第3話
第3話
朝の光がまだ薄い時刻に、リオンは宿を出た。
木造の階段が軋む音が、静まり返った廊下に響いた。他の宿泊客はまだ眠っている。壁の向こうから低い鼾が聞こえた。
荷物はすでにまとめてある。革の鞄一つ。冒険者になって五年、持ち物は増えなかった。報酬が貯まらないのだから当然だ。装備も最低限、消耗品の予備もない。身軽と言えば聞こえはいいが、実態は空っぽなだけだ。鞄の留め金を締める指先が冷えていた。春の朝とはいえ、夜明け前の空気はまだ肌を刺す。
王都アルヴァスの朝は早い。石畳の大通りには荷馬車が轍を刻み、パン屋の煙突から白い煙が立ち昇っている。焼きたてのパンの匂いが風に乗って流れてきたが、腹は減っていなかった。昨夜は何も食べていない。食欲が湧かなかったのではなく、金貨五枚の残りでは宿代を払えば飯を選ぶ余裕がなかっただけだ。水だけは飲んだ。井戸の水は鉄の味がした。この街の水はいつもそうだった。五年間、慣れることはなかった。
ギルド本部の大扉をくぐる。重い樫の扉が蝶番を軋ませ、朝の冷気とともに薄暗い広間の空気が頬を撫でた。松脂の灯りと、革と汗と安酒が染みついた匂い。朝一番だというのに、広間にはすでに冒険者たちの姿があった。依頼掲示板の前で品定めをする者、受付カウンターで報告を済ませる者。日常の風景だ。この風景の中に、五年間立っていた。端の方に、誰の目にも留まらない場所に。
ヴェルクは受付カウンターの前にいた。エリーゼとガルドを左右に従え、まるで裁きの場に立つ審判官のように腕を組んでいる。周囲の冒険者たちの何人かが、すでにこちらを見ていた。朝から「鉄壁の盾」が揃っている。何かあると察しているのだろう。好奇と、ほんの少しの同情。その視線の配分をリオンはよく知っていた。五年もいれば、誰がどんな目で自分を見ているかくらいは分かるようになる。
「来たか」
ヴェルクの声は淡々としていた。昨日の廊下と同じ温度。感情を排した、決定事項を伝えるだけの声。
「単刀直入に言う」
広間の喧噪が、潮が引くように薄れた。近くにいた冒険者たちが会話を止め、こちらに耳を傾けている。ヴェルクはそれを意に介さない。むしろ——聞かせるつもりだ、とリオンは悟った。公開処刑と同じだ。衆目の前で切り捨てることで、「鉄壁の盾」の決断が正当であると宣言する。パーティの評判管理。ヴェルクは昔からそういう男だった。
「リオン・フェルド。本日付でパーティ『鉄壁の盾』からの除名を通告する」
広間に声が響いた。石の壁に反射し、天井の梁に当たって返ってくる。ヴェルクは聴衆を意識した声量で、一語一語を刻むように続けた。
「理由は明白だ。パーティの年次査定でA+からAへの降格が確定した。原因は構成員の貢献度の偏り——要するに、足手まといがいたってことだ。Dランクの支援術師を五年も抱えた俺たちの温情に感謝しろとは言わねえが、これ以上パーティの看板に泥を塗られるのは我慢ならない」
広間が静まり返った。受付カウンターの向こうで、リネットがペンを止めたのが視界の端に映った。誰かが唾を呑む音がした。それ以外は、松明の炎が揺れるかすかな音だけだった。
「エリーゼ。何かあるか」
「……ないわ」
エリーゼは杖を胸の前で抱えたまま、視線を落とした。唇が微かに動いたが、声にはならなかった。白い指が杖の柄を強く握りしめていた。関節が白くなっている。五年間、一度だけエリーゼがリオンのバフに「助かった」と言ったことがある。一年目の冬、凍結ダンジョンで魔力が底を突きかけたとき。あれ以降、その言葉を聞いたことはない。
「ガルド」
「……異論はない」
ガルドの声は低く、短かった。壁を見ていた。リオンを見なかった。いつもそうだ。この男は、都合の悪い場面では絶対に目を合わせない。鍛え上げた腕を組んだまま、壁の松明の揺らめきをぼんやりと見つめている。まるでここで起きていることが自分とは無関係であるかのように。
ヴェルクが受付カウンターに向き直った。
「リネット。除名の手続きを」
「……はい」
リネットが引き出しから書類を取り出す。手が、わずかに震えていた。ギルドの紋章が押された正式な除名証書。パーティ名、除名対象者名、日付、理由。全てが事前に記入済みだった。
——昨日のうちに用意していたのか。
