの情報を買った。やはり翌日に消えた。
三人目はフリーライター。政治家の裏献金について嗅ぎ回っていた女で、納品した情報を確認するメールを最後に、やはり消えた。
三人に共通点はない。年齢も性別も職業もバラバラ。繋がりがあるとすれば、全員が俺の客だったということだけだ。
だが俺が引っかかっているのは、消え方だ。
普通、人間が街から消えるときには痕跡が残る。逃げるにしても殺されるにしても、金の動き、交通機関の記録、監視カメラ——どこかに足跡がある。それが、ない。監視カメラの映像を遡ると、三人とも特定のエリアを通過した瞬間から記録が途切れている。映像が消されたのではなく、そもそも映っていない。カメラが故障したわけでもない。前後のフレームは正常で、その人物だけがフレームから抜け落ちている。
さらに奇妙なのは、目撃者の証言だった。三人目のライターが最後に目撃された居酒屋の店主に話を聞いたとき、男はこう言った。
「いや、確かにいたと思うんだけど……顔が思い出せないんだよな。ぼやけるっていうか」
別の目撃者も同じだった。「いた気がする」「でも顔は」「なんか霞がかかったみたいで」。
判で押したような曖昧さ。人間の記憶は確かに当てにならないが、全員が同じ言い回しをするのは自然じゃない。
裏社会には、証拠を消すプロがいる。だがカメラの映像と人間の記憶を同時に操作できる組織なんて、俺の知る限り存在しない。公安でも無理だ。CIAだって、こんな芸当はできないだろう。
だから、これは商売の種だ。
説明のつかない現象の裏には、必ず誰かの意図がある。意図があるなら構造がある。構造があるなら、暴ける。それが俺の二十七年間の経験則だった。
四人目の依頼人が現れたのは、その日の夜だった。
篠崎と名乗った男は、四十代半ば。仕立てのいいスーツに銀縁の眼鏡。だが爪の手入れが雑で、靴底の減り方が左右非対称——見た目ほど金を持っていない。どこかの中間管理職が、背伸びして裏社会に足を踏み入れた、という匂いがした。椅子に座る前に袖口を二度引っ張ったのは、慣れない場所での緊張を隠す仕草だ。地下室特有のひんやりした空気に、篠崎は小さく身震いした。
「ある人物の、現在の居場所を知りたい」
篠崎が差し出した写真には、三十代の女が映っていた。写真の端がわずかに折れていて、何度も取り出しては眺めた形跡があった。
「元妻です。三年前に離婚して、それ以来連絡が取れない。探偵にも頼んだが見つからなかった」
嘘だ、と俺の直感が言った。元妻を探すだけなら、わざわざ歌舞伎町の地下まで来る必要はない。この男が本当に知りたいのは別のことだ。だが情報屋は依頼人の嘘を暴く商売じゃない。金を払うなら、欲しい情報を渡す。それだけだ。
二時間で居場所は割れた。元妻は新宿区内のマンションに別の名義で住んでいた。住民票を移していないから探偵では見つからなかったのだろう。俺は携帯番号と住所を篠崎に渡し、報酬の三十万を受け取った。
「ありがとうございます。これで——」
篠崎は言葉を切り、不自然に微笑んだ。その笑みは唇だけのもので、目には何か別の感情——安堵とも諦めともつかない、重たい光が滲んでいた。
「これで、ようやく終わります」
終わる。何がだ。
篠崎の声には、探し物が見つかった喜びではなく、長い荷物をようやく下ろすような疲弊が混じっていた。俺は一瞬だけ問い返そうとして、やめた。踏み込まないのが俺のルールだ。
だが篠崎は頭を下げて事務所を出て行き、鉄扉が閉まる音が地下に響いた。金属の残響が消えた後、事務所は換気扇の音だけに戻った。
翌日、篠崎は消えた。
携帯は繋がらない。自宅マンションに人が出入りした形跡がない。勤務先の商社に確認を入れると、「篠崎という社員は在籍していない」と返ってきた。昨日まで確かにいた人間の痕跡が、一晩で蒸発していた。
俺は監視カメラのダッシュボードを開き、篠崎が事務所を出た後の足取りを追った。雑居ビルの出口を出て、歌舞伎町の大通りを東へ。靖国通りを渡り、職安通り方面へ——そこで映像が途切れた。
やはり同じパターンだ。特定のエリアを境に、篠崎がフレームから消えている。
だが今回は、一つだけ違うものがあった。
篠崎が映像から消える直前のフレーム。画面の端に、もう一つの人影が映っていた。篠崎の三歩後ろを、同じ速度で歩く人影。フードを深く被り、顔は見えない。だが俺の目を引いたのは、その影の落ち方だった。
午後十一時。街灯は左から照らしている。通行人の影は右に伸びている。
フードの人影だけ、影が——なかった。
俺は画面を拡大し、何度も確認した。ピクセルの一つひとつまで目を凝らした。間違いない。人の形をして、人と同じ速度で歩いているのに、地面に影を落としていない。背筋を冷たいものが這い上がった。これまで十年、この地下室であらゆる情報を捌いてきたが、こんな映像は初めてだった。
これは人間の裏社会で起きていることじゃない。
椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。換気扇が回っている。錆びた羽根が軋む音が、やけに大きく聞こえた。蛍光灯の青白い光が目に染みて、まばたきを繰り返した。
まともな人間なら、ここで手を引く。警察に任せるか、見なかったことにするか。
だが俺は情報屋だ。知らないことがあると眠れない。わからないことがあると気が狂う。それは性分であり、病気であり、この地下室で十年生き延びてきた唯一の理由だ。
モニターに映るフードの人影を、もう一度見た。
影のない何かが、俺の客を連れ去っている。
「——面白いじゃねえか」
自分の声が地下室に反響した。口の端が自然と持ち上がるのがわかった。恐怖はある。だがそれ以上に、この十年で初めて感じる手応えがあった。解けない謎が目の前にある。それだけで、さっきまで薄っぺらく感じていた世界の輪郭が、急に鮮明になった。
俺は篠崎が最後に映っていた地点の住所をメモし、ジャケットを掴んで立ち上がった。