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万象律の支援術師

第2話 第2話

第2話

第2話

翌朝、ギルド本部の査定室に呼び出された。

 石造りの部屋は窓が一つしかなく、朝の光が細い帯となって長机の上を横切っている。空気はひんやりと乾いていて、かすかに古い紙とインクの匂いがした。壁には歴代のSランクパーティの紋章が額装されて並び、その下に「鉄壁の盾」の四人が座っていた。向かいにはギルドの査定官——白髪交じりの痩せた男が、分厚い書類の束を前に置いている。

「では、パーティ『鉄壁の盾』の年次査定結果を通達する」

 査定官の声は平坦だった。感情を排した、何百回と繰り返してきた業務の声。

「現行ランクA+に対し、総合評価Aへの降格を決定。異議申し立て期間は本日より十四日間。以上だ」

 沈黙が落ちた。窓から差し込む光の帯の中を、埃がゆっくりと漂っている。誰も、その埃ほどにも動かなかった。

 ヴェルクの椅子が軋んだ。腕を組んだまま、顎を引いて査定官を睨んでいる。こめかみに血管が浮いているのが、リオンの位置からでも見えた。

「……理由を聞かせろ」

「書面の通りだ。直近六ヶ月間の任務達成効率が基準を下回っている。特にA級ダンジョンの攻略速度が前年比で一・四倍に悪化。加えて、パーティ構成員の個別貢献度に著しい偏りが認められる」

「偏り、だと?」

 ヴェルクの声が低くなった。抑えているのがわかる。この男が本当に怒ったとき、声は逆に静かになる。五年も見ていれば嫌でも覚える。

「具体的に言え。誰の貢献度が足りないんだ」

 査定官は書類をめくった。紙が擦れる音が妙に大きく響く。

「個別の数値は開示規定上、パーティリーダーにのみ別途通知する。ただし——」

 査定官の視線が一瞬、リオンに向いた。すぐに書類に戻ったが、その一瞬で十分だった。

 ヴェルクも、見ていた。

「——もういい。わかった」

 ヴェルクが立ち上がる。椅子が石の床を削り、耳障りな音を立てた。査定室を出る背中に、エリーゼとガルドが続く。リオンは最後に立ち上がり、査定官に軽く頭を下げて部屋を出た。査定官は何も言わなかった。

   * * *

 ギルド本部の廊下。人通りのない東棟の突き当たりで、ヴェルクが振り返った。

「——A+からA、か」

 壁に背を預け、腕を組む。窓から差す光が顔の半分だけを照らし、もう半分は影に沈んでいた。穏やかな表情ではなかった。だが怒号が飛んでこないのが、かえって不気味だった。

「足を引っ張ってるのは誰だ」

 ヴェルクの目がリオンを射抜いた。

 エリーゼが壁際で杖を抱え、視線を床に落とした。ガルドは腕を組んだまま、窓の外を見ている。二人とも、リオンを見なかった。見ないことで、答えていた。

「査定官が俺を見た。あの目の動き、お前も見ただろう、エリーゼ」

「……」

「ガルド」

「……聞こえてた」

 ガルドの返事はそれだけだった。肯定でも否定でもない。だが、否定しなかった。それが答えだった。

 リオンは黙っていた。反論の材料がないわけではない。昨日の坑道でも、自分のヘイストがなければヴェルクの剣は届かなかった。ブーストがなければエリーゼの火球は群れを一掃できなかった。ガルドの盾が持ったのも防御強化があったからだ。

 だが、それを証明する手段がない。

「……一つ、確認したいことがある」

 リオンは査定官の言葉を反芻していた。個別貢献度の偏り。その数値はリーダーに通知される。つまり、記録が存在するはずだ。

「ヴェルク。俺の過去五年分の個別貢献度記録を、見せてくれないか」

「あ?」

「パーティリーダーには個別数値が開示される。五年分の記録があるはずだ。俺がどれだけ足を引っ張っていたのか——あるいは引っ張っていなかったのか、それで分かる」

 ヴェルクが一瞬、目を細めた。逡巡——ではない。何かを計算する目だった。

「いいぜ。見せてやる。ギルドの受付で閲覧申請すりゃいい」

 その声に含まれた余裕が、リオンの胸に小さな棘を刺した。

   * * *

 受付カウンターの奥、記録室。埃っぽい棚が壁を埋め、革表紙の台帳が年度ごとに並んでいる。魔導灯の青白い光の下、受付嬢のリネットが端末に情報を打ち込んでいた。栗色の髪を耳にかけ直し、画面を確認する。