リオンは書類を受け取った。羊皮紙特有の乾いた手触りが指先に伝わる。インクは完全に乾いている。少なくとも昨晩には作成されていた。「明日話がある」ではなかった。話など、最初からない。通告があるだけだ。結論は昨日の時点で——いや、おそらく査定結果を知った瞬間に決まっていた。
「署名欄はこちらです」
リネットが指し示す。彼女の目がリオンの顔を見上げていた。事務的な声の奥に、何かを堪えている色がある。琥珀色の瞳がわずかに潤んでいるように見えたが、それは松明の光のせいかもしれなかった。だがリオンは気にしなかった。同情は何も変えない。五年かけて、それも学んだ。
ペンを取る。安物の羽ペンで、軸が少し曲がっていた。インク壺に浸し、署名欄に名前を記す。広間の視線がリオンの手元に集まっているのを背中で感じた。拒絶も抗弁もない。Dランクの支援術師が、ただ静かに署名している。冒険者たちにとっては退屈な結末だろう。ドラマも反転もない、ただの事務手続きだ。
リオン・フェルド。
ペン先が紙を離れた瞬間だった。
右手の甲が、灼けた。
痛みではない。熱だった。昨夜感じた微かな疼きとは比較にならない、明確な熱。骨の奥に埋め込まれた火種が、息を吹き返したような灼熱。紋様が——あの十五の年から消えなかった薄い痣が、内側から光を放っていた。白に近い蒼。紙面を照らすほどの輝きが、ほんの一瞬、署名したばかりの文字を浮かび上がらせた。
リオンは反射的に右手を握り込んだ。光は一秒も経たずに消えた。熱も引いた。だが指先に残る痺れだけは、しばらく消えなかった。
広間の冒険者たちは気づいていない。ヴェルクもエリーゼもガルドも、リオンの背中越しに書類を見ていただけだ。署名の瞬間に手元を凝視していた人間は、この場に一人しかいない。
リネットの目が、見開かれていた。
カウンター越しに至近距離で見ていた彼女だけが、その光を——紋様から溢れた蒼い光を目撃していた。唇が微かに開いたが、声は出なかった。ペンを握ったままの手が、カウンターの上で凍りついている。
リオンはペンを置いた。
「手続きは以上か」
「……は、はい。除名処理は本日付で完了します。冒険者登録自体は個人に帰属しますので、他のパーティへの加入や個人活動は引き続き——」
「わかった」
振り返らなかった。ヴェルクの方も、エリーゼの方も見なかった。見る必要がなかった。別れの言葉も、恨み言も、何一つ持ち合わせていない。五年分の空白は怒りにすらならなかった。ただ、終わったのだ。最初からなかったものが、形式上も消えただけのことだ。
ギルドの大扉を押し開ける。朝の光が目を射した。さっき入ったときよりも日は高くなっていて、石畳が白く輝いている。王都の大通りは活気づき始めていて、商人たちの呼び声と馬車の車輪の音が石壁に反響している。その雑踏の中へ、リオンは歩き出した。
鞄一つ。金はほとんどない。行く宛てもない。
だが足取りは、五年間のどの朝よりも軽かった。
右手の甲に、かすかな熱が残っている。紋様は沈黙に戻っていたが、消えてはいなかった。十二年間、ずっとそこにあったものだ。今さら消えるはずもない。ただ——初めて、それが自分の一部であることを、重荷ではなく感じた。
* * *
リオンの背中が大扉の向こうに消えた後、リネットは署名済みの除名証書をファイルに綴じる手を止めた。
蒼い光。紋様から溢れた、あの一瞬の輝き。見間違いではない。カウンターの天板に落ちた光の残像が、まだ瞼の裏に焼きついている。
ギルドの受付嬢として三年。鑑定式の補助を何度も務めてきた。スキルが覚醒する瞬間の魔力の挙動は見慣れている。だが、あれは通常の覚醒パターンとは違った。後天的に獲得したスキルの発現は穏やかな光を伴う。先天スキルの解放は、もっと激しい。あの光は——どちらでもなかった。封じられていた何かが、枷を外されたときの輝き方だった。
「あの光……固有スキルの、顕現?」
呟いた声は、自分にしか聞こえなかった。広間の喧噪が戻り、冒険者たちがそれぞれの朝を再開している。ヴェルクたちはもう奥の酒場に消えていた。
リネットは除名証書の写しを手に取り、リオン・フェルドの署名を見つめた。Dランク、汎用支援術師。五年間の貢献度記録——空白。丁寧で癖のない筆跡だった。怒りも未練も滲んでいない、ただ事実を記しただけの署名。あの場でこの文字を書ける人間がどれほどいるだろうか。
だが今この手が震えているのは、記録の空白のせいではない。
王都を出たあの男の右手に、何が眠っていたのか。リネットには、確かめる術がなかった。