「リオン・フェルドさんの個別貢献度記録ですね。パーティ『鉄壁の盾』所属、過去五年分……」

 リネットの指が止まった。

「……あの、少々お待ちください」

 画面を何度かスクロールし、別の端末でも検索をかけている。眉が寄っていくのがわかった。

「どうした」

「記録が……ほとんど、ありません」

 リネットが画面をリオンの方に向けた。

 五年分の任務記録。百を超えるダンジョン攻略の履歴。その全てにおいて、リオンの個別貢献度の欄は——空白だった。数字が並ぶべき列が、最初の行から最後の行まで、何も刻まれないまま白く続いている。

「支援術の効果は、受益者の数値に加算される仕組みになっています。剣士の攻撃速度が上がれば剣士の貢献として記録され、魔導士の火力が上がれば魔導士の貢献として……」

「——支援術師の欄には、何も残らない」

「はい。制度上、支援術の効果は『直接攻撃・防御に寄与した者』の実績として計上されます。支援術師個人の項目は……自己申告による任務報告書で補う仕組みですが」

 リネットが別のファイルを開いた。

「リオンさんの自己申告報告書は、五年間で一通も提出されていません」

 知らなかった。

 五年間、報告書を出せなどと誰にも言われなかった。ヴェルクからも、ギルドからも。パーティに入った初日に渡された書類の山の中に、もしかしたらその説明はあったのかもしれない。十八の自分は読み飛ばしたのかもしれない。どちらにしても、結果は同じだ。

 五年分の功績が、どこにも存在しない。

 ヴェルクのヘイストによる剣速向上は、ヴェルクの実績になった。エリーゼのブーストによる火力増幅は、エリーゼの実績になった。ガルドの防御強化の効果は、ガルドの実績になった。リオンの名前が刻まれた場所は、どこにもない。あの戦場で流した汗も、詠唱で枯らした喉も、全てが他人の数字の中に溶けて消えていた。

「……そうか」

 リオンは画面から目を離した。怒りはなかった。驚きも、もうない。ただ、五年間の輪郭がはっきりと見えた気がした。霧の中を歩いていたのではない。最初から、道がなかったのだ。

「あの……リオンさん」

 リネットが何か言いかけた。その目には、事務的ではない色があった。だがリオンは「ありがとう」とだけ言って記録室を出た。

 廊下を歩く。すれ違う冒険者たちの笑い声が、水底の音のように遠い。ギルドの広間に戻ると、ヴェルクが柱に背を預けて待っていた。

「見たか?」

「ああ」

「で、どうだった」

 ヴェルクは知っていた。記録に何も残らないことを。だから余裕があったのだ。見せてやる、と。見たところで何も証明できないと、わかっていたから。

 リオンは何も言わなかった。言葉を探したのではない。言うべきことが、もう何もなかった。ヴェルクは鼻で息を吐き、背を壁から離した。

「明日、ギルドで話がある。朝一で来い」

 それだけ言って、ヴェルクは広間の奥へ消えた。

   * * *

 宿の部屋に戻り、窓を開けた。

 王都の夕暮れが、昨日と同じ色で屋根を染めている。同じ煙突から同じ煙が上がり、同じ路地から同じ喧騒が聞こえてくる。何も変わらない風景の中で、リオンだけが昨日とは違う場所に立っていた。

 明日、ヴェルクが何を告げるか。考えるまでもない。

 だが今夜、リオンの頭を占めていたのは、明日のことではなかった。

 五年分の空白。あの画面に映った、自分の名前の隣の白い空間。誰のせいでもない。制度がそうなっていて、自分が知らなかっただけだ。恨む相手はいない。——だからこそ、たちが悪い。怒りをぶつける先がないまま、感情だけが胸の底で行き場を失って澱んでいる。

 右手の甲を見た。薄い紋様。昨夜、光った気がしたそれは、今は何の変哲もない痣にしか見えない。

「……明日か」

 呟いて、灯りを消した。ヴェルクの言葉が耳に残っている。「朝一で来い」。冷たいが、簡潔だった。あの男が切り捨てると決めたとき、声は余計なものを一切含まなくなる。感情すら、もう向けてこない。

 闇の中で、右手の紋様がまた微かに疼いた。光ではない。熱だ。昨夜よりも、ほんの少しだけ強い。

 ——明日、何かが終わる。

 リオンはそれを、怖いとは思わなかった。

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